メッセージ - A年 待降節

 

教会とともに、私たちは受難週(聖週間)に入り、枝の主日を迎えます。この日は喜びに満ちていると同時に、受難の色合いも帯びています。典礼は私たちを「ホサナ!」という歓声から、群衆自身が叫ぶ「十字架につけろ!」という叫びへと導きます。この対比こそが、神の救いの愛の神秘をより深く理解させてくれるのです。

第一朗読は、私たちに神の僕の姿を示しています。
「私は私を打つ者に背を任せ、ひげを抜く者に頬を差し出した。私は顔を隠さず、嘲りと唾を受け入れた。」(イザヤ50・6)

これは受難におけるイエスを予告する姿です。主は無力だから苦しみを受け入れたのではなく、御父の御心に従うためにそれを受け入れました。主はこう信じておられました。「主なる神が私を助けてくださる。だから私は辱めを受けることはない」(イザヤ50・7)。

聖アウグスティヌスはこう述べています。「愛ゆえにこそ、主は苦しみを受けられた。もし愛がなかったなら、十字架につけられることはなかったであろう。」愛こそが十字架を理解する鍵です。愛がなければ十字架は無意味な苦しみにすぎませんが、愛があれば十字架は救いの源となるのです。

第二朗読は、最も美しい賛歌の一つです。
「イエス・キリストは神の身分でありながら…へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」(フィリピ2・8)
しかしまさにそのゆえに、「神はキリストを高く上げられました」(フィリピ2・9)。

これはキリストの道です。すなわち、へりくだりから栄光へ、十字架から復活へ至る道です。第二バチカン公会議は次のように教えています。「人間の神秘は、受肉したみことばの神秘においてのみ真に明らかにされる」(『現代世界憲章』22番)。つまり、イエスを見つめるとき、私たちは自分自身の召命を理解するのです。それは、愛し、自己をささげ、従順に生きることです。

本日の福音は、私たちを主の受難へと導きます

そこに描かれる一つ一つの出来事には、愛と裏切りが満ちています。ユダは師を売り、ペトロは主を否認し、弟子たちは逃げ去り、群衆は背を向けます。

頂点にあるのは、十字架上の叫びです。「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」。これは絶望の叫びではなく、深い信頼に満ちた祈りです。イエスは人類の孤独を引き受け、私たちを贖うためにそれを担われました。

聖イレネオはこう述べています。「神の子は私たちのようになられた。それは、私たちが神の子のようになるためである。」すなわち、キリストは人間の境遇の最も深いところまで降りて来られ、私たちを神の子としての身分へと引き上げてくださったのです。

枝の主日にあずかる私たちは、ただ枝を手にして歓呼するだけでなく、十字架の道を歩まれるキリストに従うよう招かれています。時に私たちは群衆のようです。今日には歓呼しながら、明日には背を向けてしまうのです。私たちの信仰は状況によって揺れ動きやすいものです。

だからこそ、第二バチカン公会議はこう勧めています。「キリスト者は、それぞれの生活の場において聖性へと招かれている」(『教会憲章』11番)。

それはすなわち、日々の生活の中で十字架の精神を生きることを意味します。試練の中で忍耐し、務めに忠実であり、傷つけられるときにもなお愛し続けることです。

今日私たちが手にする枝はやがて枯れてしまいます。しかし、キリストの愛は決して朽ちることがありません。主は、ただ枝をもって迎えるだけでなく、私たちの人生そのものをもって主を迎えるよう招いておられます。すなわち、信仰、回心、そして真実の愛をもって迎えることです。

私たちは熱心な心で聖週間に入りましょう。エルサレムからカルワリオの丘に至るまでイエスに従い、そして主とともに復活の光へと歩みましょう。

どうか私たち一人ひとりが、「ホサナ」と口先だけで叫ぶのではなく、生活全体をもってそれを表すことができますように。そして、日々自分の十字架を担う勇気が与えられますように。十字架の後には栄光があり、苦しみの後にはいのちがあることを信じて歩むことができますように。

Tuong Vu