聖書の解釈 - 聖書を読む人のための手引き

 

聖書は、私たちの救いのために必要な真理を誤ることなく伝えていると認めても、この真理をどのように見分けることができるか、また別の言い方をすれば、聖書を読んで自分が見えてきたことは神が私に伝えたかったことであるかどうかということをどのように確かに知ることができるのでしょうか。というのは、聖書において神の言葉は、人間の言葉で表現されていますので、他の人間の言葉と同じように、この言葉からいろいろな意味を読み取ることができる、つまり、この言葉のいろいろな解釈、その内に間違った解釈が可能であるということです。このような可能性は、聖書を読むに当たって、現実的で、非常に大きな問題なのです。

 

第2バチカン公会議の公文である「神の啓示に関する教義憲章」の中で、この問題について、次のように書いてあります。「神は、聖書の中で、人間を通して人間の方式で語ったので、聖書の解釈者は、神が何をわれわれに伝えようと欲したかを見極めるためには、聖書記者たちが実際に何を表現しようと意図したのか、神が彼らの言葉によって何を明らかにしようと望んだのかを、注意深く研究しなければならない」(『啓示憲章』12)。要するに、神が私たちに何を語るかということを読み取るために、まず、人間の作者が何を伝えようとしたか、また、この文書の最初の読者はこの文書をどのように理解したか、ということを正しく理解する必要があるということです。

 

◎ 聖書記者たちの意図を理解する

「聖書記者たちの意図を発見するために、当時の状況と文化、当時使われていた『文学類型』、当時普通であった感じ方、話し方、物語方を考慮する必要があります。実際、種々の方式での歴史的な、あるいは預言的な、あるいは詩的な書において、またその他の表現形式において、真理は違った方法で語られ、かつ表現されています」(カテキズム110)。

 

考えてみれば、本文が書かれた言葉さえ知らないがゆえに、翻訳でしか読めない聖書の一般読者には、読んでいる文書の表現形式や文書が関連している歴史的な状況を意識することがある程度まで可能であっても、この文書のもともとの意味を読み取ることは、全く不可能です。したがって、「聖書記者たちの意図を発見する」ことは、古典文学や聖書を専門的に研究している学者たちの仕事となります。けれども、私たちは、聖書をより正しく理解するために、学者たちが編集した聖書辞典や注解書などを勉強する必要があります。また、自分に分かる言語のいろいろな翻訳を読み、それを比較することによって、各言葉や表現の元々の意味やその範囲の理解を深めることも可能なことで、とても重要なことなのです。

 

◎ 聖霊の光のもとに読む

聖書を神の言葉として読む人にとって、人間の作者の文書を理解することは、神が語ってくださる言葉を理解するための手段に過ぎないものです。神の言葉を見出すために、人間の作者の言葉の真の意味を基礎にして、聖書の作成に関わったすべての人を導いてくださった聖霊に照らされて聖書を読み、解釈しなければならないのです。自分の理性だけを頼りにし、聖霊の導きを無視して、また、聖霊の存在や聖霊の働きさえも信じないで聖書を読むことは、他の本を読むことと同じことになります。聖書を研究して聖書記者の言葉の意味が分かっても、神の言葉を理解することができないということになるわけです。聖霊の光のもとに聖書を読むために、まず信仰と聖霊の導きに従いたいという望みが絶対不可欠なものになります。聖書を読む前に、聖霊に導きを願い求めることは、この信仰を新たにし、心を開くために大切なことになります。聖書を読む前に、例えば、次のような祈りを唱えることができます。

 

「聖霊、来てください。

いつも、聖書の言葉を通して、私に語り、

神の愛を現して、導きを与えてくださることを感謝します。

神の言葉を理解することができますように、

私の心を開き、理性、感覚、記憶を照らしてください。

理解したことを実行し、愛に成長することができますように、

私の心をあなたに対する信頼と愛で満たし、力付けてください。

私たちの主、イエス・キリストによって。アーメン。」

 

けれども、聖霊の導きに従って聖書を読むつもりであっても、また、自分が聖霊の導きに従って聖書の言葉を解釈しているという強い確信を持っていても、実際に、自分の考えや望みにだけ従い、場合によっていろいろな先入観に支配されて、全く間違った結論を出すことは、決して珍しいことではありません。このような危険性を避けて、聖書の読者が、実際に聖霊の導きに従って聖書を読み、それを解釈するために、第 2 バチカン公会議の公文において教会が三つの規則を与えています(カテキズム112-114参照)。

  • 第1の規則は、聖書全体の内容と一体性に特別な注意を払うこと、
  • 第2の規則は、教会全体の生きた伝承に従って聖書を読むこと、
  • 第3の規則は、信仰の類比に留意することです。

 

◎ 聖書全体の内容と一体性に特別な注意を払う

聖書に含まれている書は、千年以上の間で、全く異なる状況において生きていた非常に多くの人々によって作成れていますが、同時に、神の自己啓示の発展と神の救いの計画の実現の過程を表すもの、最初からはっきりとした目的を目指しておられた聖霊の導きに従って作成されたものです。つまり、神が聖書のすべての書の真の作者ですので、すべての書が、絶対に互いに矛盾していない神の言葉を伝えているのです。確かに、聖書記者は書き記した様々文書を通して、互いに矛盾していることを伝えていますが、各々文書によって伝えられている神の言葉を見出せば、この言葉は、矛盾していないだけではなく、互いに補い合いながら、一つの真理を伝えているということが分かります。

 

例えば、創世記の第1章によると、神に象って、神の似姿として創造された人間は、最初から男と女に創造した。けれども、創世記の第2章によれば、神は、まず男だけを土から創造しました後、女を、しかも、男のあばら骨から創造したのです。この物語を表面的なレベルだけで見れば、互いに矛盾していて、一つが事実であるならば、もう一つは嘘になるわけです。けれども、この物語が伝えている普遍的な真理を見出せば、二つとも、同じ人間の別の側面を表し、より完全に人間についての真理を教えているということが明らかになります。要するに、人間には、神ご自身に象る霊的な次元、例えば、不滅の霊魂や愛する能力などがあると同時に、この世の一部である肉体的な次元もあるという真理と、性別などのような違いがあっても、すべての人は同じ本質を所有しているがゆえに平等であり、互いのために愛の対象になり得る存在であるという真理なのです。

 

旧約聖書の神は、正義の神で、厳しくて、時に残酷な方であるが、新約聖書の神は、優しくて、いつくしみ深い方であるという印書を受ける人が非常に多くいるようです。けれども、このような印象は、聖書の表面的な読み方の結果に過ぎないものなのです。実は、旧約聖書も、新約聖書も、同じ神の言葉ですし、同じ神を現しているのです。聖書全体は、イエス・キリストを頂点とする神の自己啓示の発展とイエス・キリストの受難と復活を中心とする神の救いの計画の実現の過程を伝えていますので、確かに、聖書において啓示や救いの計画の様々な段階と、人間の様々な受け止め方や理解の仕方が見出せます。ですから、神の真の啓示と真の働き、つまり神の言葉と、人間の、時に不十分、時に間違った反応や表現、つまり人間の言葉を区別して、旧約聖書を正しく理解するために、イエス・キリストの行いと言葉、また、イエスの死と復活を基準にして、旧約聖書を読まなければならないのです。

 

でも、逆にも言えます。つまり、新約聖書、もっと具体的に言えば、イエス・キリストの行いと言葉を正しく理解するために、神が遣わしてくださったメシアのための準備の期間でもあって、イエスの生涯の環境と同時に活動の舞台にもなった旧約聖書を読む必要があるということです。実は、新約聖書と旧約聖書は、互いに矛盾していないだけではなく、互いに照らし合っているのです。この事実を聖アウグスチヌスの言葉がきれいに表現しています。「新約が旧約のうちに秘められ、旧約が新約のうちに明らかとなる」(「七書についての諸問題」2・73: カテキズム129参照)。

 

神の計画の一貫性の結果である、聖書全体の一貫性を認めることは、部分的な個所から間違った結論を出さないために、非常に大事なのです。例えば、イエスが語った「放蕩息子」のたとえ(ルカ15・11-32)から、神は、回心した罪人を必ず受け入れてくださるという正しい結論を出しても、神は、たとえの父と同じように、罪人の回心を待っておられても、この人の回心のために何もなさらないという間違った結論を出すことも可能です。けれども福音記者聖ルカが、「放蕩息子」のたとえの前に乗せた「見失われた一匹の羊」のたとえ(ルカ15・4-6)の中心的なメッセージを見れば、神は、罪人が回心するように、たとえの羊飼いと同じように働いてくださることが分かります。つまり、神がたとえの父と同じように、罪人の回心のために何もなさらないという結論は、間違っているということも分かるわけです。実は、聖書全体が現している通りに、神は、罪人をご自分のもとに導き、愛の交わりに受け入れるために、常に働いておられます。そのためにこそ、御ひとり子を罪人のところに遣わしてくださった、また、イエス・キリストにおいて神ご自身が私たちのところに来てくださったということも言えるのです。

 

要するに、聖書全体の内容と一体性に特別な注意を払うとは、聖書全体が、一人の作者である神ご自身によって作成された一つの書物として認めた上で、自分が聖書の別々の個所から互いに矛盾しているような結論を出したら、その内の少なくとも一つの結論が間違っている(両方とも、間違っているという可能性もある)ということを認めるということなのです。また、いろいろな所から読み取った様々なメッセージの関連を見出して、それを一つの大きなメッセージに繋げたり、一つの個所から読み取った神の言葉によって、他の個所を照らしたり、その理解を深めたりすることでもあるのです。

 

確かに、いくら考えても、いくら祈っても、他の個所で見出した神の言葉と調和しているようなメッセージを、なかなか見出すことのできない個所が聖書にあります。けれども、神の言葉を信頼して、聖書を忍耐強く読み続け、読んだことを正しく理解するためにできることをし続けると、教会が教えている通りに、聖書全体は、一貫し、調和のとれたメッセージを伝えていて、表面的に読むときには全く関係ないか、矛盾している書や個所は実際に深く繋がっているということが少しずつはっきりと見えてきます。そのとき、本当に同じ霊がすべての聖書記者を導いてくださったこと、神ご自身が聖書の真の著者であるという事実を実感できるのです。

おそらく、この実感は、聖書を忍耐強く読み続けることの一つの大きな実り、一つの大きな恵みです。この恵みを受けた人は、大きな安心と確信をもって聖書を読みながら、神との対話を続けることができると同時に、人類の歴史においても、自分自身の人生においても、神の働き、神の導きを見出すことができるようになります。結果的にこの人は、この世が与えることのできない安心と喜び、また、何よりも強い希望に満たされて生きるようになるのです。

 

◎ 教会全体の生きた伝承に従って聖書を読む

ペトロの第2の手紙の中に次のように書かれています。「何よりもまず心得てほしいのは、聖書の預言は何一つ、自分勝手に解釈すべきではないということです。なぜなら、預言は、決して人間の意志に基づいて語られたのではなく、人々が聖霊に導かれて神からの言葉を語ったものだからです」(2ペト1・20-21)。「自分勝手に解釈すべきではない」というのは、一人で聖書を読んだり、個人的に解釈してみたりすることではありません。いけないのは、イエス・キリストの証人であり、イエス・キリストからイエスの名によって教える権威を与えられた使徒たちの教えを無視すること、また、彼らの教えに逆らうような聖書の解釈の仕方です。

 

使徒性は、新約聖書に属している書を識別するための中心的な基準でしたので、新約聖書のすべての書が使徒たちの教えを伝えているという確信を持つことができます。けれども、使徒性が新約聖書の正典化の過程において中心的な基準であったというのは、教会は、聖書が形成される前にすでに、聖書と異なる形において使徒たちの教えを持っていたということです。教会は、文書以外の形で使徒たちから受け継がれたものも、イエスの福音を忠実に伝えるものであると信じて、それを聖なる伝承として認めて、「聖伝」と呼びます。

 

使徒たちは、3年以上にわたりイエス・キリストに従っていて、イエスが語った言葉を聞くことによってだけではなく、イエスの行いやいろいろな人々に対するイエスの態度を見ること、また、イエスと共に祈ったり、食事をしたり、旅をしたりすること、また、他の様々な体験をすることによってイエスから言葉で表現できないことを含める多くのことを学びました。イエスが受難を受ける前にも、復活された後にも、イエスと接することによって、また、イエスが遣わしてくださった聖霊を受けて、聖霊の働きによって彼らの考え方、彼らの生き方、彼ら自身が変わったのです。したがって、彼らは、イエスから与えられた使命を果たし、イエス・キリストの福音を宣べ伝えるために、説教したり、聖書に基づいて他のユダヤ人と論じ合ったりしただけではありません。彼らは、自分たちの生き方とか、多くの奇跡を含む宣教活動や回心した人々に洗礼を授け、キリスト者の共同体とその組織を作ること、また、他のキリスト者と共に祈りや貧しい人々を助けたりすることを含む共同体の生活によって、言葉のみで伝えることのできないことを伝えたのです。

 

聖パウロは、キリスト者たちに(後で新約聖書の一部となった)手紙だけではなく、口で伝えたことも、自分の生き方によって伝えたことも固く守るように呼び掛けていました(2テサ2・15、1コリ11・1)。その通りに、教会は、2000年前から、聖パウロと他の使徒たちから受け継いできたことをその教えと生活、また典礼などにおいて保ち、それを次々の世代に伝えてきたし、これからも、世の終わりまで、伝え続けるのです(カテキズム78、『啓示憲章』8参照)。

 

教会は、聖伝と聖書の繋がり、また、両者の重要性を次のように説明しています。「聖伝と聖書とは互いに密に結びつき、通じ合っている。というのは、神という同じ源から流れ出ている両者は、ある程度は一体であって、同一の目的を目指しているからである。実に聖書は、神の霊の息吹によって書き記されたものであるかぎり、神の語りかけであり、他方、聖伝は、主キリストと聖霊から使徒たちに託された神のことばをその後継者たちに余すところなく伝達するものである。こうして彼らは、真理の霊に照らされながら、神のことばを告げ知らせつつ忠実に保ち説明し広めるのである。したがって、教会が、啓示されたすべてのことについて確信を得るのは聖書だけからではない。それゆえ、両者は等しく敬虔な心と尊敬の念をもって受容され尊重されなければならない」(『啓示憲章』9)。

私たちは、教会が保ってきた聖伝に従って聖書を読み、それを解釈するならば、使徒たちが伝えた教えを忠実に解釈している、つまり聖書を正しく理解しているという確信を持つことができます。使徒たちから受けた聖伝は、聖書と同じように変わることがありませんが、教会の聖伝の理解が常に深まっています。ですから、聖伝に従って聖書を読むとは、昔から伝わってきたことをそのまま繰り返すのではなく、聖伝に逆らわないように注意しながら、それを自分の現状に適用したり、現代の人に分かりやすい言葉で表現したり、その理解をさらに深めたりするということなのです。

 

◎ 信仰の類比に留意する

聖伝に従って聖書を読むつもりであっても、聖伝を間違った解釈をすれば、聖伝に従うことにはなりません。そのために、聖書を正しく読むための第3の規則は、信仰の類比に留意することになっています。この規則の意味を理解するために、まず、使徒たちの後継者の役割と教会の教導職のことを理解する必要があります。

 

教会は、聖書と聖伝という形において、神の言葉(福音)という信仰の聖なる遺産を直接的に、または、間接的に、使徒たちから受けました。この信仰の遺産を保つこと、それを説明すること、また、それを広めることは、使徒たちの後継者である司教たちの務めです。このような務めを与えられた司教たちは、聖ペトロの後継者であるローマの司教、つまり教皇様と一致しているときに、教会の教導職となっています。実は、教会の教導職にだけ、使徒たちを通して教会が託された神の言葉であるイエスの福音を決定的に解釈する権威があるのです。

 

教会の教導職について、第2バチカン公会議は、次のように教えています。「その権威は、イエス・キリストの名において行使される。もちろん、この教導職は、神のことば上にあるのではなく、これに奉仕するものであって、伝承されたものだけを教えるのである。すなわち、神の命令と聖霊の助けによって神の言葉を敬虔に聞き、尊く保ち、忠実に説明する。しかも、神により啓示された信じるべきこととして提示するすべてのことを、この一つの信仰の遺産からくみ取るのである」(『啓示憲章』10)。

 

ですから、誰かが聖伝に従って聖書を読み、使徒たちが伝えた教えに忠実に聖書を解釈したいならば、自分の考えよりも、教導職による教会の正式的な教えを優先にしなければならないのです。それは、自分の結論が教会の教えに矛盾しているならば、間違っているのは、教会ではなく、自分自身であるということを素直に認めた上で、間違った結論を手放すことなのです。このように、教会の教えは、聖書を読む人を間違った解釈から守っているわけです。

 

一つの例として「罰」のことを考えてみましょう。新旧約聖書の多くのところで、「神が罰を与える」と述べられています。教会の教えを知らずにそのような個所を読むと、神はいつくしみ深い父であるのではなく、この世の権力者のように自分の権利を守るために、それに逆らった人を復讐するような方、または、無慈悲な審判者のように、人の内面的な状態や動機を無視して、この人の善を全く考えずに、法律に定めた刑罰を下すような方であるというような間違った結論を出すことがあり得ます。けれども、罰と言われているのは、「外部から神によって行われる一種の復讐ではなく、罪の本性そのものから生じるものと考えるべきです」(カテキズム1472)という教会の教えを知ったら、神は、罪となる人の行いの結果を許しても、罪人を罰するために、彼をいろいろな苦しみに合わせたり、彼に苦しみを与えたりするような方ではないということが分かります。罰について教会の教えを土台にして聖書を読むと間違った結論を出すのを避けることができるだけではなく、今まで絶対にそれがありえないと思った個所にも、イエス・キリストが現してくださったいつくしみ深い父の姿を見出すことができるのです。このように、教会の教えは、聖書を読む人を間違った解釈から守るだけではなく、聖書の言葉の理解を促し、それを深めるのです。

 

考えてみれば、初代教会のキリスト者は、新約聖書を読む前に、使徒の教えを熱心に聞き、使徒たちが伝えた伝承を受けて、それに生きていました(使2・41-42参照)。使徒たちの教えは、新約聖書に属する書を識別する基準になっていただけではありません。使徒たちが、イエスがなさったことや教えてくださったことに基づいて、旧約聖書を読んではじめて、聖書の言葉の真の意味を見出したように、キリスト者は、使徒たちから受けたことに基づいて新約聖書と旧約聖書を読んで、その言葉を理解していたに違いないと思います。私たちも、使徒たちの教えを伝え、それを正しく解釈している教会の教えに基づいて聖書を読むと、間違った解釈を避けることができるだけではなく、その教えを知らずに読むときに全然分からない言葉を理解すること、また、部分的にしか理解していなかった個所をもっと深く理解することができるのです。

 

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