今日の第一朗読に、若きヨシュアは、神の霊を受けて、預言状態にいるエルダドとメダドをやめさせるようにモーセに頼みました。この二人は長老に加えられましたが、彼らは宿営にとどまって、モーセや他の長老と共に主の幕屋に行かなかったからです。ヨシュアの願いに対するモーセの反応は大変興味深いです。「あなたは私のためを思ってねたむ心を起こしているのか」と答えました。モーセは後に自分の後継者となるヨシュアの心にひそむ思いがわかっています。ヨシュアはモーセへの思いことではなく、自分の利己心にとらわれて、そのことを訴えったのです。

同様の状況が福音書に描かれています。弟子たちは、イエスに従っていなかった人がイエスの名において病人を癒す奇跡を行ったことをみて、彼らをやめさせるようにイエスに願いました。第一朗読のヨシュアと同様、弟子たちはイエスのためにそのように願ったのではありません。弟子たちは、イエスの思いではなく、自分たちの利己心にとらわれています。

第一朗読の若きヨシュアの気持ち、そしてイエスの弟子たちの気持ちは私たちにもよく分かると思います。私たちは周りにいる人々を「内」・「外」、「他人」・「仲間」、「敵」・「味方」などを区別する傾向があります。その結果、人と関わる時にも、その人がやっていることを客観的に見るのではなく、既に自分の中に作り上げる見方で評価します。その結果、素直に良いことを良いこととして認めるのではなく、自分の仲間や自分のグループに属するかどうかが判断の基準となります。

イエスはそのように人を見る弟子たちの見方を正そうとするのです。「わたしたちに逆らわない者は、私たちの味方なのである」。イエスは弟子たちの中に作り上げられる偏見で物事を見るのではありません。イエスが弟子たちに理解して欲しかったのは、神の恵みの働きは人を分け隔てすることがないということです。神の働きは人間の好き嫌いによって制限されるものではないということです。

私たちが生きている世界はいわゆるグロバルな世界、皆がつながっている世界と同時に、国、民族、言語、文化や様々な主義主張によって人々を分け隔てる壁が次つと作り上げられる世界でもあります。グロバルな世界は同時に、分断されている世界でもあります。そこで、「身内の人はいつも正しい、外の人はいつも間違っている。自分や自分の仲間はいつも正当な側にいる。他人はいつも間違っている」。悪いことが起こると、「きっとこれはあの人たちがやったんだ!」と決めづけてしまいます。そのような偏見は、私たちも日常的に体験しているのではないでしょうか。自分たちが作り上げる偏見によって他人がやっている良いことを認めず、正しく評価することができなくなってしまいます。

まさに第二朗読のヤコブの手紙が非難した様々な社会不義の根底にあるのは、このような自己中心あるいは自分の身内中心あるいは自国中心主義的な私たちの心です。内と外、敵と味方、善人と悪人などの区別は私たち人間が作り上げるものです。もしかすると、神様の視点からは、内と外もない、敵と味方もない、善人と悪人さえないかもしれません。私たちはみな同じ、天の父の子に他ならないからです。

M. Pale Hera