メッセージ - C年 年間 |
マタイ福音書に描かれている山上の説教の場面では、「真福八端」と言われる8つの幸いの言葉が述べられます。一方、今日の福音朗読の箇所であるルカによる福音書6章では、イエスが12人を使徒として選んだ後、山から下りてきて、平地で4つの幸いと4つの不幸を語ります。
貧しい人々は幸い、神の国は彼らのものだから。今飢えている人々は幸い、満たされるようになるから。今泣いている人々は幸い、笑うようになるから。そして人々に憎まれ、人の子のために追い出され、ののしられ、汚名を着せられる人々は幸い、天には大きな報いがあるから、と言われます。
これに対し、富んでいる人々は不幸、もう慰めを受けているから。今満腹している人は不幸、飢えるようになるから。今笑っている人々は不幸、悲しみ泣くようになるから。すべての人にほめられるとき不幸、偽預言者たちもそうだった、とされます。
幸と不幸の両方の言葉を聞くと、今不幸な人は幸いに、今幸いな人は不幸になる、と言われているのがわかります。また、この今の幸いと不幸は、たまたまそうなっているということではなく、今富んでいて満腹で笑っていてほめられているのは不正なことをしているからであり、今貧しく飢えて泣いており迫害されているのは人の子に従っているからだ、と考えられているのも明らかです。神は決してその人々を捨ておくことはない、神の愛と義によって、幸いから不幸、不幸から幸いという逆転が必ずもたらされる、そう言われているようです。
私たちも、このようなイエスの深いまなざしを持つように呼ばれています。今傷つき苦しんでいる人々の悲しみを見て共感し、その原因となっている悪まで見通し、それを良しとせずに状況を変えるよう働きかける、そんな神の道具となるように招かれています。
メッセージ - C年 年間 |
私たちはだれでも、自分の歩みの指針として、あるいは弱く絶望的なときに力を与えてくれるエネルギーとして、人生のモットーや原動力となる言葉を持っているではないでしょうか。昨年、司祭に叙階されたとき、私はIn Verbo Tuo Laxabo Rete 「御言葉にしがって、網を降ろします」という今日の福音の中からの言葉を取り上げ、司祭としてのこれからの人生のモットーを選びました。このモットーから、私は自分の人生や召命にどんな困難があろうとも、神の言葉を信じて従うことを学んでいこうと思っています。もちろん、このモットーを選んだのには理由があります。ご存知の方も多いと思いますが、私は漁師の息子で、幼少期は父と漁をして過ごしました。私は海から人生の哲学的な意味について多くを教えてもらいました。人生はある意味で海のようなものです。穏やかなときもあれば、波立つときもります。喜びもあれば悲しみもあり、成功もあれば失敗もあります。中でも失敗に関して父は、よく次のようにアドバイスをしてくれました。「失敗は人生の終わりではなく、成功の出発点だ。最も大切なことは、最後まで戦い続け、決してあきらめないことだ。人生のあらゆる困難の中で、常に神に頼ることだ」と。これを私は今までの人生の中で思い起こし、従っています。では、私たちはどうでしょうか?
先ほど読まれた朗読では、「従順」について深く描かれています。第一朗読のイザヤの預言では、預言者イザヤが神の口寄せ人として召されたことが述べられています。「私はここにおります。私を遣わしてください」と。これは、神の御心に対するイザヤの服従の表現です。なぜなら彼は、自分を召してくださる神は、人間のあらゆる弱さを完成してくださるに違いないと信じているからです。 第二朗読のコリントの信徒への手紙の中で、パウロは自らが福音の告げ知らせる者としての召されていることを強調しています。それは彼の偉大さのためではなく、彼が神から受けた恵みのためです。そして今日の福音書で、ルカは最初の弟子が漁師として召されたことを紹介しています。船乗りであったペトロは、漁で何度も失敗しながらも神の言葉を信じて従った後、イエスから大きな報いを与えられました。ペトロは、「御言葉ですから、網を降ろしてみましょう」といいました。これはどういうことでしょうか。これが、神の御心に耳を傾け、実行しようとしたペテロの態度ではないかと思います。この従順さが、やがてペテロの人生に変化をもたらしました。前の晩の失敗による失望、苛立ち、怒りはすべて報われ、非常に豊かにさえなりました。
今日の福音の御言葉を通して私たちはペテロの信仰に倣うように教えられています。私たちは、神のすべての言葉に心を開き、神の御言葉を通して神から教えられたすべてのことに従い、忠実に実行するように招かれています。こうして、永遠の幸福が私たちの人生の一部となるのです。仕事や召命において多くの失敗を経験しても、決して絶望せず、あきらめず、むしろ何度でもやり直せるように心を開いてください。「御言葉ですから、網を降ろしてみましょう」というペテロの信仰が、私たちに神が私たちを決して失敗させたり、失望に沈ませたりということはないという希望を再び燃え立たせてくれますように。やがて神が私たちの人生に最良のものを与えてくださると信じ続ける限り、神は私たちに何が必要かを知っておられます。神が私たちの人生に豊かな祝福を与えてくださるよう、神への絶対的信頼を失わず、心を開いて従順の恵みを願い求めましょう。
メッセージ - C年 年間 |
典礼暦では、先週の「主の洗礼」で降誕節が終わり、年間に入っていきます。ちょうど今日の福音朗読はヨハネ福音書のカナの婚礼の箇所が読まれますが、ヨハネ福音書の中で、この出来事はイエスが洗礼者ヨハネと出会ってからおよそ一週間後に起こった出来事です。イエスが最初の弟子たちを呼ぶ時まではおよそ四日が立っており、そこから「三日目に」カナの婚礼がありました。残念ながら『聖書と典礼』のパンフレットには、「カナの婚礼」の箇所の最初にあったはずの「三日目に」という言葉が省かれています。その代わりに、カッコの中で「その時」という言葉に変えられています。カナの婚礼というイエスが行った最初のしるしを理解するために、本当はこの「三日目に」という言葉が大変重要です。
なぜ重要なのか、幾つかの理由がありますが、その一つは「三日目に」というのは、単にカナでの最初のしるしが起こる時間を示すだけではなく、イエスの最大のしるし、イエスの復活を思い起こす代名詞だからです。イエスは、十字架上でのご自分の死の後、三日目に復活しました。初代教会の時も、今の私たちも、イエスを信じる人々にとって、三日目というと、イエスの復活を思い起こすからです。
母の言葉に対して、イエスは「今は、その「時」がまだ来ていない」と返事しますが、まだ来ていないその「時」とは何の時かというと、「受難、死、復活の時」の時です。その時が確かにまだ来ていないということです。しかし、そう主張しながらも、イエスは母の頼みをきっかけに、最初のしるしを行いました。なぜでしょうか。イエスは何を言いたかったのでしょうか。それは、カナでの最初のしるし、そしてこれからイエスが行っていく様々なしるしは、その「時」が来たら必ず起こる最大のしるしである死と復活とは無関係ではないということを示したかったのではないでしょうか。その時、つまり救いの業の最終的で決定的なその「時」が来るまでに、そしてその「時」に辿り着くために、今の日常で起こるしるし、日常の中で起こる神の業に気付くことが必要だということを、イエスは言いたかったのではないでしょうか。
イエスの最初のしるしはユデアのエルサレムではなく、辺境のガリラヤ地方で;そしてガリラヤの中でも、カファルナウムやゲネサレットなど知られる町ではなく、カナというあまり知られていない小さな村で起こりました。また、イエスの最初のしるしは、ごく普通の場面、婚礼という人間くさい、人間の日常的な出来事の中で起こりました。そして、イエスの最初のしるしは、目立たない仕方で起こっていました。世話役も花婿もあの最高のワインがどこから来たのか知らないまま、過ぎてしまいました。共にその婚礼に行った弟子たちだけが、イエスの最初のしるしを見て、イエスを信じました。
私たちにとっても、その「時」、最終的で決定的に死と復活を体験する時、一人ひとりにとっての「三日目」のその時が必ず来ます。それまでに、今、平凡な毎日のなかで、日常の出来事の中で起きている神の愛のしるしを読み取って、日々信仰を深めていくことが必要だということです。
M. Pale Hera
メッセージ - C年 降誕節 |
きょうは、主の洗礼の祝日です。きょうの聖書によると、主イエスは多くの民衆とともに洗礼者ヨハネの元に行って、洗礼を受けたということです。洗礼者ヨハネが、「罪の」赦しのための悔い改めの「洗礼」を宣べ伝えると、それに呼応して、ユダヤからもエルサレムからも人々が続々と出て来て、「罪」を告白して、洗礼を受けた様子がマルコ福音に記されています。
では、もしヨハネの洗礼はこのような意味を含まれているなら、なぜ罪の無いイエスはわざわざ洗礼者ヨハネの元で洗礼をお受けになりましたか。実は、イエスの洗礼には特別な意味があります。
まず、一つ目は、主イエスが私たちに洗礼の重要性を教えてくださいました。水に浸ることは、死と清めを意味すると共に、再生と一新の象徴でもあります。したがって、洗礼には罪の清めと聖霊による新たな誕生という、二つの主な効果があることを主イエスに示されました。
そして、二つ目の意味は、イエスのインマヌエルの神聖を示してくださいました。罪のないイエスが罪人の列にご自分の身を置かれて、皆と一緒に並んで、同じ川に入って、同じ水で、洗礼をお受けになったという行動を深く考えてみれば、主イエスは、「上」から人間を救おうとはされず、むしろ「下」から、人々と交わりながら、ともに悩みや苦しみ、痛みや悲しみを共感して、私達に救いをもたらしたいと望まれたということです。これがまさに、「インマヌエル;神は私たちと共におられる」ということが実現されました。使徒パウロが、フィリピの教会への手紙に、こう書いています。「主イエスは、ご自分を無にして、僕の身分になられたのです」。つまり、神の子であるキリストは、「私たちをどれほど愛して、大切にしてくださったのか。また、私たちを救うために、どれほどご自分を犠牲にしてくださったのか」ということです。
主の洗礼の出来事について知っておくべき重要な点は、イエス様の存在はある意味で純粋な真珠のようです。純粋な真珠は汚れた泥の中に投げ込まれても、輝きを保ち、変色することはありません。同様に、イエスご自身も世の罪の泥の中に身を置かれても、神の子としての神性を失うことはなく、汚すこともありません。
最後に、イエスの洗礼の時に、神様は、「あなたはわたしの愛する子、私の心に適う者」と天から宣言されました。実は、私たちも洗礼を受けた時に、「あなたは神の相応しい子となり、キリストの教会の一員となった」と神様は司祭を通して宣言してくださいました。どうか、そのお恵みをいつも大切にして、最後まで守り続けますように。アーメン。
メッセージ - C年 降誕節 |
主の公現は、神の栄光が神の子キリストであるイエスの誕生を通して現れたことを祝う祭日です。しかし、マタイ福音書2章によれば、イエスの誕生はきらびやかで目立つようなものではありませんでした。お生まれになった方は「ユダヤ人の王」と言われていますが、実際に生まれたのは豪華な宮殿の中ではなく、小さな町ベツレヘムでした。その誕生は多くの人に祝福されて豪勢に祝われたのではなく、外国人である数人の占星術の学者たちが来ただけで、逆にヘロデ王の反感を買って敵意を向けられました。
考えてみると、イエスの生涯すべてが栄光とはかけ離れたものでした。人にチヤホヤされ、仕えられるためではなく、自分が仕えるために生き、金持ちや正しい人たちではなく貧しい人や病に苦しむ人に寄り添い、嫌われて社会の外に追いやられている人、罪人のために働きました。そして、楽な方法で簡単にではなく、十字架の苦しみと死を通して救いをもたらしました。それはまさに、第一朗読のイザヤ書で言われているように、暗黒の闇の中にこそ光が輝いた、ということです。世の闇に、私たちの弱さや罪の中に、痛みを伴いながらあえて入って来た、そこに大きな意味があります。
暗闇の中でこそ輝く光があるように、私たちも、自分の弱さを認めながら、痛みや苦しみの中でこそ神の恵みを証しすることができますように。私たちが生きているこの世界も、決して輝くよいものばかりではありません。戦争やテロがあり、貧しさや差別があり、災害や病気がある、不完全な世界です。そこに生きている私たちも、何が正しいことが分からなかったり、分かっていても罪を犯したりする弱さがあります。けれども、だからこそ、それでも大切にされ、愛されていることを忘れないようにしたいと思います。