聖書の解釈 - 聖書を読む人のための手引き

 

どんな書物を読むときにも、それを読む目的によって、読み方自体も、その結果も変わるでしょう。聖書も同じです。聖書を神の言葉として読みたいならば、聖書が作成された目的、つまり私たちが救いのために必要としている真理を伝えるために書かれた書物であるということを意識し、その真理を見極めるために読まなければなりません。前に述べたように、人間の作品でもある聖書を通して神が伝えてくださる真理を見出すために、まず、人間の作者の意図を理解する必要があります。聖書記者が書き記した文書を通して表現しようとした意味は、伝統的に「文字どおりの意味」、または、「字義的意味」と呼ばれています。また、神がこの文書を通して伝えてくださる真理は、「霊的意味」、または、「霊性的意味」と呼ばれています。文字どおりの意味と霊的意味は、特に新約聖書において、同じであることがよくあります。それは、聖書記者が救いのための真理を直接に表現しているからです。けれども、聖書記者が、自分で書き記した文書を通して、どのような真理を伝えているかということがはっきりと分からなかったことは、特に旧約聖書において、珍しくありません。この真理は、イエスの死と復活、また、イエスが啓示してくださった他の真理によって、はじめて明らかにされたのです。

 

カトリック教会のカテキズム(115,117)において、霊的、寓意的、道徳的、天上的意味とに細分されています。「これら四つの意味は根本的には一致し、教会の中にあって聖書を読むとき、読書を豊かにするものです」(カテキズム115)。

 

◎ 寓意的意味

聖書の本文は、直接的にいろいろな人物や出来事、また、場所やものについて語っても、多くの場合、間接的にイエス・キリスト、また、イエス・キリストの救いの働きについて語っています。ですから、聖書を読むときに、今読んでいる個所のイエス・キリストとの関連について考察することは、非常に有意義なことです。

 

例えば、イスラエルの民の過ぎ越し、つまり、エジプトから解放され、紅海を通過したことは、キリストの過ぎ越し、つまり、イエスの死者の中からの復活、また罪とその結果であるに死に対する勝利を意味します。エジプトに売られたが、結果的に自分の家族を助けたヨセフとか、イスラエル人をエジプトから導き出したモーセは、救い主の前表、または、表象であるということです。

 

◎ 道徳的意味

聖書には、神が与えてくださった戒め、また、イエス・キリストの教えや聖パウロのいろいろな指示は、私たちに真の善と真の悪を示し、正しい価値観と同時に、正しい生き方をはっきりとした仕方で教えてきます。けれども、聖パウロが語る通りに、「これらのことは前例として彼らに起こったのです。それが書き伝えられているのは、時の終わりに直面しているわたしたちに警告するためなのです」(1コリ10・11)。ですから、表面的に見るだけで、正しい生き方についての教えと関係のない出来事や物語やいろいろな人々の働きや経験などは、私たちを正しい行動に導く可能性がありますので、聖書のあらゆる書、あらゆる個所を読むときに、自分がより正しく生きるための導きやヒントを探すことは、大切なことです。

 

聖書から正しい生き方を学ぶことが大事ですが、決定的、つまり、私たちの生き方と共に私たち自身を実際に変えるのは、学んだことを実行することなのです。学んだことを実行することによって、「古い人」を脱ぎすてる、つまり、正しくない生き方を少しずつ辞めると同時に、「新しい人」を身に着ける、つまり、少しずつ正しい生き方を自分の自然な生き方にするということもありますが、聖霊の導きに対する自分の信頼が深まり、聖霊の働きに対して心をだんだん広く開きます。また、聖霊の導きに段々と敏感になりますので、聖書を読むときにも、日常的な体験においても、聖霊が私たちに語る言葉をますます正しく、ますますはっきりと理解することができるようになるのです。

 

天上的意味

神は、人間にご自分を求めさせ、人間をご自分のもとへと引き寄せるために、人間の創造の目的である、神の国や永遠の命とも呼ばれる天国のすばらしさをいろいろな出来事や言葉を通して現してくださいます。ですから、聖書が記されているいろいろなことがらや出来事の永遠の意味を考察することもできます。

 

ダキアのアウグスチヌスは、以上の四つの意味を次のように短く表現しています。つまり、「字義は出来事を、寓意的意味は何を信じるべきかを、道徳的意味は何を行うべきかを、天上的意味はどこに向かうべきかを教える」。

 

1993年4月15日に教皇庁聖書委員会が発行した「教会における聖書の解釈」において、霊性的な意味を次のように定義し、聖書を読む人がそれを見極めるために重要なことを次のように指摘しています。

 

「一般的原則によれば、霊性的意味とは、キリスト教信仰にしたがって理解されるもので、聖書本文を聖霊の影響のもとで、キリストの過越秘義とそこから来る新しい命の文脈の中で読むとき、その本文によって表現されている意味であると定義することができる」(1413)。

 

「霊性的意味は、想像や知的推論によって導かれる主観的解釈と混同してはならない。それは、聖書本文がその本文にとって外ものではない実際の事実、つまり過越の出来事とその汲めども尽きぬ生産力と関係をもつことにより湧き出てくる。この過越の出来事こそ、全人類のためにイスラエルの歴史の中でなされた神の介入の頂点である」(1416)。

 

「共同体の中にしても個人的にしても、霊性的解釈が正真正銘の霊性的意味を見出すのは、ただこの展望にとどまっている場合だけである。そのとき、聖書本文と過越秘義と聖霊における命の現状という3つの位相の現実が関係しあう」(1417)。

 

要するに、洗礼を受けたことによって、神の命にあずかって、キリストの弟子、また、神の子どもとして生きている人は、聖書の本文を忠実に読むと同時に、イエス・キリストがご自分の死と復活によって成し遂げた救いのわざを土台にして、自分が生きている現状を意識しながら、聖霊の導きに従って聖書を読むならば、どんな時代、どんな文化であれ、自分が生きている具体的な状況において最も必要な真理、最適な導きを見出すことができるということなのです。

 

聖書をこのように読むために、教会の2000年の歴史において様々な具体的な読み方が作られましたが、代表的で、多くの聖書の読み方や神の言葉の黙想の仕方の基礎にもなっているレクティオ・ディヴィナ(霊的な読書)を紹介したいと思います。

 

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