聖書の解釈 - 聖書を読む人のための手引き |
霊的な読書とか、神聖な読書という意味のレクティオ・ディヴィナ(ラテン語:Lectio Divina)は、聖書の読書に基づく祈り、また、神の言葉の黙想の方法として、もうすでに教父の時代、つまり、4,5世紀から活用されていましたが、12世紀のグイゴという名のカルトジオ会の修道士が、レクティオ・ディヴィナの基本的と思われた四つの部分、ないし段階を説明する文書を書きました。この段階とは、lectio(読書)、meditatio(黙想)、oratio(祈り)、contemplatio(観想)です。
◎ 第1段階:読書
この段階の目的は、黙想の対象となっている聖書の個所を理解することです。そのために、まず、この個所をゆっくり読みます。この文書の表現形式(出来事の叙述や歴史的な物語とか、説教やたとえ話とか、詩など)を意識してから、読んだ本文に対して可能な質問をして、その中で答えを探します、例えば、 何が(起こっているか、取り扱われているか、課題となっているか)、誰が(登場するか、対話するか、話しの対象となっているか、)、何を(話すか、するか)、どこで、また、いつ(この出会いや出来事が起こっているか)、どのように(反応するか)、どのような感情が表現されているか、何故などです。
特に、今まで何回も読んだために良く知っている聖書の箇所を読むときに、細かくて、「当たり前」と思われるような質問をすることによって、今まで気が付かなかったことを発見することも、本文をより深く理解することもできるのです。
自分の質問に対する答えを本文の中に見出せないことがあります。それは、この個所が伝えているメッセージを理解するために知らなくてもいいものであるかもしれません。それとも、この書の最初の読者にとって、常識的なことであって、よく知られているために書く必要もないようなことであったかもしれません。ですから、多くの場合、読んでいる文書を理解するために、できるだけこの書の最初の読者の立場になって、この読者がこの文書をどのように理解したかということを考える必要があります。もちろん、そのために扱っている書は、いつ、どのような現状におかれた人のために書き記されたかということを知ることが必要です。また、この書の対象は、ユダヤ人であったならば、彼らの世界観とか、普段の言い方とか、イスラエルの歴史や旧約聖書の知識などを土台にして、考える必要もあるのです。結果的に、聖書辞典や注解書などを読んで、勉強する必要になることが多いわけです。
◎ 第2段階:黙想
黙想の目的は、扱っている個所において、神の言葉を見出すこと、つまり聖書の個所によって神が自分に伝えようとしておられることや与えてくださるメッセージを読み取ることです。
読んだ言葉は、自分にとって、どのような意味を持つか、どのような注意や励ましや戒めや導きなどについて考えることができますが、特に神の言葉がなかなか見出せないときに、以下のように感情や記憶や理性や想像などを用いて、段階的に黙想することもできます。
・感情の活用
扱っている個所を再び最初から最後までゆっくり読みますが、今回は、文書を一つずつ読んでから、短い間をとって、自分の心の動きを調べます。自分の心の動きを調べるとは、浮かんだ感情、例えば、喜び、悲しみ、不安、恐れ、平安、退屈、無感情などを意識するということです。
・記憶の活用
何か心の動きを見出したら、そこで読書を止めて、浮かんだ感情を見つめます。この感情は何(言葉、場面、人の反応)によって起こされましたか。どうしてでしょうか。何の体験や出来事や出会いなどが思い起こされましたか。それと関連するもの(出会った人、行った場所、見た映画、読んだ本など)は、何でしょうか。
・理性と想像の活用
このみ言葉や自分の心の動きによって神が今の(こんな現状にいる、こんな選択に直面している、こんな問題で悩んでいる)自分に何を伝えたいのでしょうか、何を示したいのでしょうか、どんな導き、使命、励まし、主意などを与えてくださるかについて考えます。
◎ 第3段階:祈り
たとえ、祈る人がそれをはっきりと意識しなくても、祈りはいつも、神の働きや神の呼びかけに対する人間の応えです。レクティオ・ディヴィナをしているときに、このことが特にはっきりと見えています。 要するに、この段階において、前の段階であった黙想のときに見出した神の言葉に対して自分が応えます。黙想によって、最近神から特別な恵みをいただいたということに気が付いたならば、祈りは、感謝になります。黙想を通して、イエス・キリストのすばらしさの新たな側面を示されたならば、祈りは、賛美になります。このように、自分が聞き取った神の言葉によって、祈りは、お詫び、願い、約束、決心、または、実際的な行動などにもなりえるのです。
◎ 第4段階:観想
観想とは、感情、記憶、理性と想像などのような機能を超えて、静けさの中で神の御前に憩うことです。読書、黙想と祈りの段階で、私たちが様々な機能を用いて、神の言葉を理解するように、また、読み取った神の言葉に応えるように努力しますが、現実的に考えれば、自分の考えとか、自分の望みや欲を神の言葉として間違えて、神に従うことを求めても、いつの間にか自分自身の道を進むことになることは、決して珍しくありません。つまり、意識しなくても、自分の働きによって、神の言葉や神の働きを実際に妨げることがあるということです。確かに、後で、自分の生き方とその結果を正直に振り返るならば、自分の間違いに気づくことができます。そして、自分の間違いを素直に認めた上で、それを繰り返すことがないように気を付けるならば、そのような過ちを犯すことが段々と少なくなります。
けれども、真の観想において私たちは、自分の意識を神に向けながら神の前に静かに留まり、神の働きを承諾すること以外に何もしませんので、神の働きを妨げることもないのです。そのために、観想において神は、私たちの内で自由に働くことができますので、私たちは、神の望み通りに、段々とイエスの姿に変えられるのです。もちろん、観想の時に人間は、理性や感情などのような機能を用いないので、読書、黙想と祈りと違って観想は、私たちが記憶できるような体験にはならないのです。静けさの中で過ごす時間は、本当に観想であるかどうかということを自分の生き方の変化、特に他の人に対する態度の変化によってしか分かりません。要するに、私たちの生き方は、段々とイエス・キリストの生き方に近づいているならば、神の御前に過ごす時間は、本当に観想であるという確信を持つことができるのです。
観想は、人間がそれをしたいからできるようなことではありません。観想は、イエス・キリストによる神との関わりの発展の結果であり、神の恵みなのです。すべての人々を愛してくださり、すべての人々の愛を求めておられる神は、例外なくすべての人々にこの恵みを与えたいという確信を持つことができます。けれども、神は、この恵みをいつ与えてくださるかということが分かりません。この恵みを受け入れるために、自分にできることとは、自分の心を準備するということだけなのです。神の言葉を黙想したり、理解したことを実行したりすることによって、イエス・キリストとの交わりの内に生きながら、「忙しい祈り」、つまり、自分が様々な機能を用いて、いろいろな働きした後に、静けさの中で留まって、自分の意識を神に向けることは、心の優れた準備であるということが言えると思います。
レクティオ・ディヴィナを行うことは、聖書を読書したり、聖書の言葉を黙想したりするだけではなく、生きた神の言葉であるイエス・キリストと交わることなのです。他の人との関係の場合と同じように、この交わりの内容、つまり、自分が感じている喜びや平和とか、発見している新しい思想や気づきなどのような内容よりも、この交わり自体に忠実であることが大事なのです。したがって、自分の聖書の霊的な読書が期待通りの実りをもたらさないと思っても、それを忠実に続けること、つまり、できるだけ毎日、最初から決めた(イエスに約束した)時間に行うことによってだけ、この交わりが段々と深まるのです。初めごろ、考えることや、感じること、また、話すことがほとんどですが、祈りが発展すればするほど、すなわち、イエスとの交わりを深めれば深めるほど、静かな時間が長くなるのです。自分が一生懸命に聖書の言葉を考えたり、それを分析したりすることによってよりも、静けさの中で、神の働きを受けることによって、神の言葉の意味を理解できます。また、自分の力を発揮することによってよりも、静けさの中で、神からいただいた力によって、聞き取った神の言葉を忠実に実行することができるのです。
このように、私たちは、聖書を尊敬し、聖書を読んだり、研究したり、その言葉を黙想したりするのは、この本を知るためというよりも、この本を通してイエス・キリストを知るため、つまり、イエス・キリストと愛の絆によって結ばれ、イエスに従って生きることによって、愛の交わりの完成である完全な一致に辿り着くためなのです。カトリック教会が教えている通りです。「キリスト教信仰は「書物の宗教」ではありません。キリスト教は神の「ことば」の宗教であって、そのことばは、「記されているだけの無言のことばではなく、受肉して生きているみことばです」。聖書が死んだ文字となることのないように、生ける神の永遠のことばであるキリストが、「聖書を悟らせるために」聖霊によってわたしたちの「心の目を開いて」くださることが不可欠です。」(カテキズム108)
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