| メッセージ - B年 祭祝日 |
(ヨハ15,26-27;16,12-15)
「人々は驚き怪しんで言った。「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。どうして私たちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。」使 2,7-8
バベルの塔の物語(創11,1-9)が教えている通り、人類は神を無視して、自分の力にだけ頼って幸せになろうとしている時、段々と分列して、互いに誤解したり、争ったりして、結果的に皆が不幸になるのです。
聖霊降臨の出来事は、バベルの塔の物語が描いている出来事と正反対の出来事です。元々互いに理解していなかった人たちは、聖霊の働きによって、互いに理解するようになり、キリストを中心とする共同体を作り、一緒に力を合わせて神のわざに協力することによって、創造主である神が求めている一致に向かって歩むようになりました。神における人類の一致こそ、神が最初から求めていることであり、すべての人にとって最高の幸福の状態なのです。聖霊降臨の日に生まれた教会は、全人類をこの目的に導く使命を与えられています。
洗礼の時に聖霊を与えられた私たち一人ひとりが、聖霊の導きに忠実に従い、イエス・キリストと同じように神の愛を示すことによって、多くの人々を神のもとに引き寄せることができますように祈りましょう。
| メッセージ - B年 復活節 |
第一朗読: 使徒言行禄1,1-11
ルカ書物の第二冊目(使徒言行録)の始め(使徒1、1-11)ではルカによるキリスト論が示されている。約三年間続いたイエスの宣教活動の中で、イエスが教えたことと行ったことのすべてがルカの福音書に含まれている(使徒1,1)。これを読めば、イエスが神の子であるということが理解できる。イエスは弟子たちを選び、共に宣教活動をして福音を宣べ伝えるために、彼らに相応しい教育をされた。復活した後に、イエスは弟子たちに現れて神の国について最後の説明をした(使徒1、3)。イエスの最後の命令は、精霊降臨があるまでエルサレムに留まらなければならないというものであった(使徒1、4-5)。聖霊の力のうちに、弟子たちはまずエルサレムで、後にユダヤで、最後には地の果てに至るまでイエスの証人になることができる(使徒1、8)。この必要な準備を終えた上で、イエスは天に昇った(使徒1、2.9.11)。しかし、イエスは全ての人間に深津されるためや裁きするためや心理キリスト者を集まって天国に連れて行くためにいつか再び来られる(使徒1,7.11)。このルカの教えはカトリック教会の信仰宣言と同じである。
第二朗読: エフェソ4,1-13
イエスが天に昇った後、弟子たちが聖霊の力のうちに福音を述べ伝えて原始キリスト教ができた。教会の信者たちはこの世にキリストの体として(エフ4、12)様々な立場を取って(エフ4,11)、完全な人になり、信仰によって一致し、イエス・キリストのことを完全に理解する(エフ4,13)ために一生懸命、信仰の道を歩いていく。この道を歩いていく間に、忍耐や寛容の心、謙虚(エフ4、2)などの心をもって教会の一致を造らなければならない。神は一人、主は一人、信仰は一つ、洗礼は一つなのだから、この世におけるイエスの体としての教会は一致したものである筈だ(エフ4,4-5)。しかし、この教会論的な教えよりも、イエスが天に昇ったという教えのほうが最も大切なのである(エフ4、10)。
福音朗読: マルコ16,15-20
マルコによる福音書によれば、イエスは天に昇る(マル16、19)前に弟子たちに宣教命令を与えた(マル16、15)。弟子たちの義務は、全世界に行ってイエスの福音を宣べ伝えることであった。この福音を信じて洗礼を受けた人々は、救われた人々である(マル16,16)。イエスを信じる人々はイエスの霊の力で不思議なことを行うことができる(マル16、17.20)。信仰の道を歩いている人は、一人ではなく、いつも主であり復活されたイエスと共に歩いている。
| メッセージ - B年 復活節 |
福音:ヨハネ15、9-17
テーマ:「わたしの喜びがあなたがたの内にあるように」
最期の晩餐と時に、キリストは弟子たちが喜びに満たされるように祈ります。どうして人間が悲しみに襲われたりするのでしょうか。
人間はお別れの時に悲しみます。新しく生まれた赤ん坊が泣きだします。それは自分の母の胎内から別れたからです。子どもは入園して親から離れる時に泣きます。学校卒業する時に友達とお別れをする時にも悲しみます。働きに出た時、自分の世帯を設けた時にも、故郷を離れる涙を零します。最終的に死に別れて悲しみます。
ところで、人間は物理的な別れだけはなく、心の次元による別れの悲しみを味わう時があります。それは、傲慢や自己中心による悪い人間関係、お互いに傷つけたり、相手を赦せなかったりする寂しさ、また憎しみを心に抱く場合です。これに不信仰と愛の欠如による神様に対して犯す罪が伴い、神様との隔たりを作る悲しい状態です。今日の福音が紹介する最後の晩餐の出来ごとです。その時に、キリストの弟子たちも大きな悲しみに襲われました。なぜなら、キリストが彼らにお別れを告げ、裏切りを予告して、死を迎えようとするからです。
神様は人間の悲しみを望んでいません。したがって、キリストが望んでいるのは、「わたし(キリスト)の喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされる」ということです。喜びは一致の内に見出すものです。キリストの救いの働きとは彼らを自分の内に一つにすることであり、すべて人を御自分の内に和睦することです。キリストは、御自身をぶどうの木に比べて、枝となる弟子たちを御自分に繋ぐように呼びかけています。キリストは十字架上で罪の赦しを成し遂げ、御復活によって弟子たちと再会する喜びをお与えになりました。
キリストは、人間を悲しむ罪と死による分裂を、十字架上で示された限りない愛と御復活によって無くしてくださいました。キリストは、私たちを友と呼んでいます。キリストとの友情に応える人は、神様の最大の掟を生きる人です。それは互いに愛し合うことです。キリストは、この望みを不可欠なものとして考えています。人間が誘惑に流されないように、キリストは私たちに積極的な態度、強い意志と決心を求めて、「互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である」と仰いました。
| メッセージ - B年 復活節 |
(ヨハ10,11-18)
「御父がどれほどわたしたちを愛してくださるか、考えなさい。それは、わたしたちが神の子と呼ばれるほどで、事実また、そのとおりです。世が私たちを知らないのは、御父を知らなかったからです。」1ヨハ3:1
普段人間が羊を飼うのは、その毛や肉や乳などのため、要するに自分の利益のためです。羊飼いたちは、羊のために時間をかけて、力を尽くして一生懸命に働くことがあっても、それは最終的に、この利益をより大きくするためなのです。良い羊飼いであると宣言されたイエスは、ご自分のために何の利益をも求めないだけではなく、この羊、つまり私たちのためにご自分の命をささげてくださるのです。
何の利益も求めず、自分より弱いもののために命を懸ける人がいるかもしれないが、イエスは、私たちのために、誰にもできないようなことをされました。それは受肉です。つまりイエス・キリストにおいて神ご自身が人間となられたということなのです。確かにそれは、羊飼いが自ら羊になったような、非常に信じがたいことですが、私たちにとって何よりも大切なことなのです。なぜなら、みことばである神の子が人間になったゆえに、今私たちが神の子になり、神の命にあずかるようになって神の家族の一員になれるからです。それこそ、私たちの救いですし、イエス・キリストがご自分の命をささげていいと思われたほど価値のあるものなのです。
この救いは無償の賜物ですが、それを受け入れるために、羊が羊飼いに従うように、イエスに従わなければなりません。イエスに従うために、私たちが命を犠牲にする必要性がなくても、今まで大事であると思って、力を尽くして手に入れようとしたもの、手に入れてから奪われないように注意を払ってきて、結果的に愛着しているものを手放す必要があるでしょう。ですから、イエスを愛している時だけ、つまりイエスとの繋がりがこの世において最も大切な宝であると確信している時だけ、救いにあずかることができるわけです。
| メッセージ - B年 復活節 |
第一朗読: 使徒言行禄3,13-15.17-19
第二朗読: 1ヨハネ2,1-5
福音朗読: ルカ24,35-48
足の不自由な男を癒した後で、ペトロはエルサレム神殿に集まったユダヤ人に向かって演説をした。遠慮せず、恐れを感じずに、直接ユダヤ人に事実を話した。イエスを拒んだ責任者は彼らであり、ユダヤ人の指導者であるという話であった。この話をした目的は、彼らを裁くことではなく、皆が自分の間違いを認められるようにすることであった。ユダヤ人のやり方は間違いであったということを証しする方は唯一神である。なぜなら、唯一の神がイエスを復活させたからである。ユダヤ人が間違ったということは間違いない。だからユダヤ人には、自分の罪が消し去られるように、悔い改めて立ち帰る態度が必要である。「悔い改める」とは、自分の間違いを認めることである。「立ち帰る」とは、イエスがメシアであるということを認めることである。悔い改めた人々に対しては、神は全ての罪を許す。福音者ヨハネの言葉によれば、イエスを信じる人々の罪だけではなく、全世界の罪が神によって許される。ユダヤ教の教えによると、罪が許されるためには捧げ物をしなければならない。イエス・キリストは全世界の罪を償う生贄である。この生贄によって、唯一の神は人間の罪を許した。しかし、人間が許されるためには良い行いをして、唯一の神を知らなければならない。「唯一の神を知る」ということは、神が存在するということに賛成することではなく、唯一の神の御旨を行うことである。ヨハネにとって唯一神を知るということは、この神の掟を守るということである。唯一の神の掟を守っている人は徐々に掟の意味と目的の理解ができ、神の御旨が分かるようになり,意識的な弟子として唯一の神の内にいることができるようになる。しかし、それにはまず掟と聖書の言葉の意味を理解することが必要である。イエスの弟子は恐れを感じているので、イエスが現れた時にイエスであるということが分からなかった。恐れを感じている人は、決して正しい理解ができない。イエスの弟子たちはメシアの受難と復活について、聖書の言葉を無視してそれぞれの考え方に固執し、聖書の言葉がわからなかったために、イエスの受難の意味が理解できなかった。全世界の罪を許すためにメシアはその道を歩かなければならなかった。イエスの弟子たちはこのメシアについて述べ伝えなければならない。現代の困難から救ってくださるメシアというだけではなく、罪と永遠の死から人間を救われるメシアについて述べ伝えることが弟子たちに課せられた使命である。「イエスは救い主である」という言葉の意味が理解できた人の心の中で、イエスの挨拶、「あなた方に平和があるように」が実現される。
