メッセージ - C年 復活節 |
カトリック教会の伝統によると、復活祭から一週間後の日曜日は、「神のいつくしみの主日」と言います。この主日は、主に人類の罪を贖うためにイエス・キリストが十字架上で捧げた犠牲を通して示された、神の限りない愛と憐れみを記念し、それを振り返ることに捧げられています。
今日の福音のイエスの言葉には、「いつくしみと愛」があります。ご復活の後で、弟子たちに現れたイエスは、彼らがイエスを見捨てて逃げ去ったことを責めたり、不信仰を咎めたりすることなく、”Shalom”「あなたがたに平和があるように」と言われました。ここに、真のイエスのやさしさといつくしみを感じます。
主イエスは、”Shalom”「あなたがたに平和があるように」と三度も言われました。「あなたがたに、平和、平和、平和!」と繰り返して言われたのです。それは、恐れを取り去り、不安を拭い去り、寂しさや苦しみに喘ぐ人達を、慰め救う神様の平和です。つまり、新しい命を与えてくださいました。
皆さんは日々の生活の中で、弟子達のように「鍵をかけられた」と感じる状況によく陥ると思います。又は、疑いをもったり、信じなかったトマスのように。小さなことから、大きなことまで、見たことや聞いたことに対して、恐れや不安、戸惑いを感じたことがあるのではないでしょうか。しかし、今日の福音を通して復活されたイエス様は「私だ、恐れることがない」と言われました。主であるイエス様が恐れから勇気へ、悲しみから喜びへ、絶望から希望へ変えてくださったという恵み、また、いつも共にいると約束してくださった神に心をつくして信頼しましょう。私たちは一人ひとり、聖霊の賜物を受けているからです。ですから、恐れず、ためらわず心配事や不安をすべて神の慈悲に委ねましょう。そして、勇気を出して、復活されたキリストについて、日々の生活の中で証していきましょう。どうか、神の愛と慈しみを受けた私たちが、それぞれの派遣されたところで、一人でも多くの人に神の愛と平和を実現し、互いに分かち合うことができますように。
メッセージ - C年 復活節 |
復活徹夜祭での朗読を通して、私たちは神がユダヤ人に行われた救いのわざを思い起こすと同時に、人間が神から離れた故の苦難をも思い起こします。しかし私たちの希望は苦難にとどまるものではないことを、福音朗読を通して私たちは知ることができます。イエスは十字架の苦しみを受け亡くなりますが、イエスの復活が天使を通して弟子たちに告げられます。これは私たちの苦難は、苦しみだけで終わるだけのものではなく、その先にある復活の希望を導くものであり、その最後として私たちは復活のからだにも招かれていることを意味します。
さて今日私たちはイエスの復活の神秘を祝っています。復活の出来事は、過去にイエスに起こった事実だけにとどまらず、苦難や悲しみを超え、古い自分に死んで、新しい自分に生きるという日々の生活の中で行われています。その意味でイエスの復活は私たちの日々の生活の中での希望であると言えます。私たちがイエスに向かって生きる限り、いつも私たちはイエスの助けによって、新しい自分に生まれることができます。そして私たちはその喜びを日々の生活を通していつも示すように招かれています。最後にイエスに向かって生きる私たちは、復活のいのちに召されるのだと言えます。私たちは時代の流れの変化の中に生きており、時に私たちには大きな変化が求められています。そして変わることは大きな苦しみを伴います。しかし、私たち教会共同体はイエスの復活を通して、その変化の先に大きな喜びがあるということを一人一人が示していくよう召されており、その中にいつも復活したイエスがともにいることを思い起こさなければなりません。
私たちがイエスの過越を信じ、そして日々の生活を通して私たち自身も過越の神秘に与り、最後の日に復活のいのちに達することができるよう祈り求めていきましょう。
メッセージ - C年 四旬節 |
ルカ福音書が描いた十字架上のイエスの姿を一言でまとめると、それは祈りの内に最後を迎えるイエスの姿でした。十字架のそばにいる弟子たち、婦人たち、そしてイエスを十字架につけた人々が最後に見たのは、苦しみの中で祈っているイエスの姿でした。その祈りの中で、イエスは自分の命を御父に委ねます。「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」(ルカ23:46)。その前に、イエスは自分を十字架につける人々を許すように御父に願います。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」(ルカ23:34)。極限の苦しみの中にあっても、イエスが愛する弟子たちに最後に見せたかったのは、祈っている自分の姿です。
ところで、その祈り「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」という言葉は何を意味しているのでしょうか。20世紀最大の神学者と言われるカール・ラーナーは、この言葉について次の様な興味深いコメントを残しています。「イエスを十字架に架けた人々は自分たちがやっていることを本当に知らないのだろうか。そんなはずはない。彼らは自分たちがやっていることを知っているに違いない。自分たちがやっていることは間違っているということを知っているはずだ。イエスが無罪であることを知っている。少なくとも自分たちはイエスに対する嫉妬でイエスを十字架につけることをどこかで自覚しているはずだ」と。私たちが悪いことをする時にそれが悪いことだと自覚しているのと同じように。人間の良心は簡単に狂うものではない。イエスご自身もそれを知っているはずです。そうだとすれば、イエスの祈りは何を意味するのでしょうか。自分を十字架につけた人々が知らなかったのは何でしょうか。
ラーナーによれば、彼らが知らなかったことは、単なる表面的な自覚ではない。つまり、イエスを十字架につけたという行為を知らない、自覚していないということではない。彼らが知らなかったのは、自分たちが十字架につけたその人に、どれだけ愛されているのかということです。彼らは自分たちの行動を知らないはずはない。自分たちの策略を自覚していない訳ではない。しかし、もっと深いところ、自分たちが十字架につけているのは自分たちを愛してやまない神の子、神ご自身だということを知らないのです。
私たちも生活の中で神の愛、親の愛、家族や友人など周りにいる人々の思いやりや優しさに気づかないまま、それを裏切る時が度々あるのではないでしょうか。もしもイエスを裏切ったユダ、イエスの死を計画したユダヤ人の指導者たち、十字架刑の判決を下したピラト、イエスを鞭打って手足を釘で打った兵士たちがイエスの思いを知っていたならば、……。どれだけ自分たちが愛されているのかを知っていたならば、……。人の優しさ、思いやりを自覚のないままに裏切ることは私たちも日々経験しています。イエスの十字架の上からの祈りは、私たちが受け取っている愛に気づくようにという祈りです。今ここで自分を愛してくれている人がいることに気づくように、という祈りです。たとえその愛が、日常の小さな出来事の中のものであっても。人の思い、人の優しさ、心遣いに気づかないが故に、私たちが取り返しのつかない過ちを犯してしまうことを、イエスは十字架の上からの祈りを通して私たちに教えているのではないでしょうか。
最後まで十字架の上から祈るイエスと共に聖週間を過ごすことが出来ますように。
メッセージ - C年 四旬節 |
きょうの福音に記された主イエスより「罪の赦しの宣言」にもとづいて、考えていきたいと思います。
まず、主イエスは女性に、「わたしもあなたを罪に定めない」と赦しの宣言をされました。これは、イエスが女性の犯した罪を曖昧にしたり、見逃していると言う意味ではありません。むしろ、イエスはこの女性がその罪を断罪され、処刑されることを望まないのです。どんなに重い罪を犯した者も死ぬのではなく、生きることを望んでおられるということです。
そして、もう一つ注目したいのは、主イエスは、「わたしもあなたを罪に定めない」ということだけではなく、「今からは決して罪を犯してはなりません。」と命じられました。それは彼女のいのちだけでなく、彼女の人生を救うために必要なことばでした。イエス・キリストが与えられる赦しは罪を容認するものではありません。私たちが罪を赦されたことを感謝し、犯してきた罪を悔い改めて、神様の御心の中に歩むことを願っておられるのです。
私たちも犯した罪を神様に赦して頂きながら日々を歩んでいますが、ただ赦して頂くだけではなく、赦して頂いたことへの感謝の気持ちをエネルギーとして、自らが置かれた場において、赦された者に相応しい新しい歩みを進めることが求められているのだと思います。罪を赦された者の生き方は、もはや、過去に縛られて生きる生き方ではありません。罪を赦してくださったイエス様とともに前に向かって歩んでいくものです。もちろん、そこには困難があり、葛藤があり、罪の誘惑があり、いろいろなことが襲ってきます。でも、こんな私たちを愛し、赦してくださり、いつもともにいてくださるというイエス様の赦しの宣言が、私たちを生かしてくれるのです。
イエスさまが、あるがままの自分を赦し、受け入れ、大切にしてくださっていることをいつも確認しましょう。そして、自分も自分自身を赦し、受け入れ、大切にしましょう。
メッセージ - C年 四旬節 |
今日の福音朗読の箇所は、もちろん誰もが知っている有名な放蕩息子のたとえ話です。このお話の中で、放蕩の限りを尽くした弟息子が父親のもとに帰ろう、と決心したとき、彼は心から生き方を改めたわけではありませんでした。すべてを失い、飢え、これからどう生きていったらいいかわからないとき、思い浮かんだのは父親でした。父親を捨て顔向けできないことをしてきたけれども、それでも「父親のところならば大丈夫だ」「雇い人としてでも受け入れてもらえるだろう」という思いだけで父親のもとに帰りました。何の罪滅ぼしもできない惨めな姿をさらしてでも、恥ずかしい思いをしながらでも、父を信頼していました。
私たちの回心や立ち返りも、一つ一つの細かい行動を反省して直し、欠点をすべてなくす、ということではありません。自分の良い所も悪い所も、感謝も喜びも、悲しみも不安も怒りも、ありのまま誠実に神に向かうことです。私たちは、自分でも目を背けたくなるような自分自身の欠点を、罪を、卑しさや汚らしさを認めて、神の前にさらけ出して見せることができるでしょうか。自分が悪かったことを素直に認められるでしょうか。禁断の実を食べた後に神の顔を避けて隠れたアダムや、献げ物が神に受け入れられずに怒って顔を伏せたカインのようになっていないでしょうか。
私たちは自分自身と、周りの人と、そして神とまっすぐ誠実に向き合うように招かれています。たとえ話の中で、父親は兄息子の真面目さを評価してはいますが、同時にこの兄息子が父親である自分に対して、そして弟に対してまっすぐ向き合おうとせず、顔を合わせようとせず、背を向けていることに心を痛めています。