メッセージ - C年 年間

イエスとペトロとの出会いはガリラヤ湖のほとりで起こりました。父と兄弟アンドレと共に網を直している時でした。仕事に夢中になっているペトロに「私に従いなさい。人間をとる漁師にする」と。イエスの呼びかけに答えて、ペトロは本職をも投げ捨てて、イエスについて回ってきました。真面目でひたむきなペトロの姿にイエスは目をつけていたことでしょう。弟子たちの間にペトロが中心的な役割を果たしていたのも驚くことではないのです。「あなた方は私を何者だというのか」という弟子たちへの大変重要な問いかけに、ペトロは「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えました。その見事な答えに、イエスはペトロに教会を築いていく使命を与えました。「あなたはペトロ。私はこの岩の上に私の教会を立てる」。真面目でひたむきなペトロですが、あれから間もなく、ペトロはイエスを三度も知らないと否定しました。しかし、自分の弱さを抱えながらも、最後に、「あなたは私を愛しているのか」と三度繰り返し聞かれる時に、ペトロは「主よ、私があなたを愛していることはあなたがご存知です」と三度答えました。そして、ペトロは命をかけてその言葉を守り抜きました。

パウロは復活したイエスと出会いました。ダマスコに向かっていく途中でした。ひたむきに律法を守ろうとするパウロに「なぜ私を迫害するのか」とイエスは問いかけました。今までの熱心さは間違っていた方向だったことにパウロは気づきました。あれから、パウロは信じる人々を迫害する者から信仰を誰よりも熱心に伝える使徒となりました。しかも、今まで守ってきた律法を越えて、異邦人のための宣教の開拓者となりました。最後にパウロはイエスのために自分の命をかけて、信仰を守り抜きました。

ペトロとパウロ、二人は異なった道を歩みました。二人は異なった使命が任せられました。しかし、二人が共通するのはイエスへのひたむきな思いでした。二人はけっして完璧な人間ではないです。そうではなくて、つまずくたびに起き上がることを諦めない二人です。自分を変えることを惜しまない二人です。弱さを抱えながらも最後までイエスに従う「真の弟子」の模範です。

 
メッセージ - C年 年間

きょうの福音に記された「5つのパンと2匹の魚の奇跡」の中で、主イエスは弟子たちに、「あなたがたが、群集に食べさせなさい」と命じました。すると、弟子たちは、「私たちにはパン五つと二匹の魚しかありません」と答えました。弟子たちにとって、自分たちのうちにあるものはあまりにも少なすぎると思ったのです。ここで興味深いところは、イエスの反応です。弟子たちが、「私たちにはパン五つと二匹の魚しかありません」と答えた時に、主イエスの一番最初の反応は、「それでも、すぐに、彼らに分け与えなさい」とか、「皆はお腹がすいているので、早速その物をお配り下さい」とかは、言われませんでした。イエスが一番最初に示した反応は、弟子たちの手にあるパンと魚を受け取ることでした。マタイ福音書の14章:17節~18節に、「ここには、五つのパンと二匹の魚しかありません」と答えたら、主イエスは、「それらの物を、わたしのもとに持って来なさい」とおっしゃいました。「まず、それらのものをわたしに」という命令でした。ここが大切なポイントだと思います。「自分にあるすべてを主のみ手に」ということです。どんなに、小さなものであり、わずかなものであっても、それを主のもとに持って行き、捧げるなら、主ご自身がそれを預かって、幾重にも祝福して用いてくださいます。しかも、有り余るほどの恵みと祝福になって、人々に行き渡るのです。

私たち人間は、「大きいか、小さいか、多いか、少ないか等、見た目で判断し、比較すること」があります。しかし、それは人間的な見方、考え方、判断です。弟子たちが、「わたしたちはここに、パン五つと魚二匹しか持っていません」と言った時、主イエスは、「それをここに持ってきなさい」と言われました。同じように、主イエスは、今日私たちに向かって、「あなたの手にあるものをわたしのところに持ってきなさい」と声をかけられます。

どうか、自分の持ち物や能力や性格に目を注ぐのではなく、ほんとうに“何もない自分”を主の御言葉に従って捧げ切ることです。自分の小さな力は何の役にも立たないという、無力感に襲われるものですが、そこで小さな善意が差し出される時、それをイエス様が大きな力に変えてくださるのです。さらに、その小さな自分を神の前に差し出すだけで、主ご自身が、その貧しき小さな者を用いてくださり、神の栄光を表して下さるのです。

神様は私たち一人ひとりに相応しい恵みを備えてくださっています。神に与えられた賜物にはすべて意味があります。どんなに小さなものであり、わずかなものであっても、感謝をこめて、弟子たちのように主イエスに差し出し、そして、主イエスから受け、自分のため、また人々のために役立てることができますように。アーメン。

 
メッセージ - C年 復活節

今日私達は聖霊降臨の主日を迎えました。復活祭の後、50日間祈りながら待つ弟子たちの上に聖霊が注がれた日です。この出来事があったからこそ、弟子達は勇気を持って全世界に福音を述べ伝えはじめました。ある意味で、この日は普遍的な教会の誕生日でもあります。

朗読される御言葉では聖霊とその業によって「主の証しになる」というテーマについて描かれています。第一朗読ではイエス様が十字架に付けられて、死んだ後、弟子たちはいつも恐れて生きていました。しかし、聖霊が彼らの上に降ると、人生は新しいものとなり、心配や、恐れを超えることができるようになりました。そして、弟子たちは勇気を持ってそれぞれの国の言語で神の国の宣教を始めました。それは、イエス様の死と復活を証しするためです。その偉大な業は自分自身の中から出るものではなく、神の恵みと聖霊の導きのおかげなのです。

福音書ではイエス様は弟子たちと別れる前、偉大なメッセージを与えられました。「父は別の弁護者を遣わし、永遠にあなたと一緒にいるようにしてくださる。あなたがたにすべてのことを教え、私が話したことをことごとく思い起こさせてくださる」とイエス様はおっしゃいました。つまり、Parakletos「弁護者」である聖霊は私たちを導き、信仰の真理を語ることができるようにしてくださるのです。イエス様にとって、信仰とは単なる言葉ではありません。イエス様のことを信じて、その業を認め、証しすることこそが重要な宣教の方法だからです。なぜなら、行いのない信仰はむなしいからです。

私たちも洗礼の恵みに与ることのできた1人ですから、イエス様は私たち一人ひとりが証しになるために呼びかけているのです。では証しをするためには何が必要でしょうか?私たちの生き方や行動が、他の人たち、その人が自分にとってどんな立場であっても、その人の慰めになるべきではないかと思います。聖霊降臨後の、弟子たちの模範にならい、日々の生活の中で、主の栄光を証ししていきましょう。隣の人と、イエス様の教えを分かち合うことでも、良い選択をすることでも、隣の人の話を聞くことでも、祈ることでも、美味しいご飯を作ることでも、笑顔でほほえみかけることでも、ひとり一人にそれぞれのやり方が与えられています。さまざまな方法で、私たちは、イエス様の愛を証しすることができます。そうすれば、私たちは、豊かな喜びに満たされるでしょう。どうぞ、聖霊の賜物を願いながら日々の生活を過ごして参りましょう。

 
メッセージ - C年 復活節

私たちは今日、主の昇天を祝っています。教会の暦を通して、私たちも聖週間の間にイエスの死を思い起こし、復活祭を経て、イエスが死に打ち勝って今も私たちと共にいることを実感し、今日の昇天の出来事を通して、イエスの復活が単に生き返ったというものでなく、神とともに永遠のいのちに生きる者となったことを再確認します。使徒信条にある通り、イエスは「天に昇って、全能の父である神の右の座」についたわけですね。また、私たちはイエスが弟子たちに聖霊を送ると約束していたことを、これまでの復活節の間の福音箇所で見てきました。それは今日の福音の49節にも書かれています。その出来事の実現を来週の聖霊降臨の日に祝います。こうした復活・昇天・聖霊降臨という一連の出来事、イエスの死の後にどのようなことが起こったのか、というこの流れ、そしてその一つ一つの出来事が私たちの信仰の中心であるわけですから、今一度これらの事をしっかりと理解するよう求められていると思います。

さて、今日の福音箇所では、まさにイエスが天に昇られるその場面が読まれていますが、その中で特に私が注目したのは48節「あなたがたはこれらのことの証人となる」というイエスの言葉です。メシア、つまりイエスの死と復活、そして罪の赦しと悔い改め、これらが世界中に宣べ伝えられることの証人となると、イエスは弟子たちに語っています。弟子たち自身がそれを宣べ伝えるのではなく、宣べ伝えられていくことの証人となる、という言い方は、少し不思議に思います。もちろん、弟子たち自身も宣べ伝える者となっていくのですが、彼らの宣教が彼らだけで終わってしまうことなく、後継者に受け継がれ、徐々に世界に広がっていくことを、イエスは天に昇る直前にこうした言葉で弟子たちにまた「約束」をしているのだと思います。この宣教の始まりは、イエスの言葉通り「エルサレム」から始まるものですが、その終わりはどこになるのかは示されていません。これは、弟子たちから現代の私たちに至るまで、そして私たちの後に続くこれからの人々にも、その宣教が続いていくことを教えているのだと言えます。弟子たちの宣教を受け継いだ私たちも一人のキリスト者として、自分の信仰をまた改めて見つめ直しながら、次に伝えていく使命を果たすことができるように、今日のこの主の昇天の日を祝いたいと思います。

先に述べた通り、昇天を含め、イエスがどういう存在であり、私たちが信じるべき出来事は何か、というものが全てミサの中で唱えられる「使徒信条」に集約されています。普段何気なく、ただ唱えているだけになってしまいがちですが、特に今日はこの使徒信条の言葉をよく噛みしめながら、私たちの信仰をしっかりと確認することと致しましょう。そしてその信仰をこれからも固く保ち続けられるように、共に祈りたいと思います。

 
メッセージ - C年 復活節

心細くて不安なとき、何をしてくれるというのでなくても、信頼できる誰かがそばにいてくれるだけで勇気が出る、ということがあります。

この日の福音朗読(ヨハネ14:23-29)では、ミサの中で唱えられる言葉が語られます。「わたしは平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える」。ここで私たちに与えられる平和とは、表面的に、問題が何もないということではありません。弟子たちはその後、世から迫害を受けることになりました。殉教した者もたくさんいました。現代でも、残念ながらこの世界には病気があり、戦争があり、様々な苦しみがあります。しかしそれでも、そこに平和をもたらす、平和を与える、といわれます。

「わたしはまた、あなたがたのところへ戻ってくる」と言われた「復活のキリスト」を、私たちはどのように感じとることができるでしょうか。それができたとき、私たちはたとえ嵐の中でも平和の内に歩むようになるでしょう。