メッセージ - C年 年間

「イエスは言われた。『神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。すべての人は神によって生きるからである。』」(ルカ 20,38)

復活を信じないサドカイ派の人々は、もし復活があるならば、七人の夫に死に別れた女が復活の時に誰の妻になるかとキリストに尋ね、復活の信仰には自己矛盾があると示そうとしていました。

この問いかけに対して、キリストは、復活ということはこの地上の人生にもう一度戻るということではなく、神の命に与って「神の子ども」として永遠に生きる者となることを教えてくださいました。したがって、神の国では、子孫を残すために、めとることも、嫁ぐこともないと応えました。神様が『柴』の箇所でモーセに、この世を去ったイスラエルの族長たちが生きていると仰ったことは、復活がある証拠となります。イスラエルの族長たち、アブラハム、イサク、ヤコブは、この地上で生きる神に出会い、聴き従って共に歩み、自分の人生を神に委ねたから神の命に与って永遠に生きる者となりました。もし、この3人が死んだ者であるならば、神よりも死の方が強いということになり、それは神様の存在を否定することになります。サドカイ派の人々は、自分の生活の中で神様が存在しなかったので、復活を信じませんでした。彼らにとって、神様は遠い存在で、過去の神であると思い込んでいたからです。

教会の信仰は、キリストの復活を中心とします。神様がキリストの内に『今』、『ここに』に生きておられるのは、キリストの復活によって証明されています。復活したキリストを体験しなかった人にとって、『キリストの復活』の福音は戯言に過ぎません。これに対してキリストは、すべての人を復活の信仰に招いてくださいます。すなわち、「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる。」(マタ4,4)と言われ、また、「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終りの日に復活させる。」(ヨハネ6,54)と力強く教えてくださいます。

神様が生きている人の神であることを信じるために、人は自分の内にキリストが復活なさったことを体験しなければなりません。洗礼、堅信、至聖なる御聖体などの教会の秘跡は、私たちがキリストと共に死に、また、キリストと共に復活する体験です。肝心なのは、教会の秘跡が形式てなものにならず、私たちが秘跡の内に頂く神様の恵みを自分たちの人生の中で生かしていくと同時に、キリストが私たちの内に生き、働く体験です。

 
主日の朗読聖書 - C年 年間

ルカ19・1-10
1〔そのとき、〕イエスはエリコに入り、町を通っておられた。2そこにザアカイという人がいた。この人は徴税人の頭で、金持ちであった。3イエスがどん な人か見ようとしたが、背が低かったので、群衆に遮られて見ることができなかった。4それで、イエスを見るために、走って先回りし、いちじく桑の木に登っ た。そこを通り過ぎようとしておられたからである。 5イエスはその場所に来ると、上を見上げて言われた。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」6ザアカイは急いで降り て来て、喜んでイエスを迎えた。7これを見た人たちは皆つぶやいた。「あの人は罪深い男のところに行って宿をとった。」8しかし、ザアカイは立ち上がっ て、主に言った。「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します。」9イエスは 言われた。「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。10人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。

 
主日の朗読聖書 - C年 年間

テーマ :命を愛される主

第一朗読: 知恵11,22-12,2

命を愛される主よ、すべてはあはたのもの、あなたはすべてをいとおしまれる(11,22)

第二朗読:二テサロ二ケ1,11-2,2

どうか、 私たちの神が、 あなたがたをお召しにふさわしい者にし、 また御力によって、 善を慕うあらゆる願いと信仰の働きとを全うしてくださいますように。 (2Th 1:11 JAS)

福音朗読:ルカ19,1-10

人の子は、 失われた人を捜して救うために来たのです。  (Luk 19:10 JAS)

 
釈義 - C年 年間

年間第31主日           11月3日

第一朗読: 知恵11,22-12,2

紀元前二世紀から一世紀の間にギリシア語で書かれた知恵記には、ユダヤ教の伝承とギリシアの哲学を元に作られた、神についてのさまざまな新しい考え方が含まれている。第一朗読の言葉によると、神は命を愛する(11,26)。すべての命を愛するから罪を犯す人々や異邦人などにたいしても神は哀れんでいる(11,23-25)。そのような人々が正しい道を見つけるために、神は彼らに教育を施される(12,1-2)。

第二朗読:二テサロ二ケ1,11-2,2

迫害されたテサロニケのキリスト者たち(1,7)に対してパウロが祈りを捧げる。この祈りの目的は、テサロニケのキリスト者が忍耐の内に正しいキリスト教の道を歩き続けて行けるようにすることである(1,11-12)。この手紙を書いた理由は、テサロニケ教会でイエスの日(イエスが再び来られる日)について不正な教えが述べ伝えられていたためであった(2,1-2)。不正な教えによれば、イエスはすでに再来したが、テサロニケの信者は彼に会わなかったという。つまり、テサロニケの信者たちはイエスに救われなかった人物であるとしたのである。この教えが不正な教えであるという議論をするために、パウロはこの手紙を書いた。

福音朗読:ルカ19,1-10

ユダヤ人の社会の習慣とユダヤ教の法律では、取税人と関わることは禁止であった。取税人は罪人のような生活をするからである。指導者としてはイエスのやり方は大変困ったことであった。罪人は正しい人の話を聞いたり、正しい人の行いを見たりしなければ、正しい道を学ぶことが出来ないだろう。神はそれがわかっていたからこそ、イエスを人間に送られた。イエスはその事を理解して、罪人と関わった。

 
メッセージ - C年 年間

 

「イエスは言われた。『今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。』」ルカ 19:9-10

恐らく、非常に多くの人と同じように、ザアカイは、人生においてお金と権力が一番重要なものであると思っていたでしょう。そのために、一生懸命に努力して、徴税人の頭にも、金持ちにもなった、つまり求めていた権力とお金を手に入れることができました。けれども、期待したような満足や幸福を得ることができず、彼の心は、ますます飢え渇いていったのです。

ザアカイは、自分が心の中で何を求めているかということが分からなかったけれども、イエスについて話しを聞いたときに、心の中で何かが響いて、希望が生まれたため、「イエスがどんな人か」を見たいと望むようになりました。障害が現れてもザアカイは諦めず、この望みに従いました。そして結果的に、ザアカイが全く創造も期待もしなかったことが起こったのです。彼はイエスがどんな人かを見ることができただけでなく、イエスと出会い、イエスの無条件の愛を体験することによって、真に豊かな人生を始めることができたのです。

心の中で求めたのは、無条件の愛であったと分かったザアカイは、今までの彼の人生の中心にあった権力やお金が彼に幸福を与える代わりに、彼から幸福を奪い取るもの、心を満たす代わりに、心を空っぽにするものであるという事実に気が付きました。そして、イエスから頂いた無条件の愛という最高の富は、それに執着したり、誰かにそれを奪われないように気を付けたりすることによってではなく、それを出会う人と分かち合うことによって増し、彼の心を少しずつ満たしていくものであるということも分かったのです。

人間の心を満たすのは、手に入れた富や権力、成功や楽しみとかではなく、自分が持っているものを他の人と分かち合うこと、自分の力や才能を他の人のために使うことであるということをザアカイの経験から学び、それを実践することによって、本当に豊かな人生を送ることができますように祈りましょう。