メッセージ - A年 祭祝日

「シメオンは幼子を腕に抱き、神をたたえて言った。「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり/この僕を安らかに去らせてくださいます。わたしはこの目であなたの救いを見たからです。これは万民のために整えてくださった救いで、異邦人を照らす啓示の光、/あなたの民イスラエルの誉れです。」ルカ 2:28-32

生まれてから40日目に奉献されたイエスは、一生涯、聖霊の導きに従って、父である神の望みに適う人生を送ることによって、それを完全なささげものにし、人類の罪を贖い、神との和解への道を開いてくださったのです。

洗礼を受けたときに、神の命を受け、神にささげられた私たちは、イエスに倣って、洗礼の恵みに忠実に生きること、つまり聖霊の導きに従って生きることによって、私たちのすべてを父である神にささげることができますように、そして、父である神とのますます深い交わりに生きることによって、多くの人々を神のもとに導くことができますように祈りましょう。

「シメオンは幼子を腕に抱き、神をたたえて言った。「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり/この僕を安らかに去らせてくださいます。わたしはこの目であなたの救いを見たからです。これは万民のために整えてくださった救いで、異邦人を照らす啓示の光、/あなたの民イスラエルの誉れです。」ルカ 2:28-32

生まれてから40日目に奉献されたイエスは、一生涯、聖霊の導きに従って、父である神の望みに適う人生を送ることによって、それを完全なささげものにし、人類の罪を贖い、神との和解への道を開いてくださったのです。

洗礼を受けたときに、神の命を受け、神にささげられた私たちは、イエスに倣って、洗礼の恵みに忠実に生きること、つまり聖霊の導きに従って生きることによって、私たちのすべてを父である神にささげることができますように、そして、父である神とのますます深い交わりに生きることによって、多くの人々を神のもとに導くことができますように祈りましょう。

 
主日の朗読聖書 - A年 祭祝日

ルカ2・22-40

22モーセの律法に定められた彼らの清めの期間が過ぎたとき、両親は〔イエス〕を主に献げるため、エルサレムに連れて行った。《23それは主の律法に、「初めて生まれる男子は皆、主のために聖別される」と書いてあるからである。24また、主の律法に言われているとおりに、山鳩一つがいか、家鳩の雛二羽をいけにえとして献げるためであった。 25そのとき、エルサレムにシメオンという人がいた。この人は正しい人で信仰があつく、イスラエルの慰められるのを待ち望み、聖霊が彼にとどまっていた。 26そして、主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない、とのお告げを聖霊から受けていた。 27シメオンが“霊”に導かれて神殿の境内に入って来たとき、両親は、幼子のために律法の規定どおりにいけにえを献げようとして、イエスを連れて来た。 28シメオンは幼子を腕に抱き、神をたたえて言った。29「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり、この僕を安らかに去らせてくださいます。30わたしはこの目であなたの救いを見たからです。 31これは万民のために整えてくださった救いで、32異邦人を照らす啓示の光、あなたの民イスラエルの誉れです。」33父と母は、幼子についてこのように言われたことに驚いていた。 34シメオンは彼らを祝福し、母親のマリアに言った。「御覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。 35――あなた自身も剣で心を刺し貫かれます――多くの人の心にある思いがあらわにされるためです。」 36また、アシェル族のファヌエルの娘で、アンナという女預言者がいた。非常に年をとっていて、若いとき嫁いでから七年間夫と共に暮らしたが、37夫に死に別れ、八十四歳になっていた。彼女は神殿を離れず、断食したり祈ったりして、夜も昼も神に仕えていたが、 38そのとき、近づいて来て神を賛美し、エルサレムの救いを待ち望んでいる人々皆に幼子のことを話した。 》39親子は主の律法で定められたことをみな終えたので、自分たちの町であるガリラヤのナザレに帰った。 40幼子はたくましく育ち、知恵に満ち、神の恵みに包まれていた。

 
メッセージ - A年 年間

テーマ いつもみ旨にかなうよう導いてください

第一朗読:イザヤ823b-93

第二朗読:一コリント11013.17

福音朗読:マタイ41223 (または41217

第一朗読は慰めを含んでいる。第一イザヤ(イザ1-39)はアシリア帝国に破壊された北王国(イスラエル王国とも呼ぶ)の市民(イザ8,23)が将来に対して希望を失わないように、苦しい時代と迫害の時代がいつ終わるかという言葉を伝えている。また、将来に北王国の市民に栄光を与えることが神の業である(イザ823)ことを述べている。イサヤの目はその日を見ることはなかったが、彼は心の中にその日が来るということを強く信じていた。士師時代に、この信仰のおかげでギデオンはミディアン人を敗れた(イザ9,3)。しかし、彼の言葉はバビロニア時代まで誰にも認められなかった。

第二朗読では第一コリント信徒への手紙を書く理由が示される。コリント市にある、様々な宣教師の宣教活動によって創立された現初キリスト教の、様々な家庭教会(Household churchesの信者達は、一つの共同体らしい関係を作ることができなかった。キリスト者になるまでに慣れ親しんだ習慣や考え方などに固執している人々は、共同体の愛(アガペ)の掟に従う代わりに、まだ偏見や社会的格差や競争することなどを共同体の関係の基盤として守った。キリスト者らしくない生活をするコリント市の信者達は、パウロから厳しい警告を受けた。パウロの教えによれば、すべての宣教師は、福音を述べ伝えるためにイエスによって送られた方々であり、イエスの僕である(1コリ1,17)。この警告を受けて自分のやり方を直すどころか、コリント市の信者達はパウロの教えを無視した。それはパウロとコリント市の信者達の関係悪化の原因になった。

マタイによれば、イザヤの預言(イザ82393)はイエスによって成就された。マタ41516の言葉はイザ82393からの引用文である。マタイによれば、イエスはガリラヤに与えられた栄光であり、ガリラヤの栄光である。「ガリラヤに与えられた栄光」というのは、イエスが行った神の業(マタ417.23)のおかげでガリラヤ地方の人々が慰められたということである。「ガリラヤの栄光」というのは、ガリラヤから出たナザレのイエスがメシヤ(救い主)になったということである。イエス様よりもっと偉い方がガリラヤ地方から出てこなかった。

 
メッセージ - A年 年間

テーマ: 「その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である」

洗礼者ヨハネは、キリストを迎えるために人々を準備させ、人々にキリストを指し示す使命を神様から受けていました。彼は、人を回心させるために水で洗礼を授けていました。自分が神から来られるメシアではなく、メシアの奴隷になる資格もない者だと証ししました。神から来られた救い主はナザレのイエス様でした。イエス様は回心も、罪から清める洗礼を必要とされていませんでした。ヨハネの洗礼を必要としたのは、天国を開いて聖霊が降るため、また御父によって神の愛する子と呼ばれるという神の業を実現されるためでした。神の子が真の人となって洗礼者ヨハネから水による洗礼を受けたのは、キリストが授ける聖霊による洗礼によって、すべての人が神の子供となるためでした。

福音の中で洗礼者ヨハネは預言者としてイエス様について神様から次のようなことを証しするように遣わされました。すなわち、イエス様が、世の罪を取り除く神の小羊であることと、洗礼の時に聖霊が降ってある人にとどまったことを見たから、その人は、聖霊によって洗礼を授けるキリストであり、神様の愛する子であるという証しするためでした。イエス様が洗礼を受けた時に、聖霊が御子にとどまり、御父から御子に対する愛の言葉が聞こえました。このようにして、神様ご自身が三位一体であると啓示されました。従って、イエス様は御昇天なさる前に弟子たちに、すべての人に、父と子と聖霊の御名によって洗礼を授けるようにお命じになりました。

しかし、私たちが洗礼の恵みを受けるに相応しい者とするために、キリストはもう一つの〝洗礼″を受けなければならなかったのです。それは、洗礼者ヨハネが表現した通り、私たちの罪を取り除くために御父に献げられるいけにえの小羊になる御受難のことです。神が御自分の愛する子を死に至らしめるほどに私たちを愛してくださったという事実を、世は知るようになります。

我々の誰一人も洗礼を受ける時に次のようなことが実現されます。私たちに洗礼を授けるのは、キリスト自身です。それは、キリストの神秘体である教会の神様に選ばれた奉仕者の手を通して実現される秘跡です。キリストの洗礼の出来事は、私たちの洗礼の時に再現されます。私たちのために天国が開かれ、神の御元に入ることができるように聖霊が降ります。聖霊の恵みによって、私たちは三位一体の交わりに加わり、神御自身が私たちの内に生きるようになります。聖霊は神の息吹として私たちに神の命(永遠の命)を与え、神の子供として資格をくださるのです。キリストに続き、私たちの一人ひとりも、父なる神にとって、「愛する子供」となります。

 

 
メッセージ - A年 祭祝日

 

テーマ :星の導きによって御ひとり子を諸国の民に示されました

第一朗読:イザヤ60,1-6

第二朗読:エフェソ3,2.3b、5-6

福音朗読:マタイ2,1-12

 

「神は唯一」、「神は主」、「神は我らと共に」という三つのユダヤ教の基本的な教えをキリスト教は全面的に守っている。「神は我らと共に」というのは、主である唯一神が自分の国民を守り、教え、目的まで導くという業によって、神は人間の間にいるという意味である。人間の歴史は神の業を含んでいる。そして神の業は人間の歴史に現れる。神によって造られた人間は神から離れて神の顔を忘れてしまった。しかし、すべての者の造り主である神は人間が再び永遠の命を得る道を知ることができるように、人間の歴史の中に自分自身を現わし始めた。アブラム、モーセ、ダビデや預言者たちなど、神によってすべての国民から選ばれたユダヤの国民は再び神について理解することが出来た。

第二イザヤ(イザヤ40-55;60-62)はバビロニア捕囚から戻ったユダヤ人を慰め、より多くの希望を与えるために、この大変な時期に、ユダヤ人の光は神であると言った(60,2)。ユダヤ人は幾多の苦しい経験を味わった。しかし、この国民は神の道を歩き、神の声に従うので、異邦人のように暗闇の中に生きることはなく、光のうちに生きている。それだけではなく、将来このユダヤ人の光によって異邦人も救われることになる(60,3-6)。それは預言者の言葉であったが、ユダヤ人の歴史は大変な時代からもっと大変な時代に落ちるばかりというときであり、ユダヤ人はメシアを待つという希望しか残らない人々になっていた。

神が決めた時期にベツレヘムでメシアが生まれた。昔の予言が実現されたが、喜びの雰囲気はなかった。民衆は、王ヘロデからエルザレムの全市民に至るまで恐れを感じ始めた(ルカ2,3)。ユダヤ人よりむしろ異邦人の王たちがユダヤ人の王(メシア)を見るためにメシアの生まれた場所を探しに行き、捧げ物をした。たしかに、預言者イザヤの言葉どおり(イザ60,3-6)のことが起こった。

パウロになったサウルは、若いときに他のユダヤ人と共にナザレのイエスはメシアであるということを信じているユダヤ人に迫害された。熱心なユダヤ教の信者だったからである。パウロは神の啓示により、最も大切な教えを理解することができた(エフ3,2-3)。メシアであるイエスは、ユダヤ人が救われるためではなく、異邦人も救われるようにすべての人間の罪を許すために自分の命を捧げた。たしかに、預言者イザヤの言葉は完全になった。