メッセージ - C年 復活節 |
「あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。」
詩37・5
能力や生産性が人間の価値を評価する基準になっている社会に生きている人にとっては、競争が人生の基本的な原理となり、その人には自分をいつくしんだり、他人をいつくしんだりするようなゆとりがなくても不思議ではありません。その人は、神との関係においても、神の恵みといつくしみに頼るよりも、自分の力と功徳に頼るでしょう。それゆえ、神は聖であり正義であると信じても、神は善であり、いつくしみ深い方であることをなかなか心から信じることができず、神を愛する代りに神を恐れている人、喜びと平和の源である神に近づこうとする代わりに、神から逃げようとしている人が大勢いるのです。
「いつくしみ深い神」という回勅の中で、教皇ヨハネ・パウロ二世は、そのような現代に生きている人々に、神のいつくしみについての偉大な真理を新たに意識するように、また、このいつくしみを願い求め、それを実行するように呼びかけています。教皇は教会に、また、すべての人々に確かな模範を示すために、神のいつくしみについて力強く語り、神のいつくしみへの礼拝について教え、神への信頼と隣人へのいつくしみに生きたシスター・ファウスティナを2000年4月30日に聖人にあげて、復活祭の次の日曜日(復活節第2主日)を神のいつくしみの主日として定めました。
神のいつくしみの主日を祝い、聖ファウスティナの使命とそのメッセージを通して、一人でも多くの方が神のいつくしみの深さを知り、「イエスよ、あなたに信頼します」という言葉が表す霊性に生き、喜びと平和を味わうようになるようにお祈りいたします。
主日の朗読聖書 - B年 祭祝日 |
ヨハ20,1-9
(1)週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。(2)そこで、シモン・ペトロのところへ、また、イエスが愛しておられたもう一人の弟子のところへ走って行って彼らに告げた。「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません。」(3)そこで、ペトロとそのもう一人の弟子は、外に出て墓へ行った。(4)二人は一緒に走ったが、もう一人の弟子の方が、ペトロより速く走って、先に墓に着いた。(5)身をかがめて中をのぞくと、亜麻布が置いてあった。しかし、彼は中には入らなかった。(6)続いて、シモン・ペトロも着いた。彼は墓に入り、亜麻布が置いてあるのを見た。(7)イエスの頭を包んでいた覆いは、亜麻布と同じ所には置いてなく、離れた所に丸めてあった。(8)それから、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来て、見て、信じた。(9)イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである。
主日の朗読聖書 - C年 祭祝日 |
テーマ 神はこのイエスを三日目によみがえらせ
第一朗読:使徒言行録10,34a.37-43
人々はこの方を木にかけて殺しました。しかし、神はこのイエスを三日目によみがえらせ、現れさせてくださいました。 (Act 10:39-40 JAS)
第二朗読:コロサイ3,1-4
こういうわけで、もしあなたがたが、キリストとともによみがえらされたのなら、上にあるものを求めなさい。そこにはキリストが、神の右に座を占めておられます。あなたがたは、地上のものを思わず、天にあるものを思いなさい。(Col 3:1-2 JAS)
福音朗読:ヨハネ20,1-9
そして、見て、信じた (Joh 20:8 JAS)
釈義 - C年 祭祝日 |
第一朗読:使徒言行録10,34a.37-43
第一朗読の言葉はコルネリオの家で行ったペテロの説教である。コルネリオの家に集まった人々はユダヤ人だけではなく異邦人もいた。使徒言行録にはこの説教が異邦人に対するペテロの最初の説教である。これ以降、イエスの教えをユダヤ人にだけではなく異邦人にも述べ伝え始めた。この説教の内容をユダヤ人に対して行った説教の内容と照らし合わせると、まったく同じ教えが述べられていることがわかる。
第二朗読:コロサイ3,1-4
イエスを信じるようになったコロサイの人々はなかなか異邦人らしい良くない習慣を捨てることが出来なかった。コロサイのキリスト者にこれが出来るように、パウロはこの手紙を書いた。さまざまな倫理的な教えの基本が第二朗読の言葉である。イエスの受難や死や復活のおかげで新しい人間になったコロサイの人々はイエスと共にいる。コロサイのキリスト者は新しい人としてこの世のことを望まず神と天国のことを考える必要がある。
福音朗読:ヨハネ20,1-9
復活の日曜日まで、ヨハネはイエスのことが完全に理解できなかった。イエスの言葉を聞いたけれどこの言葉の意味が分からなかった。イエスの行いを見たけれどもこのしるしの意味が分からなかった。ヨハネが、人間を救うためにイエスの死と復活が必要であるということを理解するには、イエスの受難を見た後、空になったイエスの墓を見るという経験が必要であった。
メッセージ - C年 祭祝日 |
テーマ:「空の墓」のメッセージ
キリストの復活についての最初の証しは、キリストの「空の墓」です。福音の中で、周の始めの朝早く、マグダラのマリアは、キリストの墓の石が脇に転がしてあり、墓の中には遺体がなかったことを発見します。この報告を受けた使徒ペトロとヨハネが「空の墓」の状態を調べます。キリストの遺体を包んでいた亜麻布があり、頭を包んだ覆いは離れた所に丸めてあった。弟子たちは、何が起こったか理解できず、復活したキリストの姿をまだ見ることもできなかったが、「空の墓」の状況を見て、「信じた」と言います。
1.墓とは、死んだ者が葬られた場所を言います。したがって、「空の墓」は、死が滅ぼされたことを意味します。
2.墓の石は、人の罪の重さ、人間の弱さと罪の束縛を表現します。その石を取り除いた状態は、罪が取り除かれたこと、罪と死からの解放されたことを教えます。
3.「周の始めの日朝早くまだ暗い内に」とは、闇と無から光と存在の秩序へ移す神の創造の業を思い起こします。キリストは神の子としてこの世に来て、世界を新たにし、罪によって命を失う私たちを御自分の死と復活によって救い、神の命に与らせることを促しています。
4.亜麻布と覆いの置き方は、キリスト自身がなさった「跡」を証明しますから、復活したキリストへの道導になります。
キリストに対する私たちの信じる心は、「空の墓」の中にいた二人の弟子に似ているかもしれません。教会の使命は、キリストの復活の印となること、「空の墓」で亜麻布と覆いがキリストの復活を告げたように、教会も御自分の教えと秘跡によってキリストの復活を告げ知らせるのです。
ご復活の福音に対して、それぞれの人は異なった反応を見せます。ある人はイスラエルの指導者たちのように、自分の心を変えたくないからキリストの墓を見ようともしません。他の者は、番兵たちみたいに、「空の墓」を見たにもかかわらず、世俗的な価値を優先にして見なかったことにします。神様を求める人は、使徒ヨハネのように、キリストが残した「跡」を見て、その神秘が理解できなくても、信じて、これについて証ししながら復活したキリストに出会います。
私たちの信仰は一生、「空の墓」の中でキリストの遺体を包んでいた亜麻布と覆いを眺めている死んだ信仰にならないように注意しましょう。復活したキリストは、墓にはおられません。キリストは、復活して私たちの人生の中で生きることを望みます。私たちの一人ひとりの心の中でキリストはご復活するように祈りましょう。