メッセージ - C年 年間 |
イエスがファリサイ派のある議員の家での食事に参加したときの話です。イエスはその場にいた「上流階級」の人々に、へりくだるように、と語ります。現代の私たちの社会でも周りの人に対して「謙遜」を示すことは美徳ですが、イエスが教える「へりくだり」・「謙遜」は、少し異なる視点から語られているようです。
この箇所の前半では、婚宴に招待された人の立場のたとえを用いて、後から来た身分の高い人に席を譲る羽目にならないように、へりくだって上席ではなく末席に座りなさい、と言われます。そして後半では、同じような宴のたとえで、今度は招く側の立場から、貧しい人や体の不自由な人を招くように、とされています。この二つを合わせて考えると、まるで、「へりくだり」とは、「私はたいした人間ではありませんよ」という態度を見せることではなく、現実に弱い立場の人間として存在すること、痛みを抱えて生きることのように描かれています。
まさに、イエスのへりくだりは、十字架の上で罪人として死ぬことでした。その謙遜は、自身の命をもって示されました。
メッセージ - C年 年間 |
あなたは狭い門から入ろうと努めていますか?ルカによる福音書は、イエスに従うという私たちの決意について深く考えるよう促しています。救われる人の数について尋ねられたとき、イエスは狭い門から入ろうと努めなさいと呼びかけて答えます。この狭い門は、キリストの教えに従った人生を送るために私たちが受け入れなければならない試練と犠牲を象徴しています。イエスは、多くの人が御国に入ろうとするが、閉ざされていることに気づくだろうと警告しています。
福音書から学べる3つの教訓があります。まず、狭い門。イエスは救いへの道を狭い門の比喩で説明しています。これは、多くの人が同じ目的地につながると考える広い門とは対照的です。これは、神の国に入るには努力、規律、そしてイエスの教えに従う決意が必要であることを示唆しています。
次の教訓は、御国を目指して努力することです。救いには努力が伴います。受動的な努力ではありません。「狭い門から入るように努めなさい」(ルカ13:24)という呼びかけは、救いを得るために必要な闘争や努力を暗示しています。どのようにすればいいのでしょうか?日々の祈り、聖書朗読、ロザリオの祈り、日曜ミサ、そして黙想の習慣を身につけましょう。信仰共同体で積極的に活動し、人々に奉仕し、信仰を分かち合いましょう。困難や試練を障害ではなく、成長の機会として受け止めましょう。
もう一つの教訓は、緊急性と準備です。時間は限られています。神の御国に入る機会は永遠ではありません。家の主人が戸を閉めるというたとえ話(ルカ13:25)は、神の招きに応じることの緊急性を強調しています。最良の準備は明日ではなく、今日です。回心を遅らせず、神の招きに日々従いましょう。
祈り:主イエスよ、あなたは私たちを狭い戸口からあなたの御国の喜びへと招いてくださっています。謙遜、奉仕、そして忍耐の道を示してください。アーメン。
メッセージ - C年 年間 |
私たちの日常生活において、火は必要不可欠なものの象徴として捉えられると思います。その意味は、使用される目的によって善悪両面を含みます。火は創造と建設の象徴となることがあります。例えば、母親は火があるからこそ美味しい食事を調理できますね。また、火の力で寒さを凌ぐことができます。しかし、一方で火災が起きた時には破壊、滅びの象徴ともなります。そのため、私たちは火の機能を適切な意味と目的に合わせて賢明に活用する必要があります。また、共に繁栄する生活のために、何が良い選択なのかを選ぶ必要があります。
今日の読まれた福音書の中で、イエスは弟子たちに対して、イエスを愛し従うことの結果について、非常に厳しい助言を与えています。 主は言われました:「私が来たのは地上に火を投ずるためである。その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか」と。これはどういう意味でしょうか。これは、主のこの世への存在と影響力、そして聖霊が信者の心に燃え上がる働きを指しています。イエスがもたらしたこの火は、破壊するためではなく、人々の心を刷新し清めるためです。イエスが世界に来られた目的は、人間の心を愛、希望、そして新しい命の炎で燃え上がらせるためです。彼は弟子たちが聖霊の力の中で生き、信仰と奉仕において燃え上がることを望んでいます。
イエスに従う者として、イエスの愛の使命を実践することは決して簡単なことではありません。イエスとその使命を選ぶことは、私たちに近い人、愛する人からも拒絶や差別、迫害を受ける覚悟を意味します。しかし、絶望したり諦めたりしてはなりません。なぜなら、神の御手は常に私たちと共にあり、その恵みで導いてくださるからです。そのため、その火を消さないでください。むしろ、私たちが出会うすべての人、特に希望と信仰を失った人々、自分を拒絶する人々に、あなたの心の中のその火を分け与えてください。キリストの愛を、私たちの信仰を証しするための力と光として、与えられた人生の召命を実践することを通して、多くの人々が神から来る救いを見ることができるように、恐れず歩みましょう。
メッセージ - C年 年間 |
「愚かな金持ち」の話を聞くと、イエスがこのたとえ話を通して言おうとすることを私たちもすぐに理解できると思います。自分が持っている財産に頼らない、しがみつきないということです。そして、福音朗読のイエスの最後の言葉にあるように、この世において富を積むのではなく、神の前で豊かになることの方がはるかに大事だということです。第一朗読のコヘレトの言葉にあるように、天の下にあるものは最終的には空しいものだからです。いくら苦労しても、結局得た財産はなんの苦労もしない人にゆずってあげなければなりません。最終的にこの世を去っていく時に、世で得たものを何一つ持っていくことは出来ないのです。
ところで、持っているモノに縛られない、モノにしがみつかないことと言えば、新潟県出身の有名なお坊さん、良寛様のことをご存知でしょうか。良寛様は、持っているものを人に与え、自分自身は質素な生活をしていたことで知られています。それでも、彼はいつも喜びを持って生きていたそうです。彼にまつわる話の中で、次のような話が有名です。
ある寒い冬の夜、ドアに鍵を書けない良寛様のいおりに泥棒が入ってきました。しかし、その小屋には持っていかれるのに価値ある物は何もないです。唯一あるとすれば、それは良寛様が寝ている布団だけです。そこで、泥棒が入ったことに気づいた彼は、わざと寝返りを打て、自分が寝ている布団を泥棒が取りやすいようにしました。泥棒はその布団を取って、出て行きました。そして泥棒が出た後、良寛様は起きて、いおりの窓からまん丸としたお月様の明かりを眺めながら、歌いました。「盗人に、取り残されし、窓の月」。なんと美しい歌でしょう。この歌には、貧しさの中にも希望を持っている彼の姿が現れています。神に信頼する人の姿、そしてどんな状況の中にも常に神に感謝する人の姿が現れています。
愚かな金持ちのたとえを語ったイエスご自身は、モノに縛られない、モノにしがみつきない生き方を貫かれました。私たちも、イエスの生き方に従っていくことができますように。そして、神に信頼を置いて、与えられたものに感謝を忘れず、喜んで日々を生きることが出来ますように。
メッセージ - C年 年間 |
今日の福音書にある主イエスの言葉から、この点に焦点を当てたいと思います。「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。」と。この聖句は非常によく知られていると思います。この聖句において三つの点が注目したいのです。
まず、第一目は、「どのように求めるのか」です。
「求めなさい」「探しなさい」「門をたたきなさい」とはいずれも、熱心に追求し続けることを意味しています。ここで主イエスは、単なる処世訓を言っているだけでありません。むしろ、私たちが神に一生懸命求めるならば、神は必ずそれを与えて下さる、ということを言っているのです。従って、試練や困難があっても、信仰の内に希望を持って、目標に向かって、挑戦し続けるなら、道が開かれるはずです。
次に、第二目は、「何を求めるのか」です。
一般的に、私たちは人生の幸福や平和、健康や成功、救済や導き、愛や許し、などを求めることが多いです。しかし、聖書によると、神の国とその義をまず第一に求めることが大切です(マタイ福音6:33)。これは、神様が支配される世界と、神様の望まれる正しい生き方を、他の何よりも優先して求めるということです。
最後に、三つ目は、「神に求めることの注意点」です。
神に求める際に、まず、神の前に自分の力不足を認め、謙虚な気持ちを持つことが大切です。そして、求めることにおいて自分のためだけはでなく、他人の幸福や神の栄光のためにつながるような求めが重要です。また、自分の欲望や意志を優先するのではなく、神の御心に適うものを求めることが大事です。
皆さん、神は私たちの欲しいものを与えるよりも、人生において必要なもの、また意味のあるものを与えてくださるのです。アーメン。