メッセージ - B年 年間 |
今日の福音箇所でイエスは例えを用いて「神の国」について説明しています。しかし、この例えが逆にわかりにくいと感じる人も多いのではないでしょうか。私も正直言って、もっとはっきり理解しやすく言ってくれたら良いのに、と思います。
まず、「神の国」というものは、言葉だけ聞くと、まさしく国とか王国のようなものをイメージしがちですが、「神の国」が訪れる、というのは、神の愛と救いが人間の世の中に浸透することを意味しています。ルカ福音書17章の中で、イエスはこう言っています。「神の国は見える形では来ない。ここにある、あそこにある、と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ」と。つまり、神の国は外的に目立つものではなく、人の心に働くものなのです。ただし、この神の国、つまり神からの愛、救いというものは、それに応答する人間の姿勢、神の国を望みます、受け入れます、という自分自身の自由な意思からの応答が無ければ、実を結ばないものでもあります。そのため、イエスは全世界の人がこれに応えるように、福音を伝えることを弟子たちに命じ、私たちの生きている現代にまでその教えが受け継がれて来ているのです。
また、今日のこの二つの例え話に出てくる「種」はどちらも「神の言葉」を指しています。その神の言葉が成長していくわけですが、何故そうなるのか、人は知らない、とイエスは語っています。今日の福音箇所で一番強調されるべき点は、この「どうしてそうなるのか知らない」という言葉ではないかと思います。これは、人や社会の中で成長する神の言葉は目に見えないし、人はその成長を計ることが出来ない、という意味ですが、確かに私たちの日常生活を振り返ってみても、ふとした瞬間に教会で聞いた福音の言葉を思い出したり、教会を全く知らない人が教会を批判したりバカにしたりするのを聞いて少し腹が立ったり、そんな時があると思います。そうしたことは、私たちの知らないうちに福音朗読で聞いた言葉、教会で教えられたことが自分の中で確実に実を結んでいるからこそ起こるわけです。その日その時に福音や神の言葉を聞いたからと言って、目に見える大きな進歩が必ずある、というわけではなく、日常生活の中で、ふとした瞬間にこそ、それを実感するものなのだと思います。だからこそ、日曜日に教会で福音を聞くこと、あるいは教会学校などで教えられることや司祭の話を聞くことは、私たちの信仰に直結する大事なことであると言えるのです。すぐにそれを実感するというのは難しいかもしれませんが、私たちが聞いた神の言葉、いわゆる種は、神の国を待つ姿勢、そして私たちの応答の仕方において、着実に実を結んでいるのです。
目に見えないことを信仰する私たちのキリスト者としての生活の中で、私たちに蒔かれた種が大きく成長することを願って、今日の福音の言葉をしっかりと心に刻んでおきましょう。
メッセージ - B年 年間 |
今日の福音の中では、イエスが人々に悪霊に取りつかれていると疑われる場面が描かれています。さらに律法学者たちは「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」とイエスについて言っています。それに対してイエスは、サタンがサタンを追い出せないことを示すと同時に、「聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う」とかなり厳しい言葉で人々に教えています。「聖霊を冒涜する」ことは、聖霊を受け入れないことを意味します。そしてこの言葉はイエスの行い、わざを受け入れることができなかった人々に向けられています。さらに福音の最後でイエスは「神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ」と言われています。すなわち聖霊を受け入れ、その導きに従う人こそ、イエスの家族となり得ることを示しています。
私たちの生活の中でも、人々や様々な環境を通して聖霊が与えられています。しかし私たちの生活に近い人、環境であればあるほど、その導きを見逃すことが多いように思います。実際にイエスを取り押さえていたのは身内の人たちでした。それは私たちの思い込み、偏見によるものです。それを取り除くのは、キリスト者としての価値観で物事を見ることであり、その中で聖霊の導きを見出すことができるだと言えます。その意味では私たちは自分の生活の中で、どこに聖霊の働きがあるかを常に探し求める必要があるのだと言えます。
私たちのうちに働いている聖霊に感謝し、その導きに従うことができるよう祈り求めていきましょう。
メッセージ - B年 年間 |
今日祝う『キリストの聖体』の祝日は、13世紀からカトリック教会で祝われるようになりました。最初はベルギーで始まりましたが、その後広がって、当時の教皇様が全教会に祝われるように定めました。その名前の通り、『キリストの聖体』の日に、私たちはイエスが最後の晩餐でご自分の体と血を生きる糧、永遠の命の糧として与えてくださることを記念します。マルコ福音書にあるように、イエスは最後の晩餐でパンを取って『これは私の体』、杯を取って『これは私の血』『これを取って食べなさい。これを受けて飲みなさい』と弟子たちに言われました。この言葉はミサごとに司祭の口を通して記念されて、繰り返されるだけではなく、再び再現されます。つまり、この言葉が初めてここでイエスご自身が言われているかのように、今イエスご自身がここで最後の晩餐を行われているかのようにごミサを祝うということです。
人の口から出る言葉が力ある言葉と言えるのは、その言葉が現実と一致し、その言葉が行動を起こすことが出来るからです。ご自分の体と血を与えるイエスの言葉は真実の言葉、力ある言葉です。それは、その言葉がイエスの思いそのもの、イエスの行いそのもの、イエスの生き様そのものだからです。『これを取って食べなさい。これは私の体である。これを受けて飲みなさい。これは私の血である』という言葉は、最後の晩餐で終わるものではありません。すぐその後に、イエスは十字架の上でご自分の体を張って、私たちの身代わりとなりました。ご自分の血を流して、私たちの罪を洗い清めました。
ご聖体の時に私たちはイエスの体を自分の中に受け入れることになります。しかし、それはイエスがその前に罪にまみれている私たちを先に受け入れたからです。人は自分の体を張って、あるいは自分の体を与えるのは、愛する人、大切に思う人、心から受け入れる人にだけです。神様も私たちを愛し、大切に思うからこそ受肉されて、人となられました。そして体を持った受肉した神、主イエスは、十字架の上でその体を私たちのために与えつくしました。ごミサの中でイエスご自身の言葉によってパンとぶどう酒はイエスの御体と御血になります。ご聖体をいただくたびに、全てを与え尽くすイエスの思いを感じ取ることが出来るように。そして、イエスの思いが私たちの思いとなり、イエスの生き様が私たちの生き様となることが出来るように日々願いたいものです。
M. Pale Hera
メッセージ - B年 年間 |
今日カトリック教会は三位一体の主日を迎えました。三位一体については使徒信条の中で信仰を宣言する時、又は、祈りの始まりと終わりの時、「父と子と聖霊のみ名によって」という言葉をよく唱えるのではないでしょうか。これはカトリック教会の教義の中で大事なことであり、私たちの信仰の源でもあると同時に頂点でもあります。父と子と聖霊の関係は愛の交わりから出発します。それらは区別されるものではなく、一体です。愛によるからこそ、三位一体は共にあって、世の救いの業を行なったのです。
三位一体の主日に当たって、先ほど読まれたマタイ福音書ではイエス様は「世の救いの使命」について深く教えられています。「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊のみ名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい」とイエス様ははっきりと弟子達に向けて仰っています。それは、三位一体の名によってすべての人に洗礼を授け、真理について教え、神の愛の交わりに導くという意味ではないかと思います。これは偉大な使命を弟子達に与えられたということです。さらに、イエス様は「世の終わりまで、あなた方と共にいる」と、約束してくださいました。イエス様は弟子たちの果たす使命の中でいつも同行することを保証されました。
私達も洗礼の恵みによって三位一体の神との愛の交わりに入ることができ、イエス様の弟子になります。だからこそ、「世の救いの使命」は、私たち一人ひとりにも呼ばれているではないかと思います。つまり、三位一体とその使命というのは司祭、助祭、シスターだけの責任ではなく、皆さんを含めたすべてのキリスト教徒の使命であり、その私たちは責任を負っているのです。それぞれに与えられた賜物、その役割によって、私たちはこの崇高な使命に従事するよう召されています。神の国を全世界に宣べ伝えることは簡単なことではないですが、恐れることはありません。なぜなら私たちを呼んでくださる三位一体の神は、忠実な方だからです。世の終わりまで常に導き、守り、共にいてくださいます。ですから、心を開いて、神の言葉を信じて、勇気を持って、与えられた使命を果たしていきましょう。その経験を通して、私たちは三位一体の神の信仰を宣言することの意味を見つけることができるでしょう。
メッセージ - B年 復活節 |
聖書によると、復活したイエスは40日にわたって弟子たちに姿を現した後、天に上げられました(使徒言行録1章3-11節)。昇天祭は、キリストの復活が何よりも時空を超えた神秘であることを明らかにします。そして、「主の昇天にわたしたちの未来の姿が示されています」と祈り、わたしたちがそのすばらしい神秘に招かれているという確信を新たにするのです。つまり、主の昇天は私たちの命の旅路のラストステーションであることを示されています。
主の昇天において、興味深いところはルカ福音書24章50節-51節のところにあります。主イエスは、弟子たちをベタニアまで連れて行かれて、そこで手を上げて弟子たちを祝福してくださいました。そして、祝福しながら、天国に出発したというエピソードでした。
なぜ、主イエスはエルサレムで出発して天国に上げられたのではなく、わざわざエルサレムから約2,8km離れたベタニアへ行って、そこで天国に出発したのでしょうか?聖書には詳しく説明をしていないのですが、イエスはそこに「連れ出す」ことによって、使徒たちにその特別な意味を悟らせようとしたと思います。
まず、「ベタニア」という名は、「いちじくの家」、あるいは、「悩みの家」「貧困の家」という意味です。そして、「ベタニア」は命を回復する象徴的な場所なのです。この名前から、ベタニアと呼ばれる地域で、洗礼者ヨハネが悔い改めて神を信じた人々に洗礼を授けたことが分かります。またベタニアと呼ばれる場所で、イエスはラザロを死からよみがえらせました。ですから、「ベタニア」という名は、「命を回復する象徴的な場所」であることがよく分かります。
上記の名前の意味に基づいて考えるなら、キリストに命じられた宣教の目的は誰よりも、まず、「悩みや苦しむ人々、悲しみや貧しい人々の命の回復」だということです。だから、主イエスはわざわざ弟子たちをベタニアまで連れて行かれたことはとても象徴的だと思います。福音の恵み「喜びの知らせ」はすべての人のためですが、その人たちいわゆる「「悩みや苦しむ人々、悲しみや貧しい人々の命の回復」を宣教の第一目的にしなければならないということです。
この世界には、恵まれない人々が多くいると思います。どうか、私たちが神に用いられて、その人々を助ける者、福音の喜びを伝える者、そして励ましとなることができますように。