メッセージ - C年 年間

典礼暦では、先週の「主の洗礼」で降誕節が終わり、年間に入っていきます。ちょうど今日の福音朗読はヨハネ福音書のカナの婚礼の箇所が読まれますが、ヨハネ福音書の中で、この出来事はイエスが洗礼者ヨハネと出会ってからおよそ一週間後に起こった出来事です。イエスが最初の弟子たちを呼ぶ時まではおよそ四日が立っており、そこから「三日目に」カナの婚礼がありました。残念ながら『聖書と典礼』のパンフレットには、「カナの婚礼」の箇所の最初にあったはずの「三日目に」という言葉が省かれています。その代わりに、カッコの中で「その時」という言葉に変えられています。カナの婚礼というイエスが行った最初のしるしを理解するために、本当はこの「三日目に」という言葉が大変重要です。

なぜ重要なのか、幾つかの理由がありますが、その一つは「三日目に」というのは、単にカナでの最初のしるしが起こる時間を示すだけではなく、イエスの最大のしるし、イエスの復活を思い起こす代名詞だからです。イエスは、十字架上でのご自分の死の後、三日目に復活しました。初代教会の時も、今の私たちも、イエスを信じる人々にとって、三日目というと、イエスの復活を思い起こすからです。

母の言葉に対して、イエスは「今は、その「時」がまだ来ていない」と返事しますが、まだ来ていないその「時」とは何の時かというと、「受難、死、復活の時」の時です。その時が確かにまだ来ていないということです。しかし、そう主張しながらも、イエスは母の頼みをきっかけに、最初のしるしを行いました。なぜでしょうか。イエスは何を言いたかったのでしょうか。それは、カナでの最初のしるし、そしてこれからイエスが行っていく様々なしるしは、その「時」が来たら必ず起こる最大のしるしである死と復活とは無関係ではないということを示したかったのではないでしょうか。その時、つまり救いの業の最終的で決定的なその「時」が来るまでに、そしてその「時」に辿り着くために、今の日常で起こるしるし、日常の中で起こる神の業に気付くことが必要だということを、イエスは言いたかったのではないでしょうか。

イエスの最初のしるしはユデアのエルサレムではなく、辺境のガリラヤ地方で;そしてガリラヤの中でも、カファルナウムやゲネサレットなど知られる町ではなく、カナというあまり知られていない小さな村で起こりました。また、イエスの最初のしるしは、ごく普通の場面、婚礼という人間くさい、人間の日常的な出来事の中で起こりました。そして、イエスの最初のしるしは、目立たない仕方で起こっていました。世話役も花婿もあの最高のワインがどこから来たのか知らないまま、過ぎてしまいました。共にその婚礼に行った弟子たちだけが、イエスの最初のしるしを見て、イエスを信じました。

私たちにとっても、その「時」、最終的で決定的に死と復活を体験する時、一人ひとりにとっての「三日目」のその時が必ず来ます。それまでに、今、平凡な毎日のなかで、日常の出来事の中で起きている神の愛のしるしを読み取って、日々信仰を深めていくことが必要だということです。

M. Pale Hera

 
メッセージ - C年 降誕節

きょうは、主の洗礼の祝日です。きょうの聖書によると、主イエスは多くの民衆とともに洗礼者ヨハネの元に行って、洗礼を受けたということです。洗礼者ヨハネが、「罪の」赦しのための悔い改めの「洗礼」を宣べ伝えると、それに呼応して、ユダヤからもエルサレムからも人々が続々と出て来て、「罪を告白して、洗礼を受けた様子がマルコ福音に記されています。

では、もしヨハネの洗礼はこのような意味を含まれているなら、なぜ罪の無いイエスはわざわざ洗礼者ヨハネの元で洗礼をお受けになりましたか。実は、イエスの洗礼には特別な意味があります。

まず、一つ目は、主イエスが私たちに洗礼の重要性を教えてくださいました。水に浸ることは、死と清めを意味すると共に、再生と一新の象徴でもあります。したがって、洗礼には罪の清めと聖霊による新たな誕生という、二つの主な効果があることを主イエスに示されました。

そして、二つ目の意味は、イエスのインマヌエルの神聖を示してくださいました。罪のないイエスが罪人の列にご自分の身を置かれて、皆と一緒に並んで、同じ川に入って、同じ水で、洗礼をお受けになったという行動を深く考えてみれば、主イエスは、から人間を救おうとはされず、むしろから、人々と交わりながら、ともに悩みや苦しみ、痛みや悲しみを共感して、私達に救いをもたらしたいと望まれたということです。これがまさに、「インマヌエル;神は私たちとにおられる」ということが実現されました。使徒パウロが、フィリピの教会への手紙に、こう書いています。「主イエスは、ご自分をにして、僕の身分になられたのです」。つまり、神の子であるキリストは、「私たちをどれほど愛して、大切にしてくださったのか。また、私たちを救うために、どれほどご自分を犠牲にしてくださったのか」ということです。

主の洗礼の出来事について知っておくべき重要な点は、イエス様の存在はある意味で純粋な真珠のようです。純粋な真珠は汚れた泥の中に投げ込まれても、輝きを保ち、変色することはありません。同様に、イエスご自身も世の罪の泥の中に身を置かれても、神の子としての神性を失うことはなく、汚すこともありません。

最後に、イエスの洗礼の時に、神様は、「あなたはわたしの愛する子、私の心に適う者」と天から宣言されました。実は、私たちも洗礼を受けた時に、「あなたは神の相応しい子となり、キリストの教会の一員となった」と神様は司祭を通して宣言してくださいました。どうか、そのお恵みをいつも大切にして、最後まで守り続けますように。アーメン

 
メッセージ - C年 降誕節

主の公現は、神の栄光が神の子キリストであるイエスの誕生を通して現れたことを祝う祭日です。しかし、マタイ福音書2章によれば、イエスの誕生はきらびやかで目立つようなものではありませんでした。お生まれになった方は「ユダヤ人の王」と言われていますが、実際に生まれたのは豪華な宮殿の中ではなく、小さな町ベツレヘムでした。その誕生は多くの人に祝福されて豪勢に祝われたのではなく、外国人である数人の占星術の学者たちが来ただけで、逆にヘロデ王の反感を買って敵意を向けられました。

考えてみると、イエスの生涯すべてが栄光とはかけ離れたものでした。人にチヤホヤされ、仕えられるためではなく、自分が仕えるために生き、金持ちや正しい人たちではなく貧しい人や病に苦しむ人に寄り添い、嫌われて社会の外に追いやられている人、罪人のために働きました。そして、楽な方法で簡単にではなく、十字架の苦しみと死を通して救いをもたらしました。それはまさに、第一朗読のイザヤ書で言われているように、暗黒の闇の中にこそ光が輝いた、ということです。世の闇に、私たちの弱さや罪の中に、痛みを伴いながらあえて入って来た、そこに大きな意味があります。

暗闇の中でこそ輝く光があるように、私たちも、自分の弱さを認めながら、痛みや苦しみの中でこそ神の恵みを証しすることができますように。私たちが生きているこの世界も、決して輝くよいものばかりではありません。戦争やテロがあり、貧しさや差別があり、災害や病気がある、不完全な世界です。そこに生きている私たちも、何が正しいことが分からなかったり、分かっていても罪を犯したりする弱さがあります。けれども、だからこそ、それでも大切にされ、愛されていることを忘れないようにしたいと思います。

 
メッセージ - C年 降誕節

今日祝う聖家族という日は、カトリック教会の歴史の中ではかなり新しい習慣と言えます。元々は300年程前にカナダの司教と信徒のグループで祝い始めたものでしたが、それが広まって、正式に祝日となったのは1900年代に入ってからのことです。この日には、毎年、イエスの幼年時代の話を聞いて、家族というものを考えることが大きなテーマとなっています。

この祝日は、聖家族を構成している子であるイエス、そしてマリアとヨセフという両親、この小さな家族に目を注ぎながら、自分たちの家庭を振り返ってみる、そうした日であります。年末年始は誰もが故郷や実家などに帰省したり、連絡を取ったりと、お盆と同様に自分達の家族を意識する時期でありますが、そうした季節に合わせて、教会がこの聖家族を祝う日を設定していることには大きな意味があると思います。

さて今日の福音では、イエスが12歳の時、エルサレムの過越し祭に行って両親とはぐれる箇所が読まれています。イエスがおよそ30歳になって家を出て、いわゆる公生活を始めるまでの間、福音書から彼の幼少時代の話はほとんど見つけることはできません。父親のヨセフはその後聖書に登場しませんが、どうなったのかとか、イエスが成長する間にどのようなことがあって、人間としてのイエスの思想や倫理観を作っていったのか、とか、何も書かれていないわけです。当然、福音書の記者たちも、イエスの少年時代のことはわからないですし、弟子たちと過ごす間も、イエスは自分の家のことをあまり語らなかったのかも知れません。ですが、その語られない家族との生活の中で、間違いなくイエスは育って、現代にまで伝わる教え、言葉を残す、そうした人物となったわけです。だったら、そこにはどういう家族、両親の影響あったのか、生活の環境がどうだったのか、このような隠れている福音書の行間というものを、あくまで想像の域は超えないかも知れませんが、黙想してみる、そしてその家族の姿に、今のキリスト者の家庭はどう倣っていけるだろうか、そうした思案を試みることも、今日の聖家族の日の意味の一つであると言えるでしょう。普段は福音書のメッセージから何かを受け取りますが、福音書の行間から福音を読み取る、という聖書の受け取り方というものを、私たちはこの聖家族をテーマにして黙想してみたいと思います。

また今日から世界中の各教区において、25年に1度の通常聖年の記念が開始されます。それぞれが、主日の集いに感謝し、新しい年も共にこの集いを良い形で持ち続けることが出来るように、そして様々な困難の中で、教会に行くことが難しい方々のことを心に留めながら、全てのキリスト者と心を合わせて、新しい聖年を過ごして行くことができるように祈りましょう。

 
メッセージ - C年 降誕節

今年もクリスマスがやってきました。今日、全世界の教会が大きな喜びをもって幼子イエスの誕生を祝います。今日は神から特別な祝福を受ける聖なる日なのです。この日は、神が約束された救いの神秘について考えるよう私たちを招いています。インマヌエルは、私たちを罪の闇から永遠の救いへと導くために来られました。ですから、私たちは希望を持って幸せのうちに喜ぶべきなのです。そして、イエスを神の子と認めるための信仰の旅を、ますます力強く踏み出す貴重な瞬間なのです。

今日、読まれた朗読の中で「共にいる神」について深く描かれています。第一朗読の中で預言者イザヤは、平和の知らせと神の王の到来という良き知らせを喜ぶようにと預言しました。同様に、イエスの到来は普遍的な救いの意味を持っています。イエスは平和の君、救い主として来られるのです。また、第二朗読のヘブライ人への手紙では、神は預言者たちを通して、繰り返し、さまざまな方法でイスラエルの民に語りかけてこられたと説明されています。そして今この時、神は、イエスの受肉において、愛する御子を通して語られました。また、イエスが宇宙の創造に関わったと述べています。イエスは神の栄光であり、神の表象であると書かれています。イエスの臨在は罪の清めのためであり、その後、イエスは本来の栄光のうちに御父のもとに帰られました。これはヨハネ福音書の中で肉となった神の神秘を示しています。ヨハネは、「御言葉は肉となって、私たちの間に宿られた」と書いています。初めにおられたのは御言葉であり、御言葉は神ご自身であったのです。天地とそこにあるすべてのものを造られたのは神であり、人間を造られたのも神であったのです。神は肉となって私たちの間に住まわれました。つまり、人間は尊い存在であり、神の心の中で特別な位置を占めているということです。神は他者の中に、人間という人格の中に存在するのです。ですから、キリストが人となられた出来事は、神ご自身のかたちに似せて造られた被造物である人間と、神がどれほど親密に結ばれているかを明らかにしているのです。偉大な神は、人類に親しみ、近づき、一体となられました。神は私たちのただ中におられるだけでなく、ご自分を開き、人類のために愛し、生き、死んでくださるために、実際に人間となられたのです。神はクリスマスに赤ちゃんの姿の御子イエスを通して人類に挨拶されます。彼はインマヌエル、私たちとともにおられる神です。イエスの誕生によって、私たちは新たな希望、すなわちイエスのうちに、また、イエスとともにある幸福と救いの希望を得るのです。彼はこの世に来られた真の光です。

私たちにとって、クリスマスのメッセージとは何でしょうか。クリスマスは良い知らせであり、平和のお祝いであり、神の独り子であるイエスの受肉を記念するものであります。これらはすべて、私たちが感謝すべき贈り物であります。私たちは皆、最初は良い知らせを受け取る者ですが、今度は良い知らせを伝える者とならなければなりません。みことばであり、いのちであり、光であるイエスへの信仰を通して、私たちの存在が出会うすべての人に祝福となりますように。また、クリスマスというお祝いを通して、神は私たちを新たにし、光の子としてくださいます。 なぜなら、真の光が私たちの心と人生に生まれ、私たちの人生の闇を取り除いてくださるからです。 ですから、私たちは平和の君、すなわち肉となって私たちの間に住まわれた御ことばの光の中で生き続けましょう。どうか、私達一人ひとりが自分の存在を通して神の愛を他の人に分かち合う事が出来ますように。

 

主のご降誕おめでとうございます