メッセージ - B年 年間 |
今日カトリック教会は三位一体の主日を迎えました。三位一体については使徒信条の中で信仰を宣言する時、又は、祈りの始まりと終わりの時、「父と子と聖霊のみ名によって」という言葉をよく唱えるのではないでしょうか。これはカトリック教会の教義の中で大事なことであり、私たちの信仰の源でもあると同時に頂点でもあります。父と子と聖霊の関係は愛の交わりから出発します。それらは区別されるものではなく、一体です。愛によるからこそ、三位一体は共にあって、世の救いの業を行なったのです。
三位一体の主日に当たって、先ほど読まれたマタイ福音書ではイエス様は「世の救いの使命」について深く教えられています。「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊のみ名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい」とイエス様ははっきりと弟子達に向けて仰っています。それは、三位一体の名によってすべての人に洗礼を授け、真理について教え、神の愛の交わりに導くという意味ではないかと思います。これは偉大な使命を弟子達に与えられたということです。さらに、イエス様は「世の終わりまで、あなた方と共にいる」と、約束してくださいました。イエス様は弟子たちの果たす使命の中でいつも同行することを保証されました。
私達も洗礼の恵みによって三位一体の神との愛の交わりに入ることができ、イエス様の弟子になります。だからこそ、「世の救いの使命」は、私たち一人ひとりにも呼ばれているではないかと思います。つまり、三位一体とその使命というのは司祭、助祭、シスターだけの責任ではなく、皆さんを含めたすべてのキリスト教徒の使命であり、その私たちは責任を負っているのです。それぞれに与えられた賜物、その役割によって、私たちはこの崇高な使命に従事するよう召されています。神の国を全世界に宣べ伝えることは簡単なことではないですが、恐れることはありません。なぜなら私たちを呼んでくださる三位一体の神は、忠実な方だからです。世の終わりまで常に導き、守り、共にいてくださいます。ですから、心を開いて、神の言葉を信じて、勇気を持って、与えられた使命を果たしていきましょう。その経験を通して、私たちは三位一体の神の信仰を宣言することの意味を見つけることができるでしょう。
メッセージ - B年 復活節 |
聖書によると、復活したイエスは40日にわたって弟子たちに姿を現した後、天に上げられました(使徒言行録1章3-11節)。昇天祭は、キリストの復活が何よりも時空を超えた神秘であることを明らかにします。そして、「主の昇天にわたしたちの未来の姿が示されています」と祈り、わたしたちがそのすばらしい神秘に招かれているという確信を新たにするのです。つまり、主の昇天は私たちの命の旅路のラストステーションであることを示されています。
主の昇天において、興味深いところはルカ福音書24章50節-51節のところにあります。主イエスは、弟子たちをベタニアまで連れて行かれて、そこで手を上げて弟子たちを祝福してくださいました。そして、祝福しながら、天国に出発したというエピソードでした。
なぜ、主イエスはエルサレムで出発して天国に上げられたのではなく、わざわざエルサレムから約2,8km離れたベタニアへ行って、そこで天国に出発したのでしょうか?聖書には詳しく説明をしていないのですが、イエスはそこに「連れ出す」ことによって、使徒たちにその特別な意味を悟らせようとしたと思います。
まず、「ベタニア」という名は、「いちじくの家」、あるいは、「悩みの家」「貧困の家」という意味です。そして、「ベタニア」は命を回復する象徴的な場所なのです。この名前から、ベタニアと呼ばれる地域で、洗礼者ヨハネが悔い改めて神を信じた人々に洗礼を授けたことが分かります。またベタニアと呼ばれる場所で、イエスはラザロを死からよみがえらせました。ですから、「ベタニア」という名は、「命を回復する象徴的な場所」であることがよく分かります。
上記の名前の意味に基づいて考えるなら、キリストに命じられた宣教の目的は誰よりも、まず、「悩みや苦しむ人々、悲しみや貧しい人々の命の回復」だということです。だから、主イエスはわざわざ弟子たちをベタニアまで連れて行かれたことはとても象徴的だと思います。福音の恵み「喜びの知らせ」はすべての人のためですが、その人たちいわゆる「「悩みや苦しむ人々、悲しみや貧しい人々の命の回復」を宣教の第一目的にしなければならないということです。
この世界には、恵まれない人々が多くいると思います。どうか、私たちが神に用いられて、その人々を助ける者、福音の喜びを伝える者、そして励ましとなることができますように。
メッセージ - B年 復活節 |
今日の福音箇所では、福音書全体でも特に有名なイエスの掟である「互いに愛し合いなさい」という言葉に注目が集まるかと思います。この後に「友のために自分の命を捨てること以上に大きな愛は無い」という一文が続きますが、これは、ヨハネ福音書が成立した90年から100年頃のキリスト者への迫害の状況を表しています。当時のキリスト者たちは、激しい迫害の中で、時には命を奪われることもあったわけですが、こうしたイエスの言葉を拠り所として、信仰を保ち続け、迫害を耐え忍んでいたのであります。そういった福音書成立当時の背景を考えてみると、福音書の言葉の理解がまた新たになるかもしれません。
さて、今日のこの箇所で、イエスは「わたしが命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である」と語っています。ではそのイエスが命じることとは何かと言うと、まず浮かんでくるのが、「互いに愛し合いなさい」という掟であるかと思います。言葉としてはとてもシンプルなものでありますが、わたしたちがこの掟を忠実に守っているか、と聞かれれば、なかなか「はい」と答えることは難しいと思います。わたしたちはこうして日曜日ごとに福音を聞き、司祭の説教を聞いて、イエスの言葉を理解し、それを日常の生活から生きることを一つの大きな使命としています。例えば今日の箇所で言えば、互いに愛し合え、という明確なメッセージがあるのですから、わたしたちは出来る限り、それに沿った生き方を心に留めておくべきですが、一歩教会の外に出て日常生活に戻ると、もはや頭の片隅にも残っていない、ということがあるかと思います。私もそうです。ここでこうして偉そうに話してはいますが、外では人の悪口ばかり言うなど、とてもじゃないですが、掟にかなった生き方をしているとは言えません。
東方教会では、信徒の日常生活のことを「典礼の後の典礼」と表現すると言われています。この表現は、日曜日に教会に集まり、ミサに与かるだけに留めることなく、日常生活からその典礼を生きているのだ、ということですが、この姿勢にわたしたちは学ぶことが出来ると思います。2000年前のイエスの言葉を現代で忠実に守る、ということは非常に困難なことではありますが、それでも、少しでもイエスが教えるような生き方を志すことは出来ると思います。そのためにも、わたしたちが日常生活を生きる中で、いかにイエスが、そして福音書が伝えるメッセージを生きることが出来るかを考えていく必要があるのではないかと思います。そうすることで、初めて、わたしたちはイエスの友である、と自身を持って語ることが可能になるのではないでしょうか。
復活節も終わりが近づいています。わたしたちが、福音書の言葉を教会の中だけでなく、日常生活から生きることが出来るように祈りながら、聖霊降臨への心の準備を進めて参りましょう。
メッセージ - B年 復活節 |
今日の福音書を読んで黙想した時、修練期の頃のことを思い出しました。毎月の第三日曜日、修練士には自由時間が与えられ、外に出ることが許されます。ある第三日曜日、私は友達と町に行って買い物をしました。バスを降りると、杖をついて歩くおばあちゃんが交差点を渡ろうとしているのですが、バイクと車が多くてなかなか渡ることができません。おばあちゃんは何分間もずっと待っていたので、私は「おばあちゃん、お手伝いしましょうか」と声をかけました。そして、おばあちゃんの手を握って、一緒に交差点を渡りました。おばあちゃんは私の顔をしばらくじっと見て「あなたはイエス様ですか。」と。これを聞いて、私は本当に驚きしました。「いいえ、私は一人の修練士です。」と答えました。
今日の福音箇所では、イエス様はぶどうのたとえ話を使って、イエス様との「つながり」について語られています。「私は真のぶどうの木、あなた方は、その枝である」。このたとえ話を通して、イエス様はご自身が真のぶどうの木であり、イエスに従う私たちがその枝であることを説明されました。枝はぶどうの木につながっている。この枝は、木につながっていることで、その木からいただく栄養と水で養われ、成長し、強くなり、豊かな実を結ぶことができる。もし、枝が木につながっていなければ、枯れてしまう。つまり、ぶどうの木であるイエス様とその枝である私たちの関係は、まさに、木であるイエス様につながっていなければ、枝である私たちは生きられず、何もできない状態で枯れてしまい、捨てられてしまうのです。
イエス様と「つながっている」ということは、イエス様の中で生きていることであり、イエス様が私たちの中にいるということです。つまり、イエス様のもとに来て、祈りやその御言葉を通してイエス様との関係をより深くすることが大切です。そうすれば、私たちは信仰の内に成長し、神の国のために豊かに実を結ぶことができるのです。どうぞ、私たちの人生に善、喜び、平和という聖霊の実を結ぶことができるように、イエス様を私たちの人生に流れ続ける唯一の命の源としましょう。
メッセージ - B年 復活節 |
良い羊飼いの主日に当たっている今日の福音でイエスは自らを、良い羊飼いであると述べています。そして雇い人は自らの羊を心にかけていないことに対し、良い羊飼いは羊のために命を捨てると述べています。実際にイエスは羊である我々の救いのために自らの命を投げうち、そして過越しの神秘のうちに救いの希望があることを示してくださいました。さらに囲いに入っていないほかの羊も導かなければならないと福音の中で述べています。囲いに入っていない羊、すなわち自らには救いがないと感じていた人々をも救いに導くことを示しています。その意味でイエスの救いは全ての人々にもたらされます。
私たちのうちでも、見放されてしまったのではないかと思うほどの孤独や失望を感じることもあると思います。しかしイエスはその中でも周りの人々を通して、私たちがいつもイエスに従うよう呼び掛けています。私たちはいつもそのことを思い巡らし、その呼びかけが生活のどこにあるかを探し求めなければなりません。そのためにも自らの命を投げうったイエスがいつも共にいることを、祈りのうちに思い起こす必要があります。
私たちをいつも導いてくださるイエスに信頼し、そして私たちも苦難の中にあっても、いつも過越しの神秘に招かれていることに感謝して、イエスに従うことができるよう恵みを祈り求めていきましょう。