メッセージ - C年 年間 |
誰かをうらやんで「ずるい」と言う人がいます。正当な仕方で得たとしても、自分が持っていないものを他者が手にしているというだけで、自分が損をしているのではないのに誰かが得をしているというだけで、「ずるい」と言うのです。そんな考え方の人にとっては、今週の福音朗読(ルカ13:22-30)の中で示されている、神の国のあり方には我慢がならないでしょう。
救われるためには「狭い戸口」から入らねばならず、神の国では「後の人で先になる者があり、先の人で後になる者もある」とイエスは語ります。一方で、「人々は、東から西から、また南から北から来て、神の国で宴会の席に着く」とされ、まるで地上のどこから来た誰であっても神の国に入れるかのように描写されています。
私たちには神の救いの基準はわかりません。隣の人を見て、勝手に横から「ふさわしくない」「それで神の国に入れるのならずるい」などと言っても仕方がありません。「どうすれば救われるのか」を問い続けても答えは出ません。私たちにできることは、いま目の前にある戸を、これこそ神につながる戸だと信じて叩くだけです。
メッセージ - C年 年間 |
福音朗読箇所(ルカ12:49-53)では、「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである」や「わたしは地上に平和をもたらすためではなく、むしろ分裂をもたらすために来た」などの、イエスらしからぬ過激な言葉が投げかけられています。けれども、これは「戦争や憎しみをもたらす」という表現ではなくて、私たち一人ひとりが何を一番に選ぶのか、どっちつかずにならずに、なあなあですますことをせずに、決断するようにと迫る言葉です。父と子が、母と娘が対立して分かれると言いますが、親しい家族と争うことが目的なのではなくて、大切な家族の反対にあったとしても、あなたは大切なことを選び取ることができますか、そんな問いかけです。
まわりの意見に流されて良いと思うことを選べない、面倒なことになるのを避けたくて楽な方を選んでしまう、人の顔色をうかがって正しいことを正しいと言えない、そんな弱さが自分の中にあるのを厳しく指摘されているような気がします。
ここに至るまでに、イエスは既に、自分が長老や祭司長や律法学者たちから排斥されて殺されると予告しており(9:22)、その場所となるエルサレムに向かっている途上で(9:51)、自分に従う覚悟を弟子たちに問い(9:57-62)、ユダヤ教指導者たちとの対立を深めます(11:37-53)。このような緊迫した中で、私たちも同じ状況に立たされて、「あなたはどちらを選ぶのですか」と決断を迫られているのです。
メッセージ - C年 年間 |
「グレゴリオ」とか「グレゴリウス」という名前で呼ばれる教皇や聖人は何人もいますが、この名前の由来となっている言葉は、ギリシャ語の「グレーゴレオー」という動詞です。この言葉はこの主日の福音朗読(ルカ12:35-40)の中で使われていて、「目を覚ましている」と訳されています。しかし「目を覚ましている」と言っても、その意味は、単に「眠っていない」「目を開けている」ということではなくて、「用心深くいること」、「油断せずにいること」、「警戒を怠らないこと」、つまり「寝ずの番をすること」です。いつ婚宴から帰ってくるかわからない主人をふさわしく迎えようと準備しながら待っているしもべたちのたとえにぴったりの言葉です。
職業としての仕事にはフルタイムもパートタイムもあります。フルタイムの仕事であっても、決まった勤務時間があり、そこから離れる時間はあります。けれども私たちの生き方には、パートタイムも休みもありません。家族であること、本当の友人であることのように、強い結びつき・関わりは、パートタイムではありえません。私たちがキリスト者として生きる、ということも同じです。日曜日、教会にいるときだけキリスト者のようにふるまうけれども、家に帰ったら、教会と関係ない人との関わりでは、あるいは職場や学校にいる間は、キリスト者であることをやめる、そういうことはありません。そうではなくて、24時間、365日、いつもキリストに従うものとして生きるように求められています。
それは厳しいことのようにも思えますが、私たちはいつも見守られているのであって、見張られているのではありません。その絶え間ない見守りに応える、絶え間ない誠実な生き方こそ、キリスト者としての生き方です。
メッセージ - C年 年間 |
この主日の三つの朗読箇所は、いずれも何が私たちにとって本当に大切なことかを問いかけています。
第一朗読のコヘレトの言葉(1:2、2:21-23)では、「なんという空しさ、なんという空しさ、すべては空しい」というフレーズが印象的ですが、私たちの生は確かに空しさにとらわれることがあることを指摘しつつ、果たしてそれに絶望して終わりなのか、と問いかけます。
第二朗読のパウロのコロサイの教会への手紙(3:1-5, 9-11)では、上にあるものを求め、地上的なもの(けがれた思いや行い、貪欲など)を捨て去るように語られています。
福音朗読(ルカ12:13-21)では、遺産の分配について不満を述べる人に対して、イエスは、財産への貪欲さを捨て、「神の前での豊かさ」を求めるようにと呼びかけています。
私たちの普段の日常生活の中では、何かをあきらめたりしなくても様々なものが同時に手に入ることが多いので、あえて優先順位をつけて価値を比べることはあまりありません。あいまいにして、見ないことにしておろそかにしてしまっていることもあるでしょう。けれども、何か大きなものを失ってしまったとき、やっと本当に必要なものの存在に気づかされます。一方を捨て他方を選ばなければならないとき、自分にとって本当に大切なものが何かを思い知らされます。真に価値あるものを見失わないように、難しい選択から目を背けないように、聖書の言葉は私たちを後押ししています。
メッセージ - C年 年間 |
「祈り」は私たち自身の心のあり方を形にしたものなので、様々な表わされ方があります。感謝、賛美、悔い改めなどですが、やはり最も大きな要素は「願い」でしょう。この主日の福音朗読(ルカ11:1-13)で、イエスが弟子たちに教えている「主の祈り」もそうですし、「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる」(11:9)という言葉も願いとしての祈りのあり方を強調しています。
よく言われることですが、祈りは、願ったとおりそのままかなうとは限りません。確かに、願っていたこととは違う形になったけれども、それでも後から振り返ると結果的には良かった、と感じることはたびたびあります。必ずしも祈りの願いの言葉通りに物事が実現することが祈りが聞き入れられることではない、と肝に銘じておくべきです。しかし、だからといって祈ることが必要ない、意味がない、ということにはなりません。
私たちが本当に大切にしていることに関してであれば、自分の生き方に根ざした祈りが自然に沸き上がってくるはずです。心からの願いがあふれでてくるはずです。不満も叫びも含めて自分の心をありのまま神の前にさらしつつ、同時に自分が最善を知っているわけではない、という謙遜さを持ち合わせることが、不完全な人間としての誠実な姿勢なのかもしれません。