メッセージ - B年 年間 |
今日の福音朗読にイエスは「神を愛すること」と「隣人を愛すること」について語っています。多くの私たちにとってはあまりにも聞き慣れている決まり文句のようにも聞こえています。そして、この二つは表裏一体のもので、いつもワンセットになっていることが当たり前のように考えているかもしれません。しかし、ユダヤ教の律法(旧約聖書)には両者はワンセットにはなっていません。神への愛については、今日の第一朗読の申命記6章5節に書かれています。隣人への愛についてはレビ記19章18節で書かれています。「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか」という律法学者の質問に対して、イエスは一つではなくわざわざ二つ、第一と第二の掟を合わせてその質問に答えました。ユダヤ教的伝書の中でこのように神の愛と隣人愛が結び付けられる例は、他にはありません。いわばイエスの教えの特徴だと言えます。
ところで、神への愛と隣人愛の関係について、聖アウグスチヌスは次のように書いています。「神への愛は命令の順序では先ですが、隣人への愛は実行の順序では先です。・・・あなたが神をまだ見ていないので、あなたは隣人を愛することによって神を見るという、将来の報いに値するものになります。隣人を愛することによって、神を見るために目を清めます」と。聖アウグスチヌスの言葉から、イエスがなぜこの二つの掟を結びつけたかが分かります。第一の掟は第二の掟なしにはあり得ないということです。ですから、イエスは「隣人を自分のように愛することはどんな焼き尽くす献げ物やいけにえよりも優れている」と言った律法学者を誉めた訳です。献げ物を捧げることが神への愛を表す宗教的義務としているユダヤ教にとって、律法学者の言葉は画期的なことです。彼の口から出た言葉はイエスが一番言いたかったことではないでしょうか。
しかし、隣人への愛は献げ物やいけにえよりも優れているからと言って、神への愛を蔑ろにしていいという意味ではありません。むしろ、隣人愛は神への愛の実現とならなければならないということです。その意味で、第二朗読にあるように、大祭司イエスは十字架の上でご自分をいけにえとして神に捧げることになりますが、それは人々への愛のいけにえに他なりません。イエスの十字架の死は神への愛と隣人愛の極限的な形だということです。いわば、神への愛と隣人愛が本当の意味でワンセットになっている瞬間です。
私たちの隣人愛の足りなさは、もしかすると、神を愛することと区別していることが一つの大きな原因かもしれません。言い換えれば、欠点だらけの他人の中に神を見ることが出来ないということです。しかし、聖アウグスチヌスの言葉にあるように、神を見るための目を清めるには、隣人愛の他に方法はないということです。
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今週の福音(マルコ10:35-45)では、ゼベダイの子ヤコブとヨハネが、イエスが栄光を受けるとき、その左右に自分たちを据えてほしい、と願います。主と仰ぐ方の隣に席を与えられることは大きな名誉でしょうが、単なる虚勢ではなく、それに見合う意気込みも見せます。「わたしが飲む杯を飲むことができるか」と問うイエスに対し、二人は自信満々に「できます」と答えている通りです。
この「杯」は、後に祭司や律法学者たちの手先に捕らえられる前、ゲッセマネで祈ったイエスの言葉、「この杯をわたしから取りのけてください」に言い表されている苦しみのことでしょうが、たとえその苦しみの杯を飲むとしても、二人がどこに座るかはあずかり知らぬことだ、とイエスは語ります。
ヤコブとヨハネは、確かにイエスへの忠実さを貫こうとし、一心にイエスに向かっていきました。けれども、彼らの視界からは、自分たち以外の十人の使徒たちや、他の人々は排除されていました。結果、十人が二人の兄弟に腹を立てたのは当然の反応でした。そこで、イエスはこの後に12人を呼び寄せ、彼らが皆に仕える者となり、すべての人の僕とあるようさとします。
私たちが生きていくとき、神に向かい、イエスの姿を求めて自分の信念や理想を追求することは大事なことでしょう。けれども、周りに目を向けるべき人がいる、自分の横には、同じ歩みを共にしている人々がいることを忘れないようにしたいと思います。そしてそれこそが、「仕えられるためではなく仕えるために」来たイエスに従うことなのです。
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今日の第1朗読のテーマは他の朗読の通奏低音のような、解釈の鍵となっているのではないでしょうか。それは、すなわち知恵であり、その知恵の対象である真理なのです。知識ではなく、また情報でもなく、それぞれの繋がりである知恵、物事の全体像を把握できる知恵、また、覚えたことによって知っていることを常に正しく適用できる知恵の貴重さが強調されています。人生の意義、命の価値、神の存在などのような大切なことについて第三者としてではなく直接知ることはどの財産よりも尊いとあります。
第2朗読によれば、全て人間の知恵の前に、まず神の言葉が知恵に満ちており、あらゆる真理の中に神の知恵が反映されています。しかも、現代しばしば見られているように、妥協するのでも、人の気持ちを傷つけることのないように薄めるのでもなく、真理は細かいところまで大切なものを見分け、場合には医者のメスのように人間の心に突き刺すこともあります。言うまでもなく、それは苦い薬と同じように、癒すためのことです。
それから、福音書が言うように、神の言葉が伝えようとする真理や、肉となった真理であるイエスの言葉を受け入れることは簡単でない時があります。それを自分の命の中に迎え入れるためには、何かを犠牲にする必要がある場合もあります。地上的な宝と天上的なそれには同時によりすがることはできず、最終的にはどちらかを選ばなければなりません。人間的にはすぐに不可能かもしれませんが、少しずつ神の力によって知恵に富むものになっていくことができるよう、今日改めて祈りましょう。
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第一朗読の創世記で男と女が作られた話、また福音朗読の夫が妻を離縁することについての論争で、イエスが語られた「人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる」という言葉を耳にするとき、どうしても夫と妻という夫婦の関係のことだけを考えがちですが、今日の朗読はいずれも、あらゆる人間関係に当てはまるものです。
私たちは、誰も一人で生きていくことはできません。誰もが「助け手」を必要としており、そしてまた誰か他の人の「助け手」となっています(創世記2:18)。夫婦、家族、友人、地域、学校や職場など、様々な人とのかかわりがあるとき、それは私が自分で一人で作り上げたものではなくて、まさに「神が結び合わせてくださったもの」(マルコ10:9)と感じられます。そして私たちは皆、一つの源である神のもとに、イエスと共に、兄弟姉妹とされています(ヘブライ2:11)。
もちろん、私たちが抱えている他の人との関係は、すべて好ましいものであるとは限りません。自分のせいなのか、相手のせいなのか、状況のせいなのか、どうしてもうまくいかないこともあります。けれでも、少なくとも自分の方からは、対等な関係を保ち続けるように呼びかけられています。すなわち、自分が利益を獲得し得をするために相手を利用するような、いびつな人間関係は、神のもとにある兄弟姉妹、お互いをわが身と感じるほど一体である夫婦、助け合いは、神が結び合わせてくださった人間同士の関係からは、かけ離れています。「神が私たちに望まれる関係」とはどのようなものか、自分の日常のかかわりの中で、考えたいと思います。
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今日の福音は、ヨハネがイエスの名を使って悪霊を追い出している人を見かけことを報告し、それをやめさせるようにイエスに提案する場面から始まります。イエスは「やめさせてはならない」とヨハネに応え、そして「わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである」と弟子に教えられています。イエスに逆らわない者は、イエスの味方であるというこの考え方は、一見極端で、不可思議に見えますが、一方でキリスト教の浸透していない日本で生活する私たちにとって、大きな希望を持ったみことばであると言えます。それは私たちの周りにいるキリスト者以外の共に社会に住む人々も、「味方である」ということを意味するともとらえることができるからです。しかし日本の中では、宗教に対し、疑いの目が欠けられていることも確かです。しかし、このイエスの言葉のなかに私たちが社会の中でどう生きるかというヒントが示されているようにも思えます。
福音書の中でイエスは「わたしの名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、私の悪口は言えまい」と言っていますが、私たちの生きる現代においても、イエスの示してくださった愛のわざを行った人々が、本当の意味でイエスを拒絶することはないと思います。だからこそ私たちは、社会奉仕などを始めとするキリストの示してくださった愛の実践を通して、共にキリストの愛を分かち合わなければなりません。だからこそキリスト者ではない、私たちの周りにいる人々も「味方」なのであり、私たちは周りの人々、共に住んでいる人々と共に、イエスが示してくださった愛の実践をするように、招いているのです。そして私たちは、宗教や思想を超えて人々への愛によって一致するように招かれているのだと言えると思います。