メッセージ - B年 年間 |
先週の福音朗読、ヨハネ福音書に見られる弟子の召命物語と同様、今週の福音朗読箇所(マルコ1:14-20)でも、やはりイエスは漁師たちを弟子にするとき、彼らをご覧になって、呼びかけ、彼らがそれに応える、という召命のパターンが見られます。弟子になる人々の応え方は、ただついて行くというのではなく、それまでの生き方を捨ててイエスに従うという、新しい生き方の選択として描かれています。
シモンとアンデレはイエスに呼ばれたとき漁をしていましたが、漁師として生きるシンボルであり、漁師としての仕事に実質的にも必要不可欠で、その時もまさに打っていた「網」を捨てて、イエスに従いました。ヤコブとヨハネも同様です。漁師として必要で、そのアイデンティティでもある舟をおいて、それまでの人生で最も重要な人間関係である家族関係の象徴、父親を残して、イエスとの関係を深めていく生き方を選びます。
私たちの「召命」は、一方で「呼ばれている」「必要とされている」というものであり、また他方、自分の意思で自分の生き方において何を優先させるかを「選択する」というものでもあります。その両方を大切にしたいと思います。
メッセージ - B年 年間 |
四つの福音書の中には人がイエスの弟子になる場面がいくつもあり、それぞれの召命は様々で興味深いですが、共通点もあります。召命はいつも一方的ではなく、応答です。そこには出会いがあり、呼びかけがあり、それに対する応えがあります。
今週の主日の福音(ヨハネ1:35-42)では、二つの召命物語が語られます。前半ではヨハネの二人の弟子がイエスに従うようになり、後半ではシモンがイエスと出会います。アンデレを含む、ヨハネの二人の弟子は、ヨハネがイエスのことを「神の小羊だ」と言うのを聞いてイエスについて行きますが、その後の出会いが詳しく描かれています。二人がやって来ると、イエスは「振り返り」、彼らに向き合います。そして彼らが何を求めているのかと尋ね、自分がいる場所に来て、自身の目で見て確かめるように呼びかけます。
イエスに従ったアンデレは兄弟のシモンをイエスのもとに連れてきますが、やはりイエスは彼の方を向いて、じっと見つめます。そして「ケファ(岩)」という名前を与えます。現代でもあだ名をつけるのは親しさの表れですが、それだけではなく、名前を与えるということは重要な役割を与えることでもあります。イエスはシモンに、新しい役割、新しい生き方を示し、シモンはそれに応えていきました。
共観福音書の召命の場面でもそうですが、イエスが誰かを弟子に呼ぶとき、その人を「見る」と言われているのは印象的です。イエスはまっすぐにその人と向き合って、目を合わせて呼びかけます。私たちにもそのまなざしは向けられています。
メッセージ - B年 降誕節 |
どの福音書でも、イエスの洗礼は、その公生活・宣教の始まり、あるいはその前の出来事として描かれています。今週の福音朗読箇所(マルコ1:7-11)の前にあるマルコ福音書の冒頭も、洗礼者ヨハネの活動の報告(1:1-6)があり、イエスは彼から洗礼を受けた後、荒れ野での誘惑(1:12-13)を経て、ガリラヤで宣教を始めます(1:14-15)。イエスの洗礼は、福音を宣べ伝える使命の始まりでした。
そういう意味で、洗礼はイエスにとって新しい生き方を始める出来事でしたが、今日のキリスト教徒にとっても「洗礼」は、キリスト者としての、神の子としての新しいいのちの始まりとされています。主の洗礼の祝日にあたり、また年の初めにあたって、自分の生き方についてふりかえり、自分の使命は何なのかを考える機会としたいものです。
メッセージ - B年 降誕節 |
福音朗読(ルカ2:22-40)は、ルカ福音書における、幼子イエスと両親がエルサレムの神殿に上った時の話です。そこで出会ったシメオンは、イエスを抱いて救い主の訪れをあかししました。同様に、神殿にいた女預言者アンナも救いを待ち望む人々に幼子のことをあかししました。彼らは聖家族と偶然出会ったのかもしれませんが、そうだとしても積極的に幼子イエスと関わりました。
マリアは、そしてヨセフも、たまたまイエスと家族になった、というのではなくて、神の御旨を求めながら、生涯をかけてイエスとの関わりを深めました。シメオンが母マリアに向かって、この子が反対を受け、マリア自身も剣で心を刺し貫かれる、と語った通りです。
聖家族のお祝いは、単にイエスとマリアとヨセフをたたえるのではなく、私たちもイエスとの関わりを通してその家族の交わりの中に入ることができる、招かれている、ということを思い起こさせます。
メッセージ - B年 待降節 |
今週の福音朗読の箇所(ルカ1:26-38)である受胎告知、お告げの場面で、マリアの最後の言葉、「私は主のはしためです。お言葉通り、この身になりますように」はとても有名な言葉で、ラテン語訳の最初の言葉を取って「fiat」と呼ばれたりします。
この後のマリアの人生、マリアがどのようにしてイエスと歩んでいったかを思い起こすと、その「お言葉通りになりますように」という言葉は、「そのままどうにでもなればいい」という投げやりな諦めでもなく、自分は何も関わろうとしないで「流れに任せてそのままにしておこう」という無責任さの表明でもなくて、むしろ、大きな役割を引き受けるような、積極的な強い意志を感じる言葉だということが分かります。イエスが亡くなられた十字架の下まで一緒についていった、苦しい道を共に歩んでいった母マリアの人生を考えるとき、この言葉の重みが感じられます。
自分の人生の中に神の力からが確かに働いていると感じる、というだけではなくて、自分の言葉と行いを通して神の働きが周りの人々にも及ぶように「神様の働きに私も協力できますように」という祈りの言葉、それがこの「お言葉通りになりますように」に込められた思いです。