メッセージ - B年 復活節 |
今日の主日は、福音朗読の主題に従って「良き牧者の主日」と呼ばれています。2回もイエスは自分は(預言者たちが当時の指導者を批判して、その到来を予告していた)良い羊飼い、すなわち誠の、唯一の羊飼いであると主張しています。遊牧民でない私たちにはあまり伝わらないかもしれませんが、このイメージはとても奥深い、意味豊かなイメージです。何を含意しているでしょうか。比喩だからこそ一言では言えませんが、まず日雇い人とは違い自分に任されており、自分のものである羊たちを世話し、養い、導き、悪いものから守るという任務を授かっています。その羊たちである私たちを深く知り、とても親密な絆を持っています。常に一緒に暮らし、結局羊飼いも羊たちの中の「子羊」であると言えます。
もっと大事なのは、羊に必要なものを与えるだけでも、ただ命を分け与えるのでもなく、まさに自分自身の命を与えるということです。これは言うまでもなく自分の死の予告に他なりません。私たちが豊かな命を得るようにすることや、私たちを緑の牧場に導くことのためにイエスは大きな代価を払わなければなりませんでした。簡単にできる、楽で安いものではなかったのです。たくさんある中の最後の一匹の羊のためにも、必要ならば命を差し出してくださいます。このようなことをした、羊飼いと呼ばれる資格のある人は、イエスをおいて他にありません。
命を捧げたイエスはそれを自由にしました。偶然にそうなってしまったとか、父なる神からそうさせられたとかではありません。しかも、私たちに必ず感謝や返済を期待してそれをしたわけでもありません。しかし、この良き僕者の恩を理解したならば、私たちも自然にそれと似たものになっていきます。あるいは、その恩を本当に理解し、それに十分に与るためには、まずそれと似たものになるしかない、と言ったほうが適切かもしれません。1回限りのことではありません。復活したキリストは今でも自分の命を捧げ、分け与え続けています。この偉大な僕者と一緒にいるため、またこのイエスを本当に知るためには、私たちは似たものであり、似たものになっていくしかありません。
メッセージ - B年 復活節 |
今日の復活節第2主日では、まず復活されたイエスが弟子たちに姿を現されました。その時にいなかった弟子の一人であるトマスは、他の弟子たちから復活したイエスを見たという話を聞きましたが、そのことを信じませんでした。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」というトマスの言葉は、トマスの疑り深さを示す言葉のようにも思えますが、私たち一人ひとりにある人間の一面を示しているようにも思えます。私たちが生きている現代社会は様々な情報が飛び交っており、その中で情報の真偽を自分たちで見分ける力が重要になってきます。そうした社会の中で生きる私たちにとって「疑う」という行為は、この世で生きる術です。しかしイエスはトマスが主の復活を「信じるものとなるため」、自らをトマスに現し、そして手の釘の跡、わき腹に手を入れるようにトマスに言われます。イエスは多くのしるしやわざを行ったことが聖書に書かれていますが、その多くが苦しむ人々の救い主であるイエス、そしてその福音を「信じる者になる」ために行われています。この箇所でも、トマスが「信じる者」となるために、わざわざ自らをトマスの前に現しています。
洗礼を受けた私たちも、直接的ではないにせよ、それぞれが復活したイエスに出会った経験があると思います。イエスはトマスにそうしたように、この世の様々な手段、出来事を通して、私たちと出会い、いつも主を信じるように私たちに呼びかけています。私たちは日常にある多くの出来事、周りの人々、環境、ニュースに取り上げられるような事件など、あらゆることを通して、主に呼びかけられています。そしてイエスの復活を信じる私たちは、ミサを通して主と出会い、信仰を新たにして主の呼びかけに応えるとともに、日常生活の中で主を探し求めること求められていると思います。
私たち一人一人がミサ、そして日常生活の中で主との出会いを探し求めるとともに、主が「見ないのに信じる人は、幸いである」と言われたように、私たちも幸いなものとなるよう祈り求めていきましょう。
メッセージ - B年 復活節 |
もしも、復活の朝に、イエスの墓に一番先に着いたのは自分だったら、イエスの遺体がなくなった、墓が空になっているのを見て、どのように反応するでしょう。復活の主日に読まれるヨハネ福音書の箇所は空の墓を見た最初の三人の反応に注目しています。
まずは、マグダラのマリアの反応です。イエスの空の墓を最初に見たのはマグダラのマリアです。主の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行きました。墓に着いたマリアが見つけたのは、墓の石が取りのけられたことでした。それを見たマリアの反応は、「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、私たちにはわかりません」。「主の初めの日、まだ暗いうちに」という時間の説明がありますが、これは文字通り、朝早い、物がまだはっきり見えない時間帯で、マリアは何が起こっているのかまだはっきり分からないということです。しかし、もう一つ重要な象徴的意味があります。「まだ暗い内に」というのは、信仰の光が差し込んでいることにマリアはまだ気づきなかったことを現しています。その時に、まだ暗い内に、空の墓を見たマリアは、イエスの遺体が誰かに盗まれたということしか見えていませんでした。まだ暗いうちに、まだ世の光そのものと個人的に出会う前には、イエスの死も、イエスの遺体がなくなったことも誰かのせいにしか見えませんでした。それがイエスの復活に対するマリアの最初の反応です。
これまで、マグダラのマリアは彼女なりのイエスとの出会いの体験がありました。イエスにゆるされたこと、助けられたこと。彼女にとって、イエスは命の恩人です。いつまでもそばにいてほしかった存在です。失いたくなかった存在です。そんな彼女にとってイエスの死の悲しみは大きかったです。ましてや、遺体までなくなったとは。誰かのせいにしないと、イエスをなくした悲しみは耐え切れないことでしょう。イエスが「マリア」と彼女の名前を呼ぶまで、彼女が復活したイエスと個人的に出会うまでは、イエスが復活したことに気づきませんでした。
次は二人の弟子:ペトロともう一人弟子、イエスの愛弟子ヨハネの反応です。マグダラのマリアの知らせを聞いたペトロともう一人の弟子、愛弟子は急いで墓に向かいました。二人は墓に走りましたが、ペトロよりも愛弟子の方が足が速かったので、先に墓に着きました。二人は、空になった墓とその中に残された亜麻布を見ていました。二人ともイエスの復活について聖書が書いたことをまだ理解していませんでした。イエスの復活をまだ理解していないが、空の墓を見た時に、愛弟子はそれを見て「信じました」。空の墓を見た愛弟子の最初からの反応は「信仰、信じること」です。愛弟子は、イエスのことを頭で理解する前に、イエスのことを信じています。一方、ペトロの反応は何も言及されていないことは興味深いです。ペトロも愛弟子の様に、イエスを信じていることは確かです。しかし、彼の反応が何も語られていないのは、興味深いです。
愛弟子は確かに模範的な存在です。ペトロよりも早く走ったし、空の墓を見てすぐに信じていた。しかし、誰の信仰がより大きいか、誰がもっとすごいか、ペトロよりも愛弟子、マグダラのマリアよりも二人の弟子ということが問題ではないです。信仰は比較するものではないです。それぞれにはイエスが生きていた時に、イエスとの個人的な関わりがあります。それぞれの反応は、それぞれがどのようにイエスと関わってきたかで特徴付けられます。愛弟子は、その名前の通り、いつもイエスのそばにいます。最後の晩餐ではイエスの胸元にいました。イエスの十字架のかたわらでイエスの母と共にたたずむのです。それだけイエスと近い彼にとって、復活は説明する必要はないのです。
ペトロの場合、彼は自分の弱さを抱えながらも忠実にイエスに付いてきました。大切な場面でたびたびペトロは弟子たちの代表として登場します。しかし、一見しっかりした男だと見えても、ペトロはもろい人間です。簡単にイエスのことを「あの男は知らない」と拒んでいます。そんな自分の弱さを抱えながら、それでもイエスを捨てなかった、イエスに付いてきたペトロにとって、空の墓を見た時の気持ちは複雑だったでしょう。自分の気持ちを表す言葉を見つけなかったでしょう。
こうして、イエスの復活に対する反応は、これまでそれぞれ、ペトロが、愛弟子が、マグダラのマリアが培ってきたイエスとの関わりによって特徴づけられるのです。それぞれにそれぞれの反応の仕方が違います。しかし、共通することがあります。それは、彼らはイエスを愛することです。愛弟子も、ペトロも、マグダラのマリアも。そして、私たちも同じです。今ここでイエスの復活に対する私たちの反応は、日々自分がイエスと培った個人的な関係がどの様なものなのか次第です。
メッセージ - B年 四旬節 |
受難の主日ということで、今週の主日の三つの朗読では、主の受難が共通テーマになっています。
第一朗読のイザヤの預言(50:4-7)では、バビロン捕囚にある預言者によって、「主の僕(しもべ)」の苦しみに耐える様子がありありと語られていますが、そこでは「わたしは」とか「わたしが」という言葉が繰り返されています。まるで主イエスご自身が苦しみの内に独白しているのを聞いているような気持ちになります。
第二朗読の使徒パウロのフィリピの教会への手紙(2:6-11)では、神の子が人となり、へりくだって、自分を無にして、しかも十字架の死にまで至った、だからこそ、それによって逆に神に高く上げられた、と語られています。
そして福音書からは、マルコによる主イエス・キリストの受難(15:1-39)が読まれます。これはイエスの十字架の場面で、もちろんイエス自身が物語の中心にいますけれども、その言葉や能動的な行動の描写は驚くほど少なく、裁判の場面での「それは、あなたがたが言っていることです」と十字架上で息を引き取る直前の「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」という二言だけしかイエスの言葉はありません。捕らえられ、縛られて引いて行かれ、鞭打たれ、侮辱され、つばを吐きかけられ、十字架につけられて、殺された、為されるがままになっているイエスの姿が描かれているだけです。
それに比べて、周りにいる登場人物は口数多く語り、積極的に行動します。祭司長たち、律法学者、群衆、バラバ、キレネのシモン、一緒に十字架につけられた者たち、そしてローマ人である、ピラト、兵士たち、百人隊長、いろんな人たちが、それぞれの思惑で動き、語り、騒ぎ立てています。けれども、その真ん中にいるイエスは、静かに、ただ苦しみを受けながらたたずんでいます。まるで、台風が吹き荒れている大嵐の中で、中心の台風の目だけは雨も風もない、穏やかな天気でいるような、そんな印象的な情景です。
私たちが置かれている状況、生きている世界も、受難の場面と同じかもしれません。イエスはいつも私たちの真ん中におられます。けれどもその姿は目立つことなく、その言葉を耳にすることもありません。人々は皆、イエスのそばにいますけれども、ある人は敵対し、ある人は馬鹿にし、ある人は理解せず、しかし一方で、ある人は神の子だと認めます。私たちは十字架の元に立って、どのようにイエスを見上げているでしょうか。
メッセージ - B年 四旬節 |
ヨハネ福音書全体を貫いているライトモチーフは、「光」「見ること」「信じること」です。色々な場面で、イエス様はこれらのイメージを用いて、口にしています。やはり、それぞれ切り離されているストーリーではなく、最後まで読んで初めて全体像が見えてきます。光と闇の戦い、世が光を拒んだ結果、光が世に打ち勝ったことはカルヴァリオの丘で頂点に達します。また、このイエス様との出会いと対立は、イスラエル人に始まる人類全体の経験であることが伺われます。
第1朗読からも分かるように、神は何度となく自分が選んで愛している民の救いのためにはたらきかけました。しかし、様々な措置を講じれば講じるほど、人々は神の招きを拒んでいました。その結果、「もはや手の施しようがなくなった」とあります。それでもなお、「神は憐れみ豊かな」方であり、「わたしたちをこの上なく愛して」くださる方であり続けます(第2朗読)。私たちの癒しのために何でもするほどの熱い愛に燃えています。
福音朗読では、銅の蛇の物語(民数記21章)を引用しながら、人々が神を拒んだ結果が描かれるとともに、神が救いの最高の手段を設けたことが述べられています。それはキリストの十字架です。砂漠でのイスラエル人は自然的な災害に悩んでいたのですが、イエス様が対象にしている人々は永遠に死ぬ危険に瀕しています。そのために、癒しの手段として高く上げられ(ヨハネ12:32)、刺し抜かれた様子を人々が見た(ヨハネ19:37)時にこそ皆癒されるように神は計画をしました。しかし、ただ十字架上のキリストを見るだけではなく、神の愛のしるしとして信仰と希望をもって見ることが必要です。それによって、今の時のあらゆる災害から守られ、いかなる病気をも免れるわけではなく、永遠の命を危うくする悪と絶望と無意味感から救われるのです。イエス様に惹かれ、従うことには誰も強制されたりはしません。ですから、この最高の愛の具現を拒んだ人々に裁き(や罰)が与えられるのではなく、そのようにすると決めた人々は自分自身を有罪判決にするということになります。
このヨハネが描いている信仰はただの気持ちではありません。確かに、人間の能力ではなく、神の恵みによるもの(第2朗読)ではありますが、その信仰が光となって「真理を行うこと」や「神に導かれてなされる」行為に繋がります。他の人の目を見えなくする眩しい光ではなく、周りをも照らし温め、イエス様を源として、分たれる命の光なのです。この世の闇と悪によって刺し貫かれたイエス様から目を離す度に、私たちはその闇に彷徨います。なので、今日の御言葉に励まされながら、常に十字架に目を凝らし、特に困った時や躓いた時に十字架を見上げましょう。