メッセージ - B年 四旬節 |
今週の主日の第一朗読(出エジプト20:1-17)は有名な十戒の箇所です。十戒はイスラエルの人々にとって神の民となることを選び、そのために従うべき規範でしたが、神の子として「聖なる者となる」というのは、現代の私たちにとって四旬節の重要なテーマの一つです。この出エジプト記版の十戒が申命記版の十戒と異なっているのは、安息日を聖別する理由として「主が創造の後に安息日を聖別されたから」ということを挙げている点です。私たちは聖なるものに立ち返る時を大切にします。
第二朗読の第一コリント書(1:22-25)では、十字架につけられて死んだキリストの惨めに見える姿が、私たちにとっては逆説的に強さであり、神の知恵である、と語られています。信仰のない人にとっては愚かさであり、つまずきであっても、キリスト者である私たちにとっては大切なものを見失わないようにしなさい、という呼びかけです。
福音朗読(ヨハネ2:13-25)では、いわゆる「神殿の清め」の出来事が語られています。「祈りの場、神との出会いの場であるはずの神殿が商売の家にされている」というところから、更に「本当の神殿とは建物ではなく、そこに神の御旨と働きが見出されるイエスご自身である」というところにまで議論が進みます。
いずれの朗読箇所も、「神の民になるとはどういうことなのか」「自分にとって大切なことは何か」「キリストの姿が私に語りかけるメッセージは何なのか」「どこで神と出会うのか」などの問いを私たちに投げかけています。ふりかえりと回心の時である四旬節に、キリスト者としての自分のアイデンティティと信仰の中心を見直したいと思います。
メッセージ - B年 四旬節 |
今日の福音では、マルコによる「主の変容」の場面が描かれている。私たちが四旬節の文脈でこの箇所を読もうとするとき、雲が弟子たちを覆い、神が言われたことをよく考えなければならないと思う。聖書における雲は、神秘の象徴であり、神の臨在のしるしとしても捉えられている。こうして現れた雲の中から、「これはわたしの愛する子。これに聞け。」という声が弟子たちに聞こえた。ここに私たちが四旬節を過ごすためのメッセージがあるように感じる。
ところで本日の第一朗読では、アブラハムがイサクを捧げようとする場面が描かれている。イサクはアブラハムにとって、ようやく儲けることのできた息子であり、本当に愛していたということは容易に想像できる。現代でも家庭のある人々は、自分の子どもがいかに大事であるかということは容易に想像できると思う。神はアブラハムに対し、その息子イサクを捧げるように命じる。アブラハムは神を恐れていたが故に、その一人息子を捧げることを厭わなかった。そのため神はアブラハムを祝福したという話である。
福音書においても同様に考えることができる。父なる神にとって、イエスはアブラハムにとってのイサク同様、本当に「わたしの愛する子」であったのだと思う。しかしその神のひとり子は、私たち人類の贖いのために受難の苦しみを受けるにもかかわらず、人々を愛するがために、ひとり子をこの世にお遣わしになり、受難の道を歩もうとする「これに聞け」と言われた。
私たちもそれぞれが十字架を背負っており、主が愛するひとり子を捧げたように、そして「これに聞け」と言われたように、その苦しみを主に捧げる覚悟が必要である。洗礼を受けた私たちは、現代社会での生活と教会での教えとの矛盾で苦しむこともある。その中でも父なる神がイエスをお遣わしになったように、またイエスご自身が自らをお捧げになったように、私たちもイエスが貫いた愛を自分たちの生活の中でも貫かなければならない。その中で生まれる葛藤、苦しみが主に対する捧げになるように思う。
この四旬節において、私たちが、「これに聞け」と言われた父なる神のいったように、イエスに従うために、何を捧げることができるのか、今一度黙想し、自分の捧げを受け入れてくださるように神に祈りたい。
メッセージ - B年 四旬節 |
「回心して、福音を信じなさい」。この言葉は、灰の水曜日に灰を受けた時に聞きます。これを聞くと、私たちに求められるのは、先ず「回心する」こと、自分の心を整えることだと理解します。福音を「信じる」ことは、それに続くものです。そう考えるのが自然ですが、信仰生活の中で、その順番は逆だということを私たちは体験しているのではないかと思います。回心するために、信仰が必要です。回心は、自分が向かっている方向が間違っていることに気づくことから始まります。つまり、正しい方向の先にある神様の存在に気づくということです。イエスが呼びかける「回心」は、単なる自分の心の中の動きではないのです。自分への決心のようなものとは違うということです。イエスが公に現れた時に一番に人々に呼びかかけるその回心は、向ける方向が明確です。それは、神様です。その意味で、信仰なしには回心はあり得ないということです。回心するために、先ずは神の愛といつくしみに信頼を置くことが必要です。回心は、その愛といつくしみに対する私たちの応答に他なりません。
第一朗読で、大洪水の後、神はノアとその家族に約束をしました。「二度と洪水で全てを滅ぼすことは決してない」。人間が大きな罪を犯したとしても。「たとえ、お前たちの罪が緋のようでも、雪のように白くなることができる」(イザ1:18)。神は、二度とご自分が創造したものを滅ぼさないという約束を守りました。そして、人間を始め、全てを救うために、大胆な方法でさえとるのです。第二朗読にあるように、「正しい方が、正しくない者たちのために死に渡されました」。普通の常識では考えられないことです。死に渡されたイエスが捕らわれていた霊たち(ノアの時代に、神が忍耐して待っておられたのに従わなかった者たち)のところまで行って、宣教されたというペトロの手紙の奇妙な記述は、まさに罪びとを救うために神は大胆な行動さえ取ってしまうことを示しています。
心から神の愛と慈しみを信じるならば、私たちは回心しない訳にはいかないのです。
メッセージ - B年 年間 |
今週の福音朗読(マルコ1:40-45)で、イエスは重い皮膚病の人をいやし、祭司の所に行って体を見せなさい、と言われています。というのもレビ記13章によれば、皮膚病の疑いがある場合、その人は祭司に見てもらい、その祭司が皮膚の患部を調べて「あなたは清い」とか「あなたは汚れている」と言い渡す、とされているからです。そしてもし重い皮膚病にかかっていた場合には、「重い皮膚病にかかっている患者は、衣服を裂き、髪をほどき、口ひげを覆い、『わたしは汚れた者です。汚れた者です』と呼ばわらねばならない。この症状があるかぎり、その人は汚れている。その人は独りで宿営の外に住まねばならない」(レビ13:45-46)とされています。
このように、重い皮膚病になると、自分で惨めな格好をして「わたしは汚れた者です」と叫び、人が住んでいるところから離れなければなりませんでした。イエスの時代に、この旧約聖書のレビ記の規定がどれほど文字通りの意味を持っていたかは分かりませんが、いずれにしてもこうした病を患うということは、ただ肉体的な病で苦しむというだけではなく、精神的にも傷つけられるということ、社会的に死を言い渡されることだった、ということが分かります。
ですから、イエスが人々をいやされたということは、単に肉体的な障害を取り除かれた、という話ではありません。「清める」という言葉が使われているように、そのいやしは体の癒やしであり、心の癒やしであり、魂の救いであり、社会的な復活であり、全人格的な救いでした。イエスが病気を患っている人に近づいていく時、重い皮膚病かどうかを判断する祭司のように、ただ目に見える病気の症状を見ていたのではなくて、その人の心の痛みや、社会から排除された悲しみにも目を向け、憐れみの心を持って、その心の苦しみに手をさしのべて、触れられました。
メッセージ - B年 年間 |
今週の福音朗読のマルコ1:29-39は、大きく二つに分けられます。前半(1:29-34)では、イエスが熱を出していたシモンのしゅうとめをいやすと、日が沈んでから町中の人が、様々な病気の人、悪霊に取り憑かれた人々を連れて集まってきたので、彼らをいやされた。目が回るように忙しい、慌ただしい活動の一日が描かれます。
一方、後半(1:35-38)では、朝早くまだ暗いうちに起きたイエスが人里離れたところに出て行って祈るという、静かな時が描かれます。単に休息しているというのではない、力を得て再び宣教に向かう前の、人々が知らない活動の裏側の場面です。
ここに、私たちはイエスの生き様の深みを見ることができます。毎日押し寄せる群衆を処理するのに忙殺されていたのではなく、いつも立ち返るところがあり、自分の使命を再確認して神の恵みに力づけられていた、そんな姿が浮かび上がってきます。
現代の私たちも毎日忙しく働いています。しかし、私たちの働きには、表に見えているだけではない深みがあるでしょうか。「忙」しさに「心」を「亡」くしていないでしょうか。自分が根ざしているところと目指すところを見失わないようにしたいものです。