メッセージ - B年 待降節

今週の福音朗読箇所(ヨハネ1:6-8、19-28)は、ヨハネ福音書の始まり、1章で、まだイエスの公生活が始まる前の場面で、イエスより先に洗礼者ヨハネが登場します。ヨハネは、ユダヤ人たちに「誰なのか」と、メシアなのか、エリヤなのか、あの預言者なのか、と問われますが、そのいずれでもなく、自分は「『主の道をまっすぐにせよ』と荒れ野で叫ぶ声である」と宣言します。そして自分のことだけではなく、イエスについて「その人は自分の後から来られる方で、自分にはその履き物のひもを解く資格もない」と語ります。

洗礼者ヨハネの生涯は決して楽なものではなかったと思いますが、それでも彼は、ヘロデに殺されるまで、最後まで自分の使命をまっとうしました。彼がそうすることができたのは、自分自身とイエスについてよく知っていて、どういう関わりをしていくか、自分が「後から来られる方」のために何をするべきかという、自分自身の使命をはっきりと見出すことができたからだと思います。

待降節は、イエス・キリストがこの世に来られたことの意味を問うときでもありますが、同時に、それが私たちにとってどういう意味なのか、そしてそれに対して私たち自身がどう応えて生きるのか、を問うときでもあります。洗礼者ヨハネは、闇を照らす光として来られた方の証しをする、ということを自分の使命としました。貧しさの中に、謙遜の内に生まれ、病気の人、罪人、弱い人、苦しんでいた人に手を差し伸べ、十字架の上で命を献げるまで愛を貫いた、イエスの生き方と私たち自身の生き方をどうつなげるのか、が問われています。

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メッセージ - B年 待降節

イエスの誕生物語が収められている福音書はマタイとルカだけです。マルコとヨハネにはイエスの誕生を描いた場面はありません。ですから、福音書が重要なものと考えて描こうとしているのは、実は「イエスが生まれた時の歴史的な状況」ではなく、「イエスがこの世に来られたことの意味」であるということがわかります。

先週から典礼暦がB年になり、主日のミサではマルコ福音書がメインに朗読されますが、待降節の朗読箇所もイエスの誕生にまつわるものではなく、その活動が始まる直前の話から始まります。他の福音書でもそうですが、マルコでもまず洗礼者ヨハネがイエスの先駆者として登場します。マルコ福音書の冒頭にあたる今週の福音朗読の箇所(1:1-8)でも、洗礼者ヨハネが主の道を準備する者として、罪の赦しのために悔い改めの洗礼を授ける人物として現れます。

もちろんヨハネは正しく偉大な人物として描かれていますが、跡から来られる方は彼よりも「優れている」と言われています。私たちにとって、洗礼者ヨハネとイエスの違いはどこにあるでしょうか。イエスとは私にとって、どんな方なのでしょうか。待降節はその意味を考えるときでもあります。

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メッセージ - B年 待降節

待降節が始まり、教会の暦の上では新しい年になります。今年の朗読聖書のサイクルはB年です。

さて、私たちが「待降節」に「待」つのは、誰が「降」ってくることでしょうか。クリスマスというと、馬小屋の中で幼子イエスを囲む父ヨセフと母マリア、そしてお祝いにやってきた羊飼いと動物たちという、ただただ幸せな情景を思い浮かべて、何となくほのぼのとした雰囲気になってしまうのは当然かもしれません。

けれども、待降節に読まれる聖書箇所をよく見ると、私たちは生まれたばかりのあどけない、しかし何もできない幼子のかわいらしい笑顔をただ待っているのではない、ということが分かります。

第一朗読のイザヤ書(63:16b-17、19b、64:2b-7)では、イスラエルが自分たちの罪のために滅ぼされ、捕囚の地に連れて行かれ、解放された後も荒れ果てた国で困難の内に生きている中で、神の救いを祈り求める姿が描かれています。

第二朗読のコリントの教会への手紙(一コリ1:3-9)では、私たちがキリストに結ばれ、キリストとの交わりの内に、主イエス・キリストが再び現れるのを待ち望むけれども、「最後まで」主が支えて下さってはじめてそれが可能になるという厳しさが示唆されています。

福音朗読のマルコ(13:33-37)では、イエスが弟子たちに「目を覚ましていなさい」と三回も繰り返しています。僕(しもべ)が責任を持たされているように、門番が目を覚ましているように、私たちも「気をつけて」、いつなのか分からない「その時」を注意して待ちなさい、と緊張感にあふれた口調でそう語られています。

これらの聖書箇所は「あたたかくほのぼのと過ごすクリスマス」とはかけ離れているかもしれませんが、コロナ禍にある私たちにとっては逆に希望や慰めとなります。私たちのもとに来られる方は、厳しい現実の中に生まれました。私たちの痛みや悲しみ、苦しみにこそ、そのまなざしは向けられています。

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メッセージ - A年 年間

福音朗読の箇所(マタイ25:31-46)は、典礼暦の終わりにあたる「王であるキリスト」にふさわしいお話になっています。

羊飼いが羊と山羊を分けるように、王が人々を右と左に分ける。そして王は右側にいる人々に対して、飢えている人、渇いている人、旅している人、裸の人、病気の人、牢にいる人を世話してくれたのは自分にしてくれたことだ、と評価し、左側にいる人々に対しては、同じ状況にあった自分を世話してくれなかったと糾弾する、という話です。「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのだ」という言葉が印象的です。

この話は、24章の始めに、終わりの時のことを尋ねた弟子たちにイエスが答える、という流れの中で語られていますので、「最後の審判」についてのお話だと説明することもできます。けれども、私たちが「終わりの時」のことばかりにとらわれてしまっては、この箇所の中心的なメッセージを読み落としてしまいます。

実際にイエスが呼びかけているのは将来のことではなく、決定的なことが起こるのを待つのではなく、今この瞬間、自分の前にいる小さい人に目を向け、手を差し伸べることです。今年の典礼暦は終わりますが、私たちの人生の歩みは止まりません。すぐに次の年が始まります。いつも新しい今日という日、今という時に集中し、そこで出会う人と誠実に関わることを大切にしたいと思います。

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日本のカトリック教会は毎年11月の第三日曜日からの一週間を「聖書週間」としています。今年は11月15日~22日で、そのテーマはフランシスコ教皇の日頃の言葉を受けて、「すべてのいのちを慈しむ」となっています。カトリック中央協議会からお知らせが出されており(リンクはここ)、毎年作成されているリーフレット「聖書に親しむ」のPDF形式のデータも同ページからダウンロードできます。

また、神言会の聖書使徒職委員会でも、今年の聖書週間にあわせて小冊子を作成しましたので、どうぞご覧下さい(ここをクリックすると開きます)。