| メッセージ - B年 年間 |
今日の福音は短いわりに、とても大切なことがそこから伝わってきます。2人ずつ遣わされた12人の弟子(そこで初めて「使徒」と呼ばれている人たち)はイエスのもとに戻ってきて、果たすことができた数多くの使命を自慢して報告しました。休むことも食べることもできずに活動をし続けてきました。それでも足りないぐらいでした。まだまだ人々が押し寄せてきたのです。そこから何が分かるでしょうか。
まず、弟子たちはイエスの手先であったに過ぎず、最終的に群衆はイエスのところに来なければ満足できなかったということです。そんなに多くの人がイエスの教えを聞きたく、病気を癒してもらいたく集まっていたということは、この民は自分の牧者たちからほったらかしにされていたことを伺わせてくれます。まさしくエレミヤなど預言者たちがかつて批判していたことと共鳴します(第1朗読)。
しかしまた、このおびただしい群衆は必ずしもイエスの活動の最終的な成功を意味するわけではありません。行ったり来たりする人もいました。噂を聞いて好奇心だけで訪れた人もいました。弟子たちにしてもらえなかったことを直接イエスに求めに来てみた人もいました。自分のニーズだけを満たすことを期待して、或いは、周りに流されて来た人もきっといました。弟子である私たちの成功も量や数で測られるものではありません。使命の成功というものは、長い時間をかけて、共に時間を過ごして、たくさんの話をすることにかかっている、ということもこの物語から読み取ることができます。
| メッセージ - B年 年間 |
今日の福音には、イエスが故郷に帰られる場面が描かれていますが、人々がイエスにつまずく様子が描かれています。この福音の中でイエスは、その人々に向かって「預言者が敬われないのは、自分の故郷、親戚や家族の間だけである」と教えられています。イエスをよく知っていた故郷の人々は、イエスをよく知っていたがために、イエスの教えと行ったわざを素直に受け入れることができません。ましてガリラヤの出身で大工の息子であったということから、宗教的な教育もなく、特別な存在とは思われていなかったように思えます。それだけに、イエスの社会的な立場や出身だけに囚われて、イエスが伝えようとした神の言葉、神のわざを理解することができなかったように思えます。私たちにおいても、家族や友人などの近い人の言葉は、意外に素直に受け入れられないように思えます。しかし、そういった私たちの家族、学校や会社、私たちの生活の中にいる親しい友人など、一人ひとりの中にイエスがおり、その人々を通して、イエスは私たちに語り掛けています。
イエスの教えと行いを、故郷の人々は理解することができませんでした。それは「イエスがそんなたいそうな人ではない」とか「あのイエスに何が分かるのか」といった思い込みや、プライドみたいなものが人々の中にあったからだと思います。私たちにおいても、偏見やプライドで人を見て、その人の行いや忠告を聞かないことがあります。しかしキリスト者でなくても、私たちキリスト者以上にイエスが教えたような行いをする人々も周りには多くいます。そういった私たちの近くにいる人々において、その心の中にイエスがおられることを私たちは忘れてはいけないのだと思います。私たちは常に祈りの心をとおして、人々に中におられるイエスを感じ、そしてその言葉と行いに耳を傾ける必要があるのだと思います。
| メッセージ - B年 年間 |
「神が死を造られたわけではなく、命あるものの滅びを喜ばれるわけでもない。生かすためにこそ神は万物をお造りになった」。第一朗読の『知恵の書』の言葉です。
私たちは願ってもいないのに与えられた最大の恵み、それは言うまでもなく、「命」です。神様は、私たちが生きることを望んでおられます。ただ息を吸っているのではなく、神の似姿としていきいきと生きることを望んでおられます。その思いが今日の朗読の中によく伝わってきます。
福音朗読は、イエスがヤイロの娘を起き上がらせたことを伝えています。マルコの話をよく聞くと、ヤイロの家に向かっているイエスの中に、人間が生きることを望んでおられる神の思いが溢れ出ていることが感じ取れるでしょう。ヤイロの家で横たわっているのは12歳になった娘です。「12歳になった娘」というのは、正に文字通りこれから新しい命を産み、神の創造の業に協力することになる年齢です。ですから、周囲の人々から「娘はもう死んでしまった」と言われても、イエスは「いや、ただ眠っている」と言い返しました。周囲の嘲笑いに動揺しないイエスの姿、その言葉の中に、命あるものの滅びを望んでおられない神の思い、ご自分の似姿として造られたものが生きることを望んでおられる神の思いが必死必死と伝わってきます。「タリタ、クム。少女よ、起きなさい」という一言の中に、人間が生きることを望んでいる神の思いがこもっています。
その思いは、既に12年間出血を患った女にも伝わっていることでしょう。彼女はイエスを見た時に「この方の服にでも触れれば癒していただける」と思いました。そして、群衆の間を抜けて、こっそりとイエスの服を触れました。触れた瞬間、病気は癒されました。二人の女性、一人は12歳の娘、もう一人は12年間出血を患っていた女がイエスによって救われました。マルコがこの二つの話をワンセットで伝えるのは、命の与え主である神を信じ、人間が生きることを望んでおられる神の思いを忘れないように伝えようとするのではないでしょうか。
日常生活の中で、生きることをあきらめ、希望を失う時があります。その時に、私たちは祈りやミサや秘蹟を通してイエスの助けを求めることができます。また、お互いを通してイエスの服に触れることができるはずです。お互いを通して「起きなさい」という励ましの言葉を語りかけ、また聞くことができるはずです。第二朗読のパウロの言葉で言い換えれば、お互いを補い合うことが出来るということです。
| メッセージ - B年 年間 |
今日の聖書の朗読は、神の全能と救いの力について述べています。
第一朗読のヨブ記による神は「高ぶる波をとどめる」方であると記されています。当時のイスラエル人が知っている海は、強大な力を示すものであり、恐れを感じさせるところなのです。海の波を治めることによって、神の全能、救う力を知り尽くすことができます。
福音朗読は神の全能というテーマで続きます。激しい突風が上がり、岸から漕ぎ出したキリストの弟子たちの船は大波で溺れそうになります。その時「先生私たちが溺れてもかまわないのですか」という叫び声を聞いたキリストは、「黙れ。静まれ」と命じておられます。さらに「いったい、この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか」と弟子たちが驚いて言い、ナザレのイエスが神から来られたメシアであるということが示されています。実は、このメシアが示しておられる力は、海の波を静める力だけではなく、すべての人類の歴史の「波」、また私たち一人ひとりの人生の「波」を落ち着かせる力であり、新しい命をもたらす救いの力なのです!
第二朗読の使徒パウロの言葉によると、イエス・キリストに結ばれる人は、「新しく想像されたもの」となっています。それは、キリストの死と復活によるものです。
皆さん、現代においても、日常生活の中にある苦悩や悩みなどが波のようであり、私たち一人ひとりの人生の小舟が溺れそうに感じることがあるのではないかと思います。しかし、溺れそうになった時こそ、キリストを信じるように招かれています。ガリラヤ湖で船に乗ったキリストの弟子たちと同じように。確かに、弱さや恐れを感じることなどがありますが、私たちの人生の小舟が揺らぐことにならないように、我が主イエス・キリストに寄り添って、神様の救いと全能を信じましょう!
| メッセージ - B年 年間 |
今日の福音(マルコ4:26-34)では、神の国が種の成長に重ねられて、二つのたとえ話が語られています。一つ目のたとえ話では、種が蒔かれると、人が寝起きしているうちに、つまり知らない間に芽を出し、成長して、ひとりでに実を結ぶ、そして収獲が得られる、神の国はそういうものだと語られています。
二つ目のたとえ話では、神の国がからし種にたとえられ、どんな種よりも小さいからし種が蒔かれて成長すると、どんな野菜よりも大きくなり、空の鳥が葉の陰に巣を作るほどに大きな枝を張る、と言われています。
この両者に共通することは、種の成長が、つまり神の国の実現が、私たちの思いや力を越えたところにあるということです。しかし、私たちの働きは何の意味もない、私たちは神の国のために何もしなくていい、ということではありません。かえって、私たちの力は足りないけれども、悲観しなくてもよい、あきらめることはない、私たちが知らない間に、神が水をまき、肥料を与え、光で照らし、その種を成長させて下さる、そういう慰め、力づけです。
神の国は私たちが自分の力で勝ち取るものではありません。私たちが思いもしないところで、思いもしない仕方で、神の国は始まっています。実りが良くても悪くても自分の働きだけにとらわれてしまうことがある私たちですが、息をついて周りを見渡すと、たくさんの恵みや助けに支えられていることに気づきます。
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