メッセージ - C年 年間

典礼暦の終わりに近づくにつれて、ミサの朗読のテーマも死者だったり、終末だったり、復活だったりします。それは、復活祭の時にテーマだった死と復活はただイエスの身に起こった出来事として祝われたのではなく、私たち自身もそれに与ることができるものだからです。キリストが私たちのために死んでくださったのと同じように、私たちが永遠に生きることができるように復活したのです。この神秘は一年間の中核をなします。

当時のユダヤ教には大きく二つの流派があり、それはサドカイ派とファリサイ派でした。イエスを訴える時には、珍しく合意を得てイエスを裁判にかけるのですが、普段は激しく対立していました。同じアブラハムの信仰を分かち合い、同じモーセの律法に依拠しながらも、祭司が多かったサドカイ派は非物質的な存在者である天使や死後の命を信じていませんでした。それに対して、ファリサイ派の人々は天使の存在も永遠の命をも信じていました。有名な出来事として、使徒パウロの裁判の時に、彼はうまくこの対立を利用して、2つの派から成り立っていた最高法院に喧嘩させて、現地で裁かれないようにすることができた、という話もあります(使徒言行録23章6節を参照)。

イエスはその2つの派の間に立っています。モーセの律法には暗示的にしか示されていないかもしれませんが、今の物質的な人生は全てではありません。生きている間に、存続するための唯一の手段として子孫を儲けることの他にありません。しかし、それは動物と一緒です。死んでからは、人は神の子のようになるので、結婚する、ひいては子供を産む必要もなくなります。そういう意味で復活は神から永遠に生まれることを意味しています。ファリサイ派と違って、この永遠の命は今のような命ではなく、天使の状態に似るとイエスは主張しています。サドカイ派に対して、死んだ人はもう律法の義務などは守れないし、人間からは忘れられているかもしれませんが、神にとって生きている、いや、神のうちに生きている、神とともに生きているのだ、とイエスは力強く説いています。

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メッセージ - C年 年間

今日の福音朗読(ルカ20:27-38)でイエスが伝えている「復活」は「よみがえり」や「蘇生」とは異なります。もし復活が「よみがえり」や「蘇生」であるなら、その「復活」は、今私たちが生きているこの世の命の単なる延長でしかなく、二つの命のあり方は全く同じであって、同じ価値しかありません。だから「復活」を「よみがえり」の意味でしか捉えていなかったサドカイ派の人々は、この世の結婚と跡継ぎの制度を復活にあてはめてイエスに難癖をつけ、論争を挑んできました。

しかし、それは大変な思い違いでした。イエスが語る復活の命は、この世の命とは全く異なるものです。だからこそ私たちは今、苦しみや痛みがあるとしても、希望を持って、喜びを持って生きています。不完全な世の中に垣間見える神の愛に力づけられて、簡単ではない日々を生きています。他の何を犠牲にしてもこの世で生きることが究極の目的であれば、自分の信仰も、信念も、親兄弟や友人を売り飛ばしてでも生きようとするでしょう。けれども、そのような命の生き方に、私たちは価値を見出しません。神の愛の内に生きる復活の命こそ、イエスに従って生きる命です。

同じように第一朗読のマカバイ記(第二マカバイ7:1-2, 9-14)では、七人の兄弟と母親が、神に背いて生きることよりも、神に従って苦しみを受け、自分の命を引き渡すことを選ぶ姿が描かれています。第二朗読のテサロニケの教会への第二の手紙(2:16-3:5)でも、パウロが、道に外れた悪人から逃れて、永遠の慰めと確かな希望を与えてくださる神の愛と、キリストの忍耐を悟るように勧めています。

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今日の福音朗読(ルカ19:1-10)に登場するザアカイは徴税人でした。徴税人たちは、自分たちの国を支配しているローマの代わりに同胞からお金を集めるのが仕事で、しかもその集める税金に自分の取り分を上乗せしており、その時に不正に多く取り立てることも多かったので、外国の支配者に魂を売った裏切り者として扱われました。ですから、人混みの中でイエスがどんな人なのか見ようとしていたザアカイは「群衆に遮られて見ることができなかった」と言われていますが、それは単に彼の「背が低かった」からだけではなく、人々から嫌われていて意図的に邪魔されたのだ、という解釈があります。

この解釈が正しいかどうかはわかりませんが、そうした状況は、普段のザアカイの姿を見ていれば「自業自得だ」と感じることでしょう。人々は確かに、ザアカイが何を生業として生きているのかを見ていました。だから彼が自分の家に宿を取ってくれる人がいないほど孤独であろうが、忌み嫌われていようが、当然の報いだと考えます。しかしイエスは、人々が「罪深い男」と見ていたザアカイを木の上に見た時、人々が見たものの向こう側を見ました。「この人もアブラハムの子なのだから」と彼の中に価値を見出しました。まさに「失われたものを捜して」見つけました。そして救いをもたらしました。

見ないで判断し裁くこともある私たちは、見たことに基づいて判断していれば十分なのかもしれません。しかし、イエスは見えない痛みや苦しみ、今はまだ見えない立ち直る姿、救われる姿を見て手を差し伸べます。そして私たちは、ザアカイの中に、それに値しないのに多くの恵みを受けている自分の姿を見出します。

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イエスが語られた「祈るために神殿に上った二人のたとえ」(ルカ18:10-14)は、「自分は正しい人間だとうぬぼれて他人を見下している人」「高ぶる者」と「へりくだる者」との対比を明らかにする話ですが、実際はこの二人の間に、高ぶるかへりくだるか以上の違いを見て取ることができます。

ファリサイ派の人は「感謝します」と言いながら、自分がどれほどの者であるか、自分が何をしたかを語るだけで、神の方を向いておらず、その感謝も神の恵みに対するようには聞こえません。一方、徴税人は「神様、罪人のわたしを憐れんでください」と、罪にまみれた自分自身を神の前にさらけ出し、神からの憐れみを求めます。

私たちの祈りは、その内容が良くても悪くても、神に向かってなされているかどうかが問われています。感謝であっても、後悔であっても、それが自分の中で完結していては祈りにはなりません。それを忘れるとき、結果として高ぶることになり、「自分」が正しいとうぬぼれることになるのではないでしょうか。

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メッセージ - C年 年間

聖書におけるいやしは、単に「病気の状態から肉体が回復すること」ではありません。それは社会への復帰であり、人々に受け入れられることであり、神に見捨てられたのではなく、愛されていると確認することでした。傷ついた全人格のいやしでした。福音朗読(ルカ17:11-19)における、いやしを求めるサマリア人の必死の訴えと、いやされた後の彼の賛美と感謝が、その重みがどれほどであったかを示しています。第一朗読の列王記(王下5:14-17)に登場するナアマンも、重い皮膚病からの回復に神の働きを認めました。

私たちにも、日々の生活の中で手にして当たり前と思っていることに、大きな恵みを感じ取るチャンスが与えられています。病に限らず、倒れて傷ついた状態から回復するときに、立ち上がる力を与えられていることを実感します。周りの人の支えがあり、恵みに生かされて、引き上げてもらっていると気づきます。そのとき、同時に感謝の心を表すことができるように願いたいものです。

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