メッセージ - C年 待降節 |
今年も待降節をもって新しい典礼暦年が始まりました。典礼暦年の中での待降節の位置づけについて『典礼暦年と典礼暦に関する一般原則39』は次のように述べています。
「待降節は二重の特質をもつ。それはまず、神の子の第一の来臨を追憶する降誕の祭典のための準備期間であり、また同時に、その追憶を通して、終末におけるキリストの第二の来臨の待望へと心を向ける期間でもある。この二つの理由から、待降節は愛と喜びに包まれた待望の時であることが明らかになってくる。」
二つの意味をもつため、待降節は二つの部分に分けられます。前半は待降節のはじめから16日までです。この間で、選ばれる毎日の聖書朗読の内容は終末におけるキリストの第二の来臨の待望へと心を向けるのです。後半は17日から24日に至る週日は、いっそう直接に主の降誕の準備に向けられています。
第一朗読では、バルク預言者は様々な困難や悲しみに沈んでいる民に希望に満ちたお知らせを告げました。神の輝きは民を照らし、悲しみを喜びへと変えてくださいます。この文脈では、当時、他国で圧迫されていた民にとってこの喜びというのは、神ご自身が必ず敵を征服し、選ばれた民を再び故郷に帰還させてくださるという最大の希望です。
福音朗読ではこの待降節の第二主日になると、いつも先駆者として洗礼者ヨハネが登場します。主の日が必ず来ます。また神の栄光は輝き出ます。人々は皆、神の救いを仰ぎ見る日が来ます。しかし、その備えとしてヨハネは民全体を招きます。つまり皆は「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。谷はすべて埋められ、山と丘はみな低くされる。曲がった道はまっすぐに、でこぼこの道は平らになる」よう招かれています。
その意味で、神が自らご自身の民のところに、またわたしたちの一人ひとりの心に、それぞれの家族や共同体に来ようとしてます。主は民の中に住まわれたいのです。しかし、主が来られるかどうかは心の道のあるか、ないかにかかっています。そうすると、この待降節で誰が誰を待ち望んでいるでしょうか。人間の我々は主が来られるのを待つどころか、それとも、主ご自身は人間が自ら喜んで主を中に受け入れる時を待っている、とも言えるでしょう。ここで、聖書の言葉を思い出します。
見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者 があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう(黙示録3,20-21)。
主は遠くにおられるのではなく、わたしたちの戸口に立て待ておられるのです。
メッセージ - C年 待降節 |
「放縦や深酒や生活の煩いで、心が鈍くならないように注意しなさい。さもないと、その日が不意に罠のようにあなたがたを襲うことになる。」ルカ21,34
人間は、愛である神に象って、神との愛の交わりに生きるために創造されていますので、いくら努力しても、たとえ全世界を手に入れたとしても、この世のもので自分の心の飢え渇きを満たすことはできません。この世のものが満たすことのできない望みは、人間の偉大さを表していると同時に、人間にとって大きな苦しみの原因にもなっているのです。
この苦しみの原因を知らずに、心の飢え渇きを満たすことのできる方を知らない人たちは、この苦しみを少しでも和らげるために、自分の力によって満たすことのできる望みや欲望を、全力を尽くして満たそうとしていることがよくあるようです。確かに、そのような小さな望みや欲望を満たした瞬間ですらも、人間は喜びや満足感を味わいますので、暫くの間安らぎを楽しむことができます。けれども、最初はより簡単に満たすことのできた望みや欲望も段々大きくなるし、それにますます強く左右されてしまうようになります。また、イエスが言われた通りに、この人の心は段々と鈍くなります。
心の鈍くなった人は、心の飢え渇きを満たすことのできる方と出会う時、この方が自分にとって危険な存在であると思ったりするため、この方を喜んで受け入れる代わりに、怖くなって、この方を攻撃するか、この方から逃げてしまいます。こうして、せっかくのチャンスを無駄にしてしまうわけです
イエスこそが、私たちの心の飢え渇きを満たすことのできる方であると信じる私たちは、心が鈍くならないように罪を避けて、いつも目覚め、つまりイエスから与えられた使命を果たしながら、大きな希望の内にイエスを待ち望んで、いつでもイエスを喜んで迎え入れることができますように祈りましょう。
テーマ - 翻訳 |
変容の福音 ヨハネ18:33b-37
イエスの王位はこの世に属していません。この世界の支配者によってふるわれる力とはまったく異なるあり方のものです。その王権は、権力の構造や人間的な力のあり方を根本的に変えようとご自身をまったくささげることに本質があるからです。この「世」的な生き方を選ぶことなく、にもかかわらずこの「世」を変えるために遣わされ、この「世」で生きることは、絶えざる挑戦です。「この世の力」は私たちの前に立ちふさがっており、私たちは誠実で深い信念を持つよう求められています。それは欲望や野心、くだらない利益の罠に陥らないためです。十字架の福音は、真理の力に従って自分の生を生きる人を変容させる力です。私たちは、イエスと同じように、神のみ旨にすべてをゆだねているでしょうか。
(神言会文書 Encountering the Transforming Word 2018 Oct/Nov より翻訳)
メッセージ - B年 年間 |
今回の「王であるキリスト」の祝日にヨハネ福音のイエスとピラトのやりとりに注目したいと思います。
裁判を受けた時に、ピラトはイエスに「あなたはユダヤ人の王なのか」と問いただしました。その質問に対して、イエスは「あなたは自分の考えで、そう言うのですか。それとも、ほかの者が私について、あなたにそう言ったのですか」とピラトに返事しました。大変興味深い答えです。質問に対して、堂々と質問で返すイエス。返事に困ったピラトは「私はユダヤ人なのか。...」と必死に逃げ切ろうとしています。誰が誰を裁くのか。裁判官と被告人の立場が逆転しているようにも感じられます。「全ての王の王」の前で、やはりローマ支配者でさえたちうちができません。
しかし、私たちはこれで満足してはなりません。向こう側に立っているピラトに対するイエスの質問は、イエスの側に立っている(であろう)私たちに対する質問でもあります。ピラトを困らせる質問は、イエスを信じる一人一人が答えなければならない質問でもあります。「王であるキリスト」を祝っている私たちに対しても、イエスは「あなたは自分の考えで、そういうのですか。それとも、ほかの者が私について、あなたにそう言ったのですか」と問いているのではないでしょうか。
イエスが求めているのは心からの信仰告白です。単に決まりごとや習慣や言われたことに従う信仰であってはなりません。日々の生活の中で、イエスが自分にとっては「王」であるという個人的な経験が求められるということです。
メッセージ - B年 年間 |
(ヨハ18,33b-37)
「イエスはお答えになった。『・・・わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く。』」ヨハ18,37
「仕えられるためではなく、仕えるために来た」(マコ10,45)と言われたイエスは、王と呼ばれるよりも、羊飼い、しかも、自分の羊のために命を与える良い羊飼いと呼ばれることを好まれたようです。典礼暦の最後の主日である「王であるキリスト」の祭日を祝う際に、それを忘れてはいけないと思います。
やはり今日読まれる福音の中でイエスは、自分自身がこの世の王たちと全く異なっているということを言われています。一人ひとりのために幸福を求めて、この幸福へと導くことのできるイエスは、この世の王や他の支配者と違って、人の自由意志を尊重しておられるので、暴力を用いて人に服従を強いるようなことを絶対にされません。イエスの唯一の「武器」というのは、真理について証しをすることなのです。
真理について証しをするために生まれたイエスは、自分の力に頼って自分の努力によって幸せになろうとしている人に、その努力の空しさや危険性を示してくださいます。と同時に、永遠に続く幸福の唯一の源である神のもとに人を引き寄せるために、神の愛の偉大さをご自分の言葉と行いによって現してくださるのです。
自分たちについての真理を示されたために、イエスに対して怒りを覚えて、神の愛に心を開くことのできなかった人たちは、イエスを十字架に付けました。十字架に付けられていたイエスは、全く無力に見えていましたし、その活動も失敗に終わったように見えましたが、不思議にもそのとき、イエスは一番力強く、真理について証しをしていたのです。
十字架に付けられているイエスの姿において、ますます多くの人々が、自分の罪についての真理、また、父である神の愛についての真理を見出すことができますように。そして悔い改めて、イエスのもとに近づくことによって、永遠の命の源である神のもとに近づくことができますように祈りたいと思います。