主日 - C年 年間

第一朗読のシラ書でも、そして福音朗読のルカ福音書においても、「へりくだること」が重要なテーマになっています。「へりくだること」「謙遜であること」は、聖書においてだけ強調されていることではなくて、日本の一般的な社会でも、あるいは世界の様々なところにおいても、美徳とされています。けれども、果たしてその一般的な美徳である「謙遜」と、聖書が求める「謙遜」が同じものであるのかと言えば、必ずしもそうではないと思います。

私たちが謙遜さを示すとき、それは結果として、周りの人に対して示されるものですけれども、キリスト者としてのへりくだりは、本質的に神の前でのへりくだりです。神の前で自分の弱さを受け入れることで、自分も他の人も、何者であろうと、すべての人が等しく神の前では罪と弱さを抱えた存在でしかないと悟るなら、おごり高ぶることも、人を見下すこともなく、逆にこびへつらうこともないでしょう。

また、十字架の上での死に至るまでイエス・キリストが示した謙遜にならうことを忘れないなら、謙遜さとは、自らの使命を受け入れて奉仕することでもあると知ることができます。

私たちは、誰に対して、何に基づいてへりくだろうとしているのか、どこを目指して謙遜であろうとしているのか、見失うことがないようにしたいものです。

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メッセージ - C年 年間

第一朗読のコヘレトの言葉、「なんという空しさ、なんという空しさ、すべては空しい」という言葉は、私たちの生は確かに空しいものであふれている、その現実を認めながら、果たしてそれで終わりなのか、見えている空しさに絶望して終わるのか、と私たちに問いかけます。

同じ文脈で考えると、第二朗読でパウロが、地上的なものを捨て去り、上にあるものを求めなさい、と言うとき、それは、この世界で目にしている悪いものにとらわれずに、今は見えていないかもしれなくても、善いものを求めなさい、ということです。

福音朗読では、遺産の分け前について不満を述べる人に対して、イエスが、「富への貪欲に用心しなさい、目に見える自分のための財産は空しいものだから、それにとらわれてはいけない」と語ります。けれども、単にそれは目に見える、手に取れる財産の否定で終わっているのではなくて、目に見えない価値あるもの、「神の前での豊かさ」を求めるように、という呼びかけに続いています。

神も愛も、そのものを見ることはできず、信仰を通して感じ取るものです。私たちは世界中にあふれている、決してなくなることがない人々の苦しみや悲しみに目を向け、それを受け入れながら、しかし一方で、目に見えるものだけに振り回されず、絶望することなく、喜びを失うことなく、希望を持って歩み続けます。
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メッセージ - C年 年間

第一朗読の「御言葉はあなたのごく近くにあり、あなたの口と心にあるのだから、それを行うことができる」(申命記30:14)というモーセの言葉は、非常に印象的です。モーセは律法を民に伝え、神に従うよう呼びかけますが、その戒めは天や海のかなたなど、どこか遠く、手の届かないところにあるのではない、と語ります。

このモーセの言葉を心に留めながら福音朗読の「善いサマリア人のたとえ」およびイエスと律法の専門家とのやりとり(ルカ10:25-37)に耳を傾けるとき、何が大切なのか考えさせられます。イエスが教える隣人愛は、あれこれと考察し論じるものではなく、実行するべきものです。「愛すべき隣人とは誰か?」「誰が自分の隣人に含まれ、誰がそこから除外されるのか」などと問う前に、まず目の前にいる人に手をさしのべるよう、イエスは私たちを招きます。

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メッセージ - C年 年間

今日は久しぶりに何も特別なテーマのない年間の日曜日に戻りました。しかし、実は不思議なことに、先週のキリストの御体と御血の祭日と関連する福音が読まれています。偶然ではありますが、ルカ福音書のほとんど続きにあたる部分なのです。つまり、イエスが弟子たちを周りの町々へ派遣して、自分がそこに行く前に、あるいは行けないところに代わりに弟子を遣わした後、5000人の群衆をパンの増加の奇跡によって満腹させてから、旅に出る決意を固めました。これはルカ福音書のいわば最終楽章であり、頂点に当たります。どの道に出るかというと、言うまでもなく、エルサレムに向かう道であり、苦しみを受ける場所に赴くということです。

今日の福音箇所や他の箇所にイエスに従う人、従いたい人が出てきます。それは、もちろんのこと、どこまでもイエスに従うつもりがないならば、ただ跡を追うということが出来ないし、そうする必要もありません。徹底的にエルサレムまでイエスに従うことしかあり得ません。これはルカの特徴だと言われているぐらいです。狭い門を通るとか、自己を捨てるとかということは他でも強調されていますが、師イエスの同じ運命を被るのはこの福音書による弟子の姿だと言っても過言ではありません。おそらくそのために、先に5000人に食べさせるパンの物語があって、それによって強められた人々がイエスに従うことができるように、また、イエスがエルサレムに向かわれた後に糧として心に残るようにと、その物語をルカが入れているのではないでしょうか。

私たちとイエスとの関係は多重多元的なものですが、ただただ研究の対象や大好きな趣味的な対象であってはなりません。根本的に私たちは同じ使命に結ばれており、もっと厳密に言うならば、イエスの使命そのものに与っているのです。現実的に考えるならば、イエスと同じように私たちキリスト者も世間から拒まれ、迫害されるのは当然でしょう。たとえ「昔の方が良かった!」という思想に縛られ、後ろを振り向きたくなる傾向が多少自然でも、それに惑わされぬように前進する力を主に願いましょう。

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メッセージ - C年 祭祝日

復活節が終わっても、なお奥深い祝いが続きます。まず聖霊の降臨を記念しながらその働きを讃え、それから三位一体という一致の絆にして多様性の神秘について黙想しましたが、今日はキリストが残してくださった自分の体と血という「命の糧」の祭日を祝います。

小さな復活祭として祝われ日曜日ごとに捧げられるだけではなく、毎日、「日の出るところから日の沈むところまで」地球のどこかで捧げられる「感謝の祭儀」(エウカリスチア)ですが、2000年も絶え間なく続くキリストの過越の記念なのです。しかし、この「記念」という言葉に戸惑ってはなりません。何か大昔の出来事を忘れかけてきた頃に思い出すということではなく、何かが忘れられぬべくそれを覚え続けて、それを今ここに現存させ、その効果が続くようにするものです。言ってみれば、何度も捧げられるミサではなく、キリストがただ一度捧げた奉献がそのまま続き、私たちがそれに与り、それへと引き込まれる、と言った方が適切かもしれません。この糧こそ私たちを養い、日々の使命を神の力で果たすことができるようにするだけではなく、永遠の命を私たちの内に芽生えさせてくれる「不死性の薬」でもあります。

最後に、なぜパンとぶどう酒でなければならないかについて簡単に触れたいと思います。キリストがそれを用いたからとか、当時現地の単純な人々の日常的な食料だったからとかは別にして、古代の教父たちや中世の神学者らはそれを象徴的に解釈する傾向がありました。ディダケーという書物や聖アウグスティノや聖チプリアノによれば、パンとぶどう酒の重要性は次の2点にあります。一つは、パンを作る際にたくさんの小麦の粒を集めて、一つにしなければならないように、それを食べる人々(=教会)も内的な一致によって結ばれて、しかも全世界のたくさんのメンバー、様々なメンバーから集まっている、ということです。もう一つは、ワインを作るためにブドウの房を絞らなければならないのですが、自分たちのする苦労やイエス信者が受ける苦しみ(=殉教)をも意味する、つまり、キリストをはじめとし、その命を生きる人々の汗と涙を毎回のミサの中に想起しそれを供物として共に捧げる、ということです。

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