メッセージ - A年 四旬節 |
今日の福音朗読(ヨハネ9:1、6-9、13-17、34-38)では、イエスが生まれつき目の見えない人をいやし、それがファリサイ派の人々にとって問題となった、というエピソードが読まれます。この盲人は、人々にとって「座って物乞いをしていた人」(9:8)であり、何より「全く罪の中に生まれた」者(9:34)と呼ばれました。しかし、イエスは彼を「あなた」とだけ呼び、朗読箇所から省かれている節では、「神の業がこの人に現れる」(9:3)と語ります。
また、ファリサイ派の人々はイエスのことも、安息日を守らない罪人である(9:16、24)と非難しましたが、一方でいやされた盲人はイエスを「預言者」(9:17)と呼び、「神のもとから来られた」(9:33)と確信し、人の子を信じる(9:35-38)と宣言しました。
イエスと盲人との関わりは、ファリサイ派の人々にとっては罪人同士の罪深いやりとりであったけれども、彼ら自身にとっては神の業を実感させる恵みの交わりであったということです。本当に価値あるものを見出すことは容易ではない、ということは、第一朗読のサムエル記(サム上16:1b、6-7、10-13a)でも強調されています。預言者サムエルが新たに王となるべき人を探しているとき、彼は「容姿や背の高さ」にとらわれましたが、神は「人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る」(16:7)と語ります。
私たちの目は、何を見ているでしょうか。
メッセージ - A年 四旬節 |
私たちにとって、水は生きていくために絶対に必要なものです。命をつなぐためには食べ物も大切ですが、それよりもまず水分が重要です。今日の福音の中で、サマリアの女に対して、イエスはまさに自分が生きた水を与える者であり(ヨハネ4:10)、その水を飲む人の内で永遠の命に至る水が湧き出る(4:14)と語ります。
このサマリアの女は、正午ごろに井戸に水をくみに来た、と言われています(4:6-7)。水くみは、通常、朝一番にその日に必要な分を確保するために行われたと考えられるので、わざわざ遅い時間にこの女性が井戸に来たのは理由があったのでしょう。井戸端会議というくらいで、井戸はその地域の人々が集まる社交の場でもありますが、そこで他の人に会うのがはばかられたとか、人目につきたくなかったれたのではないか、と言われています。
そうした意味で、彼女は心に何らかの傷を負い、「渇いていた」状態だったのかもしれませんが、イエスと出会い、イエスが語る言葉に耳を傾けます。そしてその結果、彼女は避けていたか、少なくとも疎遠であっただろう町の人々との関わりを回復し、彼らを信仰へと導きます。傷つき孤独であった彼女の渇きが癒やされた出来事でした。
私たちも、日々、自分を生かしてくれる「水」を与えられている恵みに感謝したいと思います。
メッセージ - A年 四旬節 |
今日はマタイによる主の変容物語のバージョンが読まれます。一見すれば単純なストーリーですが、実は象徴に富んでいます。まず、先週と対照的に、イエスのアイデンティひいてはイエスに従うすべての人のアイデンティティについて論じています。4章3節・6節にあった「もし神の子なら、・・・」ではなく、「これは私の愛する子」(17章5節)という言葉が鳴ります。洗礼の場面(マタ3:17)とも共通しているが、そこと違って今回は「彼に聞け!」と付け加えられて、つまりメシアのアイデンティティはイエス自身とその確認と強化のために現されるのではなく、弟子たちのために明らかにされているということです。イエスも私たちも、神の子になりたいから何かをしなければならないのではなく、神の選びによって既に神の子供とされているからこそ、それに相応しく生きるのが義務ではなく、当然の振る舞いだと言えます。
福音記者マタイのニュアンスとしては、変容したイエスの姿はただ未来の勝利のイエスの服が真っ白になっただけではなく、イエスの顔が輝いていることを強調しています(17:2)。出エジプト記34章には、神と親しく面と向かって語った後のモーセの顔が輝き、それを覆わなければならなかったという伝統が書き記されています。ここでは、イエスは逆に本来の栄光に輝く顔の覆いを取り、その輝きを一瞬の間に見せています。それは、堕落する前の神との友情を味わっていた人間の、神の像としての尊厳をも窺わせてくれます。5節の弟子たちを囲んだ明るい雲も、イスラエル人を伴っていた神の現存の雲への言及かもしれません(出13章など)。同様に、天から響く神の声を恐れて聞きたくなかったイスラエル人(出20:18-19)と同じように、ペトロたちもこの声の前で地に伏せています。唯一イエスだけは神の言葉を受け、神の前に真っ直ぐ立つことができるのです。
それから、イエスが誰と語っているかも重要です。救いをもたらすイエスの受難の準備として、相談するのに相応しいと思われたであろうモーセとエリヤです。モーセはこの福音書で優位を占め、イエスの予型として機能していることが知られています。また、モーセもエリヤも、神と親しい友にされ、人間の中に特別な身分を味わい、民のために苦しみ、救いに貢献した人でした。申命記34章を読んでみると、モーセの後に彼に似た指導者はもう再び出現しなかった、とあります。特にその死に方において、モーセは葬られたけれども、その墓がどこにあるかは知られていません(申命記34:6)。また、列王記 下 2章11節によると、エリヤも普通の死を遂げたのではなく、ある種の昇天を経験した物語があります。ただ預言者や民の指導者だけではなく、神の子としてのメシアの到来は長く用意されていましたが、イエスにおいてこれらの予型が実現されます。
メッセージ - A年 四旬節 |
今日の朗読箇所である、イエスが荒れ野で40日間断食した後に悪魔から誘惑を受けたエピソード(マタイ4:1-11)は、モーセに導かれたイスラエルの民がエジプトを脱出し、40年間荒れ野を旅したという旧約聖書の話を思い起こさせます。「40」と「荒れ野」というキーワードだけではなく、その誘惑の内容も大きく関係しています。
イエスが受けた第一の誘惑は「神の子なら石がパンになるように命じたらどうだ」というものでしたが、それに対して旧約聖書の申命記の言葉を引いて、「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」(マタイ4:4/申命記8:3)と答えられました。断食後のイエスと同様に、荒れ野を旅していたイスラエルの民は飢えており、天からのマナを食べていましたが、しかしそこに神の働きを見るよう教えられていました。
第二の誘惑は神殿の屋根から飛び降りても天使たちが支えるだろう、というものでしたが、これに対してもイエスは申命記の言葉を用いて、「あなたの神である主を試してはならない」(マタイ4:7/申命記6:16)と答えました。荒れ野で渇いていたイスラエルは、飲み水を求めて「神が私たちの間におられるのかどうか」と主を試しました。
第三の誘惑は、悪魔を伏し拝むなら繁栄した国々を与えよう、というものでしたが、やはりイエスは「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」(マタイ4:10/申命記6:13)と旧約聖書の言葉でそれを退けました。この誘惑も、出エジプト後の旅するイスラエルが、たびたび神に背き、不平をのべ、更には神ではなく金の子牛を作ってそれにひれ伏し、自分たちの神としたことに重なります。
イエスが受けた誘惑は、時代を超えた普遍的な危険性を持つものです。この世のはかないものを最重要視し、神をも自分の意に従わせようとするという、同様の誘惑を受けたイスラエルの民は、たびたびそれにつまづきました。同じような誘惑は、現代の私たちにも突きつけられることがあります。私たちは、何を最も大切にしているでしょうか。四旬節はそれを振り返るときでもあります。
メッセージ - A年 年間 |
第一朗読(レビ19:1-2、17-18)でも「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」と言われていますが、福音朗読(マタイ5:38-48)のテーマも「愛」です。隣人を愛しなさい、そして敵をも愛しなさい、と、「愛」について語られています。この愛は、ただ単に人に対して良い行いをすることとは異なっています。下着を求める人には上着をも与える、一ミリオン行くように求められたら二ミリオン一緒に行く、とはそうした愛です。決められたことを決められただけ果たす、しなければいけないからその分だけを義務としてこなす、そこには愛がない、良い行いをしているからといって、愛していることにはならない、そう言われています。
結果さえ良ければ、最終的に効率よく必要なものが手に入れば、それが一番よいことだ、というのがこの世の知恵です。けれども、そのような知恵は神の前では愚かなものだ、と、今日の第二朗読(一コリント3:16-23)でもパウロは語っています。
私たちの行いも、打算や利益、効率に気を取られて目の前の相手を見失うことがないように、義務や責任ではなくて、相手を気遣う心を行いに伴わせることができるようにしたいものです。