メッセージ - A年 待降節 |
マリアと婚約していたヨセフは、彼女が聖霊によって身ごもっていることを知ると、ひそかに縁を切ろうと決心しました。それは主の天使がヨセフに、恐れずマリアを迎え入れるように、と告げたからでしたが、そのお告げは夢の中でなされました。つまりヨセフが寝ているときの話だったわけですが、このエピソードは、私たちが神の言葉に耳を傾ける際のあり方を象徴的に示しています。
人が眠りについているときは、ある意味、生きている中で最も死に近づいたときです。目をつぶって見えなくなるように、いろいろな感覚も鈍くなり、意識的に考えることもなくなり、動くことをやめ、無防備な姿をさらします。ヨセフはそのような眠りの状態に陥ったときに初めて、自分が持っていた考えを手放すことができました。すなわち、ヨセフが困難だと考えていたことを受け入れることができるようになったのは、自分自身が生きることをやめて、すべてを神に委ねた状態になったからでした。
自律した一人の人間として、私たちが自分の考えをしっかり持つことは大切です。しかし、それだけに固執するのではなく、神の言葉に自分自身を明け渡すときに見えてくるものもあるのだと思います。ヨセフは自分が正しいと思ったことを実行しようとしていましたが、眠りについて一度その考えから離れることによって、神の御旨を見出し、妻マリアを迎えることができたのでした。
メッセージ - A年 待降節 |
キリスト者でない人たちも祝うクリスマスは、電飾やツリーなどの様々な飾りつけ、おいしいものが並ぶ家庭の食卓やパーティー、サンタクロースのプレゼントなど、楽しい雰囲気の季節です。しかし、キリスト者にとっての主の降誕は、楽しいことばかりでない、厳しい現実を思い起こすときでもあります。苦しみ痛んでいる世界の現実に目を向けながら、それでも希望を持ち、そこにこそキリストが生まれるという信仰をあらたにするときです。
第一朗読のイザヤ書(35:1-6a,10)では、先週に引き続き荒れ野のモチーフが現れますが、そこに花が咲き誇ると言われ、嘆きと悲しみがあるけれども逃げ去って喜びと楽しみが迎える、と告げられています。
第二朗読のヤコブの手紙(5:7-10)では、辛抱し忍耐しなくてはならないが、それは雨が降って大地が尊い実りをもたらすのを待つようなものだと、希望があることを力強くあかしします。
福音朗読(マタイ11:2-11)では、第一朗読のイザヤ書を引用しながら、目が見えない人、耳が聞こえない人、足が不自由な人、病を患っている人、貧しい人がいるという現状を受け止めながら、しかし彼らが見たり聞いたり歩けるようになり、清くされていやされ、彼らにこそ福音が告げ知らされる、と語られます。
飼い葉桶の貧しさの中に生まれたイエスが、傷ついた人・罪を抱えた人と共に生き、彼らに神の国を告げ知らせた、苦しみと罪と死の中にこそ救いを告げ知らせたことは大きな意味があります。イエスが群衆に語りかけたように、私たちも「あなたは荒れ野で何を見たのか」と問われています。
メッセージ - A年 待降節 |
洗礼者ヨハネが天の国の到来が近いことを宣べ伝え、人々に悔い改めを呼びかける姿は、「荒れ野で叫ぶ者の声」(マタイ3:3)とたとえられています。実際にユダヤの荒れ野で活動していたヨハネは、らくだの毛衣を着て、腰に革の帯を締め、イナゴとの蜜を食べ物としていた、という独特の風貌でしたが、更に厳しい言葉を用いて人々を非難し、その罪をとがめます。神の怒りが差し迫っており、木の根元には斧が置かれていて、良い実を結ばないなら、すぐに切り倒されて火に投げ込まれる、という厳しさです。まさに人が生きていくことができない、過酷な自然環境である「荒れ野」のあり様です。
しかし、そんな荒れ野でこそ、「聖霊と火」で洗礼を授ける、洗礼者ヨハネよりも優れた方の到来が告げられました。荒れ野でこそ、救いの訪れ、神の国の訪れが宣べ伝えられました。私たちは、だれしも自分の「荒れ野」で、苦しい状況を生きることがあります。けれども、そんな荒れ野の中にこそイエスが生まれた、人々の苦しみや痛みによりそい、いやしを与えるために生まれた、そういうことを思い起こさせてくれます。
人々が幸せを感じ、楽しみを分かち合うクリスマスの時期だからこそ、荒れ野のメッセージを大切にしたいものです。
メッセージ - A年 待降節 |
今日の福音朗読(マタイ24:37-44)、そして第二朗読のパウロの手紙(ローマ13:11-14a)において、中心となっているメッセージは、「目を覚ましていなさい」「眠りから覚めなさい」ということです。それは肉体的な眠りや目覚めのことではなくて、精神的あるいは霊的な目覚めのことであり、私たちが神の国の到来に敏感であるように、との勧めになっています。
神の国はもちろん見えるものではなく、またどこでどのように実現するかわからない、人の子は思いがけないときに来る(マタイ24:44)と言われています。ですから、見えないものへの感覚を研ぎ澄ますことが重要です。第一朗読のイザヤ(2:1-5)は、国が戦争の危機に直面するという厳しい状況にあって、そこには見えるはずがない、武器が必要なくなる平和のビジョンへの希望を持ちました。私たちは見えていない希望に強められ、見えてないが恵みを受けていると感じて感謝し、見えない愛を形にして自分の使命を果たします。
福音朗読で言及されているノアの時代の人々が「食べたり飲んだり、めとったり嫁いだり」という当たり前の日常的なことだけにとらわれて、洪水が襲ってくるのに気づかなかったように、私たちも目の前の見えていることだけにとらわれると、大切なものを見逃してしまうかもしれません。
馬小屋の飼い葉桶に寝かされている幼子イエスに目を向けるとき、キリスト者でなければ、そこにあどけない、無垢だが無力な赤ん坊を見るだけです。しかし、イエス・キリストを知っている者は、その赤ん坊に、貧しい人の友となり、病の人に手を差し伸べていやし、十字架の死に至るまでその行き方を貫いた姿を見出します。
メッセージ - C年 年間 |
カトリック教会の典礼暦年間の最後の主日は、王であるキリストを祝います。今日の福音朗読の箇所は、ルカ福音書におけるイエスが十字架につけられた場面です(23:35-43)。そこでは、十字架を囲む兵士たちがイエスのことを「ユダヤ人の王」と呼んでいますけれども、それはもちろん皮肉です。十字架の上で何もできない、自分を救うこともできない、と言って侮辱しています。また、一緒に十字架に掛けられていた犯罪人の一人も、同じように「お前がメシアなら、自分自身と我々を救ってみろ」とののしりました。彼らにとっての「王」とは、第一朗読(サムエル下5:1-3)に描かれているダビデのように、この世界で強い武力を持ち、戦争の時に人々の前に立って、敵と戦ってくれる人物のことでした。それに対して、もう一人の犯罪人は、「あなたの御国においでになるときには」、つまり「あなたが王としてご自分の国に入るときには、わたしのことを思い出して下さい」と言いました。
両者ともイエスのことを「王」だと言いながら、王がどういう者かということについては、別々の考えを抱いていました。兵士たちは、力強く戦う王・敵を力で滅ぼす王のイメージを持ち、イエスのことを皮肉で「王」と呼びながら、十字架から降りてくる力がない、弱々しくて自分自身も他の人も救えない、と侮辱しました。逆に一人の犯罪人は、イエスは何も悪いことをしていないのに、その必要もないのに、すべての人の救いのために、自分から十字架に上がっていった、だからこそ王として自分の国に入られる、そう考えました。
私たちにとっての王は、戦いの中で敵を攻撃して滅ぼす王でしょうか。それとも、人々を愛し、そのためには身をささげるほどの苦しみを受け入れて、人々を救う王でしょうか。私たちにとって、十字架の上のイエスは、弱い、力のない、惨めな人でしょうか。それとも私たちのために命をかけるほど、強い愛を持った方でしょうか。