メッセージ - A年 復活節

四つの福音書に描かれている、弟子たちと復活のキリストとの様々な出会いはバラエティに富んでおり、とても興味深いものです。今日の福音では、ルカ福音書の有名なエマオへ向かう二人の弟子たちとイエスの出会いの場面(ルカ24:13-35)が朗読されます。

他の復活物語にも見られるモチーフですが、弟子たちは復活したイエスを見て、それが自分たちの先生だとは認識できません。同時に、イエスの生前の活動と、十字架の死と、空の墓など(24:19-24)、「一切の出来事について話し合っていた」(24:14)けれども、そこにイエスの真理を理解できていませんでした。そこでイエスが聖書全体にわたり、ご自分について語ると、弟子たちの心は燃えてきます。そして共にした食事の席でイエスがパンを裂いたとき、そこにイエスを見出しました。

弟子たちと同じように、私たちが復活のイエス・キリストに出会うのは、目の前に視覚的に存在している方との遭遇としてではありません。私たちの心が燃えるときであり、パンを裂くときです。2000年前に力強く人の心を動かしたその言葉が私たちの中で再び力を持つときであり、私たちが共に同じ食卓を囲んでパンを分け合い、与え合うときです。

現在、日本でも世界でも、キリストとの主要な出会いの場であるミサに多くの人が与ることができない状況です。しかしそれでも、大変な毎日の生活の中にも、私たちの心を燃え立たせるものがあることを私たちは知っています。苦しい状況によってそれを見失ってしまわないように、それをまわりの人と分かち合うことができるように、日常における復活のキリストとの出会いを大切にしたいと思います。

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メッセージ - A年 復活節

今日の日曜日はQuasimodo(「〜のごとく」という意味)とも呼ばれています。それは、ミサの入祭唱の引いている第1ペトロの手紙2:2という箇所からとった言葉です。そこにはこう書かれています「生まれたばかりの乳飲み子のように、理に適った、混じりけのない乳を慕い求めなさい。これによって成長し、救われるようになるためです。」と。それは今年の復活祭だったせよ、昔別の日だったにせよ、洗礼を受けた時には私たちは現に生まれ変わったことを思い出させてくれる言葉です。キリスト者になってもまだ成長が続き、最初は乳飲み子のようなものです。私たちは第2朗読にある通り、神の豊かな憐れみにより「新たに生まれさせ[て]」いただきました。つまり、直接経験していなくても、キリストの復活によってこそ私たちは希望をもち生き生きと暮らすことへと生まれ変わっているはずです。

それから、同じ第2朗読では、ペトロは「見る」ことについて語っています。また、朗読される福音の箇所でも、有名なトマスの不在の出来事の中に、「見る」ことに触れられています。復活した主は、自分の姿を現したり、見えなかったり、見えても人が気づかなかったりする物語がたくさんあります。それでもなお、ペトロによれば私たちは「キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています」。これこそ子供の性質ではないでしょうか。何でも聞いたことをただただ鵜呑みにするのではなく、理解できないことを素直に受け止めるということです。子供が単純すぎるのではなく、疑いがちな大人こそ複雑すぎるのです。自分で確かめなければ信じないのはむしろ大人の態度です。想像力と信頼力のある子供は、聞いた話を話し手の権威のゆえに受け止めることができます。他方で、乳飲み子・子供だからこそ、お母さんが見えなくなると怖くて寂しくなるのも当然です。そこで、お母さんの存在を疑うどころか、お母さんの帰りを切に求め、待ち続けることにつながります。

今日のミサをもって「復活の日」が終わりますが、復活祭の延長線はこれからも続きます。福音では「その同じ日の夕方」と「8日目後に」と二つの日に言及されています。復活の日は安息日の次の日、ユダヤ人の週の初めの日、つまり新しい始まりでした。1週間も経てば、終わりがまた始まりに直結し、大きな輪を描きます。言ってみれば、7日間にわった天地創造をなぞって、主の復活によって新しい創造が成し遂げられ、イエスはその初穂となりました。しかも、その新しい創造は7日目の神の安息で終わることなく、また新たに始まり、永遠に続いていきます。だからこそ、「8」という数字は古代キリスト教の芸術では、新しい天地創造および永遠の命の象徴として多いに使われていました。無理もないことですが、大聖堂の西側に建てられていた洗礼堂は多くの場合、八角形の形をしていました。それはまた山上の説教の真福八端をも思わせる奥深い象徴なのです。

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メッセージ - A年 復活節

復活節を迎えて

今年は特別な事情で世界各地の教会で、非公開の形で四旬節、聖週間、そして主のご復活を迎えることになっています。だが、様々な形をもって主の復活を祝い、人生の希望に満ちた福音のメッセージを告げ知らせ続ける教会の務めは変わりません。

変わらずに、復活の主日では、マグダラのマリアをはじめ、そしてペトロともう一人の弟子が目撃した空っぽのお墓の物語が告げられます。「空っぽのお墓」は主イエスが復活された最初のしるしです。つまり、イエスのご遺体のないお墓だけで弟子たちの心の中に確固とした信仰が生まれたわけではありませんでした。最初に「空っぽのお墓」を目にして弟子たちは直ちに復活を信じることが出来ませんでした。ヨハネの記述によると、「イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである」と。復活された後にもイエスが何度も、繰り返してご婦人らをはじめ、弟子たちに現れて弟子たちの信仰を徐々に強めてくださいました。

イエスは復活されてから、天に昇られるまで40日間をもって、教会の土台となった弟子たちを徐々に育て続けました。ご婦人らや弟子たちの前に現れたのは簡単に数えてみれば、十回ほどもあります。

・イエスはマリアという名でマグダラのマリアに呼びかけました。(ヨハネ20,1-17)
・イエスはグダラのマリアともう一人のマリアに「おはよう」と挨拶しました。(マタイ28,8-10)
・イエスはエマオという村へ向かっていた二人の弟子とともに歩みました。(ルカ13-43)
・イエスはシモン・ペトロに現れました。(ルカ24,34)
・イエスはトマスのいない時に弟子たちに現れました。(ルカ24,36)
・イエスは弟子たちとトマスに手足や胸の傷を見せました。(ヨハネ20,26-29)
・イエスはティベリア湖で七人の弟子に現れました。(ヨハネ20,1-2)
・イエスは五百人以上の兄弟たちに現れました。(1コリント15,6)
・イエスはヤコブと弟子たちに現れました。(1コリント15,7)
・イエスは天にあげられる時に、弟子たちを祝福し、派遣しました。(ルカ24,50-53)

また何度も復活されたイエスに出会ったため、弟子たちの信仰は強められただけではありません。ユダヤ人であった弟子たちはすでに旧約に預言された救い主・メシア像を知り、特にイエスの言動を見聞きしたことを思い出しながら、ようやくイエスのことを信じるようになりました。言い換えれば、弟子たちの信仰は空っぽのお墓、何度ものイエスの現れ、かつての聖書による預言、またイエスの言動への思い出し、といった総合的な条件で生まれたものと言えるでしょう。

教会は主のご復活をたった一日で祝うことはく、復活の主日の次の八日間に重点を置き、聖霊降臨の主日までの50日間を復活節として祝い続けます。そのため、わたしたちが復活節をとおして全体の復活のメッセージを理解し、復活されたイエスに信仰をあらためて表明することができますように。

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メッセージ - A年 四旬節

受難の主日はイエスの受難を思い起こす日です。今日の福音朗読(マタイ27:11-54)にあるように、イエスは捕らえられ、裁判で死刑の宣告を受け、ののしられ、侮辱され、最後には十字架にかけられましたが、この苦しみはイエスにとって、どうしても避けられないことではありませんでした。彼は祭司や律法学者たちに逆らうのをやめることもできましたが、そうしませんでした。

律法に背くと非難されながらも、福音をのべ伝え、罪人と言われる人たちに手をさしのべ続けました。国の中央から離れたガリラヤにとどまることもできましたが、あえて祭司や長老たちがいるエルサレムに入りました。ユダが裏切ることを知りながら、そのままにしておきました。自分が受けることになる苦しみを過ぎ去らせて欲しいと思いながら、しかし、神の御心が行われるように、その苦難を受け入れました。祭司長や長老たちに遣わされた群衆がやってきたとき、弟子を制して、自らを引き渡しました。そして今日の朗読箇所にあるように(27:12-13)、ピラトに尋問を受けたとき、祭司長たちの訴えに反論することもできましたが、そうはしませんでした。こうしてイエスは、最後まで神の愛に従う生き方を貫くことを選びました。

ですから、この受難の主日には、イエスがどうすることを選んだのかを思い起こすと同時に、それに応えて、私たち自身が何を選ぶのかも問われています。

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メッセージ - A年 四旬節

今日の福音朗読の箇所(ヨハネ11:3-7、17、20-27、33b-45)は、ヨハネ福音書11章の本来の非常に長いテキストからいくらか省略されたものですが、それでも普段の主日よりだいぶ長くなっています。それだけ、このラザロに関する奇跡物語に重きが置かれているということです。これは単なる一回限りのいやし、よみがえりの話ではなくて、その背後に、イエスとマルタ、マリア、ラザロの兄弟たちが以前から築き上げてきた友情、その深い人間関係があるからこそ、これほど長い話として描かれています。「イエスは、マルタとその姉妹とラザロを愛しておられた」(11:5)と言われているとおりです。そのため、彼らの親しさを裏付けるような、ラザロの死に直面したイエスの「憤り」「興奮」という言葉で表現される感情がたびたびあらわにされています(11:33、38)。

イエスはマルタ、マリア、ラザロと共に喜び、共に楽しみ、良い時を過ごして良い関係を築いてきたからこそ、ここで、ラザロが死んでしまったときに、憤りを感じるほど、心を動かされています。私たちも、四旬節にキリストの十字架の苦しみに与る上で、まずイエスと、神と良い関係を築くことが大切です。まず日々の生活の中で、喜びや感謝がなければ、自分の十字架を担ってイエスについて行くことはできません。

四旬節には犠牲や節制が勧められ、イエス・キリストの受難や十字架が強調されますが、苦しみ自体が目的ではありません。そこに私たちは愛を見出し、喜びをも忘れずに歩んでいきます。

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