メッセージ - B年 年間

第一朗読: 列王記上17, 10-16

北王国のアハブ王の時代に預言者エリアは活動を始めた。アハブ王がバアル宗教をイスラエル王国に許したからである。エリアは「わたしの仕えているイスラエルの神、主は生きておられます。わたしの言葉のないうちは、数年雨も露もないでしょう」という言葉をアハブに宣べ伝えた後、外国に逃げなければならなくなった。そしてシドンのツァレファテに着いた。そこで、神の祝福がユダヤ人ではなく、神を恐れる(正しいことをする)すべての人々のために現れた(17, 14-16)。エリアに会ったやもめは自分自身の状態を気にせず、彼が教えた通りにして、飢餓の時に死から自分と自分の息子を救った。唯一の神の言葉に従う者は自分自身をも救う。


第二朗読: ヘブライ9, 24-28

イエスは新たな契約の大祭司として、すべての罪人の代わりに捧げ物(自分の命)を捧げた(9, 26)。イエスが唯一捧げた捧げ物は完全である。人間を救うためにその他の捧げ物はい らない。イエスがこの世に現れた目的は、人間を救うために自分の命を捧げることである。イエ スが再びこの世に来られる目的は、救いの歴史を完全にするためである。イエスが神の子として この世に来られた(ただ一度)目的は自分の身を捧げることであり、全ての人間の罪を負うこと であった。つまり、人間の罪こそが、イエスが来られた理由であった。そして、イエスがこの世 に再び来られる目的は、人間を救うことである。つまり今度は、人間の信仰のためにイエスが来 られるのである。


福音朗読: マルコ12, 38-44

何のために神の僕になったのか。偉い人になるためだろうか(律法学者の場合)。それは何の役にも立たないことである(12, 40)。では、神にすべてを捧げるためだろうか。それは価値のあることである。イエスの時代にユダヤ教のある偉い人々が神のことばを自分の目的ために使うという問題があった。唯一の神に従うこととは、神に自分のある時間、つまり人生のある部分だけを捧げることではなく、唯一の神に全てを捧げることである。人間にそれができるかどうか。貧しいやもめにはそれができた。

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メッセージ - B年 年間

賢い選択 マルコ12:38-44

現代の世界は、私たちが自由な意思を実行する無限の可能性がある、という特徴を持っています。現在、世界の大部分の人たちは、どのように自分の宗教を生き、実践するか、自由に選ぶことができます。しかし、賢い選択をするためには、自由に責任が伴います。
イエスは、私たちが当時の一部の宗教的指導者たちのように、利己的な目的や不正な利益の追求のために宗教を利用することがないように、と警告しています。私利私欲に走る彼らの行いと対比して、イエスは、信仰の実践に関して賢い選択をした一人のやもめの模範を私たちに示しています。彼女は自分の生すべてを神に任せることをためらわず、持っているものすべてをささげました。指導者たちとは違って、惜しみない心はささげた銅貨よりはるかに大きな神の恵みで満たされる、ということを彼女は知っていました。貪欲さよりも寛大さを選ぶことによって、彼女は裁きよりも救いを選んだのです。これは賢い選択でした。

(神言会文書 Encountering the Transforming Word 2018 Oct/Nov より翻訳)

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本質に立ち戻る マルコ12:28b-34

どんな施設、どんな宗教活動や組織も成長と拡大に努めています。成長そのものはよいことですが、抑制がなければ、がんのように致命的になりえます。どの指導者たちも、どの世代も、新しい法律や規則、アイデアや慣行を導入して、永遠に名声を残そうとします。しかし、それらがあまりにも多くなると、何を守ろうとしているのか、どんなことを示そうとしているのかがわかりにくくなってしまいます。

私たちの教会や修道会も、この危険から逃れられません。ですから、今日の福音は、私たちの信仰と実践のまさに本質を力強く思い起こさせてくれます。私たちの教会は、愛へのゆるぎない献身を通して、人々の生を神に導くという、ただそれだけのために存在しています。また、相互の愛という原則に従って、すべての信じる人々の日々の行いを導きます。すべての規則、法律、慣行はこの目的のためでなければならず、そうでなければ不要なのです。

(神言会文書 Encountering the Transforming Word 2018 Oct/Nov より翻訳)

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イエスが律法学者の問いかけに答えてのべられた重要な掟とは、「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして神である主を愛すること」と「隣人を自分のように愛すること」でした。「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして」とか「自分のように」という修飾語句は、「愛する」ことを具体的にしています。ただ「愛しなさい」と言うだけではなく、どのように愛するかを強調することによって、掟が掟のままで終わらないように、どのように一歩を踏み出すべきか、道筋を示してくれています。

イエスは律法学者が適切な答えをしたのを見て「あなたは神の国から遠くない」と言われました。答えた内容は良かった、よく理解していたけれども、それだけでは神の国に入ることにはならない、ということです。遠くはないが、もっと近づいていかなければならない。その近づいていく歩みが、実際に「愛すること」です。

イエスは十字架への道を歩んでいきました。それは、自分を遣わされた神のみ旨を果たすことによって神を愛することであり、自分の命をかけても人々を愛することでした。こうして自分の命をささげて神と人とに仕えるイエスの姿は、第二朗読のヘブライ人への手紙の中で、特別な「大祭司」として語られています。

愛を実行に移すには、勇気が必要です。人の目を気にしたり、反対があったり、何か犠牲があったりしても、それを乗り越えなければ、愛の掟を実現させることはできません。その力を与えてくださるのも、また神であり、隣人の支えであることを思い起こしたいと思います。
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バルティマイは、イエスが来られたと聞いて叫びました。「ダビデの子イエスよ、私を憐れんでください」。道端で物乞いをしていた盲人だった彼が、まず最初に願ったのは、「目が見えるようにしてください」とか「私の目を開いてください」、「私をいやしてください」ということではなくて、「私を憐れんでください」でした。しかも、それは「叫び」としてあらわされました。イエスが近くまで来ているとは聞いたけれども、目が見えない彼には、どこを歩いているか、どこに立っているかまではわからない。ただ、この時を逃すことはできないと、必死になって、どこにいるか見えないけれども近くに入るはずのイエスに何とか聞いてほしいと、顔を上げて自分の周りを見回すように、そこら中に叫びかけました。

「私を憐れんでください」は、「私の目をいやして、見えるようにしてください」というよりも、もっと心の深いところから絞り出された、叫びです。それは、「私を見捨てないでください」「私のことを見てください」「私に目を留めてください」「私を否定しないでください」「まるで私が存在しないかのようにふるまわないでください」というような、単なる視力の問題を超えた、自分の全存在にかかわる悲痛な叫びでした。

周りにいた人々は、このバルティマイをしかりつけて黙らせ、彼の叫びをなかったことにしようとしました。それはつまり、彼がそこにいなかったことにしようとすることでした。それに対して、イエスは彼の叫び声を聞き、足を止め、自分の近くに呼びよせました。バルティマイの叫びに耳を傾け、目を留め、彼自身を、その痛みも望みも、すべて受け入れて憐れみ、いやしました。

盲人はティマイの子で名前はバルティマイであった、と記されていますけれども、福音書がいやしの奇跡を受けた人の名前にまで言及するのは、特別なことです。イエスにとって、この盲人は、群衆の中の名もない誰か、いてもいなくてもかまわない、誰でも代わりになりうる人ではありませんでした。バルティマイという名前を持った、一人の人として扱われました。

私たちは、叫びをあげている人々を必ずしも救うことはできないかもしれません。何もできないことのほうが多いかもしれません。しかし、何もできないとしても、人々の叫びに耳をふさぎ目を背けるのではなく、憐みの心を持って近づいていくように、一緒にいて共に喜び、共に苦しむように、イエスは私たちを招いています。

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