メッセージ - B年 祭祝日 |
今日の三つの朗読箇所には、「契約」と「血」という言葉が共通して現れます。
第一朗読では、モーセが献げ物であるいけにえの血の半分を祭壇に、もう半分を民に振りかけ、イスラエルが神と契約を結びます。エジプトから救い出された民は、その救い主である神と特別な関係にあることを選びました。
第二朗読では、いけにえの動物の血ではなく、キリストの血こそが私たちの罪をあがない、神と人との間に永遠の契約を結ばせるものだと語られています。
福音朗読の、マルコ書による最後の晩餐である過越の食事の場面では、イエスが与えるパンをその体であるとすると共に、杯を人々のための「わたしの契約の血」であるとしています。過越、すなわちイスラエルの民が死の危機から命へと救い出された出エジプトを想起する食事において、イエスはこれから十字架の上で献げる死を通して人々を神の生命へと導く、その言葉が示されています。ですから、ミサの中で受ける聖体の内に、私たちはイエスが招いて下さった神との特別な関わりを思い起こします。
血は生命力の象徴であり、それゆえイスラエルの民は、肉は食べても血は口にすることはなく、生命の恵みを与えて下さった神に属するものとして特別に献げました。私たちはそのようなことは気にしませんが、それでもキリストの血の内に、神が与えて下さる生命の現れを見出します。
メッセージ - B年 祭祝日 |
申命記 4:32-34, 39-40
ローマ 8:14-17
マタイ 28:16-20
アメリカで知り合ったお友達が最近日本に来ていただき、神学院で数日間滞在していました。帰る前にその知り合いは、「神学院はとってもいい共同体ですね」と言われました。数日間だけでしたし、ギリでそう言ってくださったのかなぁと半信半疑でその褒め言葉を聞いていましたが、出発の前にまた「本当にいい共同体ですね」と言われて、「あぁ、本当に思っているのかなぁ」と素直にその言葉を信じて、「有難うございました。今度院長に伝えておきます」と答えました。
先週、私たちは聖霊降臨を祝っていました。聖霊降臨は、集まっている人々の中に起こった出来事です。弟子たちがそれぞれ自分の家で、一人でいる時に聖霊降臨が起こったのではありません。聖霊降臨は、希望を失った人々、将来への不安を抱えながらも希望を失わずに心一つにして集まっている弟子たちの間に起こった出来事です。
今日は、三位一体の主日を向かいます。私たちが信じる唯一の神は孤独な存在ではないです。独りよがりの存在でもないです。私たちが信じる唯一の神は共同体的な存在、三位一体の神です。そして、神のあり方が全人類のあるべき姿でもあります。
マタイ福音書によれば、天に上げられる前にイエスが弟子たちに残した最後の言葉は、「すべての民を私の弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と。
つまり、イエスが望んでいるのは、すべての人が三位一体の神の共同体の中に参与することです。神が共同体的な存在であるように、すべての人も一つの共同体となることが人類のあるべき姿です。弟子たちはそれを実現するための協力者となる使命を受けたということです。すべての人が聖霊に力づけられて、神を「アッバ、父よ」と呼ぶことができるように協力することです。すべての人がキリストと共に共同の相続人となることを実現することです。
三位一体の神の主日は、神が共同体的な存在であるように、すべての人も一つの共同体であることを再確認する日ではないでしょうか。
メッセージ - B年 復活節 |
毎年の復活節の終わりに、教会は聖霊降臨を祝っています。なぜなら、聖霊はイエス・キリストの世における使命を完成させているからです。復活したキリストが弟子に与えた最初の賜物だからです。師イエスの言葉を思い出し、理解させてくれる指導者だからです。少し想像しにくく理解しがたい聖霊を紹介するためには、聖書は様々なシンボルや様々な称号を使っています。まず、「真理の霊」、それから「弁護者」、「慰め主」、「心の光」などです。聖霊は賜物中の賜物なのです(ルカ11:13を参照)。
聖なる三位一体は、それぞれの位格には固有の働きがあっても、結局全てを業を三者ともに為しています。ですから、イエスの復活と聖霊降臨も非常に密接に結ばれています。興味深いことに、イエスはご自分を「聖霊において」御父に捧げたと書かれています(ヘブ9:14)。また、イエスを復活させた御父の霊が私たちのうちに住むなら、その同じ霊が私たちをも復活させてくださる、と聖書が述べています(ロマ8:11)。そして、聖霊は「命の与え主」とも呼ばれており、廃れてきたもの、衰えたものを再び生き生きさせる働きをしています。教父たちがこだわって強調していたように、聖霊との関わりが欠けてくるとイエス・キリストは大昔の人物でしかなくなり、彼の復活は記念や理念になってしまい、私たちの共同体も空回りしている人間的な組織になりかねません。
今日の朗読から伝わる最も強い印象の一つは、この聖霊は特に「一致の霊」であることです。同じ霊を受け、あるいは、同じ霊で満たされた人々は色々な違いがあっても、色々な言語を語っていても、それは対立に通じることではありません。聖霊降臨直後の教会は、今の世の中に足りない平和と一致(つまり多様性における一致)を見事に体現していました。それは画一化されたユニフォームなものではなく、むしろユニティーを目指し経験する一つの心・一つの体でした。これは、一回限りで獲得されたものではなく、常に把握されつつある不完全なもの、理想、それに近づいていく状態でなければなりません。私たちにさながら刻印として押されている聖霊はまだ完全な形で与えられているのではなく、ただ「保証として」与えられています。将来の完全な賜物、永遠の命への復活、神との完全な交わりなどをあたかも「前払い金」かのように先取りさせてくださるのも聖霊の働きに他なりません。また、聖書が伝えている聖霊の賜物とは、個人個人の持つ「愛、喜び、平和、柔和・・・」(ガラ5章における聖霊の実り)、すなわち自分さえ持っていれば満足できる「知恵、理解、力、畏敬・・・」(イザ11勝による聖霊の7つの賜物)だけではなく、それと同時に皆で経験する現実でもなければなりません。
メッセージ - B年 復活節 |
第一朗読:使徒言行録1, 11-11
第一朗読の言葉が使徒言行録、すなわちルカによる福音書から続いている第二冊の書物の始まりである。ルカによる福音書が主の昇天で終わる(ルカ24, 44-53)ので、使徒言行録は主の昇天から始まる(使徒1, 1-11)。イエスは自分の父のところに戻る前に、弟子が信仰の道を歩き続けるために必要な準備をすることができた。弟子の信仰を強めて、聖書の言葉が理解できるように説明し、宣教できるように聖霊の力を受けるまでエルザレムに留まるよう命令した後にこの世に離れた。キリスト教の教えによればイエスはこの世に再び来られる。この時、栄光を帯びて来られる。
第二朗読:エフェソ1, 17−23
第二朗読の言葉は分かりにくいかもしれませんが、キリスト教の神学に非常にとって奥深い教えが含まれている。だから、一つずつ節の説明をしよう。17節に、著者は手当人が神の神秘を深い理解ができるように神から必要な啓示と知恵がもらえるように祈っている。18節と19節によって、信者たちは心(心の目)を使って、三つの重要な神秘が理解しなければならない。それは、彼らの希望、彼らの将来の栄光、彼らが神からいただいた神の力である。20節に、神は自分の力があらわれるわざでイエスを復活させ、天においてご自分の右の座に着かせられたことである。つまり、イエスの栄光が神のわざである。21節に、神の右の座に着かせられたイエスは永遠に全ての存在するものを支配する。22節に、天に生きているイエスは教会の頭であり、捨ての信者たちを支配する。23節に、イエスを信じている人々はイエスの体であるという。22節と23節の意味はイエスとキリスト教は一致しており、教会がイエスの恵みで存在し続けて、イエスの栄光が教会だということである。
福音朗読:マルコ16, 15−20
キリスト教はイエスの体であり、この世界でイエスの手である。と言うのも、この世に存在する教会の目的はイエスに命じられたことをする(15節)。命じられたことは 全世界に福音を宣べ伝えることである。キリスト者たちの義務は福音を宣べ伝えることだが、この福音の言葉を聞く人々は自由に選択する。教会は、この義務をイエスが再び来られる日まで果たさなければならない。
メッセージ - B年 復活節 |
ヨハネの言葉遣いには「愛」という言葉の他に、「掟」や「命令」という概念も多く登場します。現代人にとってはその二つの間に解消できない対立があります。愛は自発的なものでなければならず、都合と関係なしに命じられることは矛盾ではないか、と思う人が少なくありません。今の世の人は何も命じられたくない、誰によっても決められないことを理想として目指しています。その代わりに、人を支配したり、人に義務を課したりすることは同じ気持ちで拒否したりしないのは残念です。必ず愛されたいけれど、自分から極みまで愛することをためらってしまいがちです。
興味深いことに、聖書に「神の命令」とか「神のみ旨」とか出てくる際、それは神が勝手に決める、一方的な申し付けではないことに気づきます。しかも、たまたま言う言葉と拘束力を添えて出す命令が別々ではなく、前者も後者も神の言葉はすべて守るに値します。拘束というと少し暗い不自由なイメージがありますが、いったい神様は何を言い、何を望み、何を命じているのでしょうか。復活節の朗読を読み返すと、分かりやすいです。まず、神のみ旨は永遠の命だと書いてあり、また、すべての人が御子を信じ救われ、誰も滅びないことがイエスが神から受けた命令です。使徒たちも、神の望みが私たちの聖化に他ならないなどと述べています。
そして、代表的なのはイエス・キリストの「新しい掟」、すなわち他の掟を廃止するどころか、ある意味ですべてをまとめる掟です。そこで一番分かるのは、立法者として何か外から課している義務ではなく、自分自身も行なっていること、生き様、命を共有しているだけだということです。誰かを愛することは「神が命じたから」義務だとか、「イエスのために」求められているとかではなく、またキリストの愛のような真似でもなく、むしろイエスの愛を受けて、その愛をもって神と人とを愛することであって、信仰者としての当然の結論なのです。