メッセージ - B年 復活節

一年の典礼暦の頂点である主の過越の三日間には、 主イエス・キリストの死と復活を記念します。死だけではなく、復活だけでもない、その両方が重要だということは、使徒パウロのローマの教会への手紙6章でも言われていることです。私たちはキリストの死に与って罪に死に、キリストの復活に与って新しい命を生きる、とパウロは言います。四旬節・復活節は、キリストと私たちとの結びつきのあり方を振り返る時でもあります。

聖書には、イエスの復活の瞬間が描かれた場面はありません。マルコ福音書では、更に復活のイエスと出会う場面すらありません。(16:9以降は、後代の付加と言われています。)福音書の興味は「どのように」復活が起こったか、という点にはありません。その代わり、三人の女性たちが墓で出会った白い衣の若者が「あの方は復活なさってここにはおられない」「あの方はガリラヤに行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる」と語ります。ガリラヤは、イエスがその活動を始められた場所・宣教のほとんどをされた場所であり、多くの弟子たちの故郷でもあります。ですから「そのガリラヤでイエスにお目にかかれる」とは、イエスに従って歩むとき、イエスと同じように神の国のために働くとき、どこか特別な遠いところではなく自分の場所でそうするとき、復活の主に出会うことができる、というメッセージかもしれません。パウロの手紙もそうですが、復活におけるキリストとの関わりが問われています。

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J.S.バッハ :『ヨハネ受難曲』より

 
メッセージ - B年 四旬節

今日の受難朗読で一番興味深い言葉は、やはり、福音記者がわざわざアラマイ語で記した「我が神、我が神、どうして私を見捨てられたのか」というイエスの叫びです。実は、詩編の引用であり、他にも詩編にメシアの自覚を持っていたイエスに当てはまる箇所がいくつかあります。それを合わせて吟味する価値があるのではないでしょうか。


詩編22編2節
わたしの神よ、わたしの神よ/なぜわたしをお見捨てになるのか。なぜわたしを遠く離れ、
救おうとせず/呻きも言葉も聞いてくださらないのか。


詩編31編6節
まことの神、主よ、御手にわたしの霊をゆだねます。わたしを贖ってください。


詩編40編7節
あなたはいけにえも、穀物の供え物も望まず/焼き尽くす供え物も/罪の代償の供え物も求めず/
ただ、わたしの耳を開いてくださいました。そこでわたしは申します。
御覧ください、わたしは来ております。わたしのことは/巻物に記されております。
わたしの神よ、御旨を行うことをわたしは望み/あなたの教えを胸に刻[む]


詩編69編22節
人はわたしに苦いものを食べさせようとし/渇くわたしに酢を飲ませようとします。


詩編116編10節
わたしは信じる/「激しい苦しみに襲われている」と言うときも…

 

(全ての引用は新共同訳聖書による)

 

そこで、普通のユダヤ人が一生に渡って何回ともなく唱えた詩編なので、きっと暗記していたとも思われます。なので、イエスは確かに人類と同一化するために、一見すれば神に拒まれた身分の者になってくださったのですし、そこで初めて人間らしい、いや、人間よりも人間的な気持ちを味わいました。そうでなければ、すべての人間を救うことができなかったからです。しかし、心を打たれるのは、そういう絶望に極みにあっても、神の名を呼んでいること、信頼を込めて神に祈っていることなのです。実は、その叫び声を聞いていた周りのユダヤ人誰もがその詩編の続きを思い起こすことができたはずです。そこは失望の気持ちで終わるのではなく、遠くはるかに神の業、その栄光と勝利が垣間見られます。

「命に溢れてこの地に住む者はことごとく/主にひれ伏し/塵に下った者もすべて御前に身を屈めます。わたしの魂は必ず命を得/子孫は神に仕え/主のことを来るべき代に語り伝え/成し遂げてくださった恵みの御業を/民の末に告げ知らせるでしょう。」(30−32節)

そして、もっと不思議なのは、ヘブライ人の手紙によれば、苦難のしもべであるイエスのこの叫びはなんと聞き入れられたと書いてあります。ただ、すぐにでも、人間の想像している仕方ででもなく、神の知恵による形で聞き入れられました。

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メッセージ - B年 四旬節

今日の朗読では、次の文が一種のキーワードとなるのではないでしょうか。

「キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれました。
そして、[…]御自分に従順であるすべての人々に対して、永遠の救いの源となりました。」

ここでは二つの従順について語られています。完全なイエスの従順、とそれに学びあやかる私たちの従順。厳密に言えば、イエスが私たちのために神に「従う者となって」くださった(フィリ2:8)からこそ、私たちも神に従うことができます。直接ではなくて、(神を具現する)イエスに従うことによって、実は神に従うのです。私たちにはイエスを抜きにして神を拝んだり、神を賛美したり、神に祈ったり、神に従ったりすることは不可能です。しかも、イエスの従順を真似るのではなく、極みまで従順だったイエスと共に神に聞き従うということに招かれています。

イエスの招きに相応しい従順というのは、第1朗読でも触れられていた「古い法」のような外から課せられ、義務として与えられたものではありません。イエスの生きていたような「[神を]畏れ敬う態度」とは、心に刻まれた、誰も命じなくても自発的に為される態度です。何をするかを理解し、従順を求める人をよく知っていることが前提です。イエスと共に神に聞き従うことはただの義務や強制ではなく、愛されていることを意識した愛の行為なのです。そして、その結論として、イエスに従うことは同じ論理でいえばイエスが遣わす人に従うことにも繋がります。しかし、昔も現在もやはり教会においても民主化を求める人が絶えません。従順という非常にキリスト教的な徳がどこかに消えたようで、最後に残ってしまうのはただそれぞれの意見でしかないのではないでしょうか。

イエスが福音においても自分自身に対して求めている姿勢は、自分に仕えることでも、自分の仲間であることでも、自分と交流や意見交換をすることでもなく、「自分に従うこと」でした。すなわち、「わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる」と。そこから、神との関係に生き、やがて神の家に住むためには、イエスと基本的に同様に(形はいろいろあっても)一粒の麦として地に落ちて、死に、またイエスに結ばれて再び芽生えるしかないことが分かります。

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メッセージ - B年 四旬節

第一朗読 : 歴代誌下36, 14-16.19-23

歴代誌下の著者は「なぜエルザレム神殿が壊されたか」と「なぜバビロニア捕囚の時代になったか」という質問に答える時、ユダヤ教の信者の無信仰と不正義的なやり方が理由であるということを示した。しかし、ペルシヤの王クロスの命令(バビロニアに入るユダヤ人たちはエルザレムへ戻ることができるという命令)が歴代誌下の著者にはイスラエル国民を救うための神の業だと捉えられた。

第二朗読 : エフェソ2, 4-10

キリスト者にとって救いは神の業である。救いは、信仰によって神からただでもらった恵みである。このただの恵みの泉は神の愛である。人間に対する神の愛の形は、イエスを使って行った業である(すなわち受難と復活)。

福音朗読 : ヨハネ3,14-21

人間に対する神の愛に限りはあるか。福音者ヨハネは、神の愛には限りがないと考えた。神が自分の御子をこの世に遣わす理由は、事実の証明ではなく愛であった。神が自分の御子をこの世に送る目的は、裁きではなく救いである。

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