メッセージ - B年 年間

朗読:

第一朗読 箴言9:1-6

第二朗読 エフェ5:15-20

福音朗読 ヨハ6:51-58

今週の福音朗読も引き続き命のパンをテーマとするヨハネ6章の箇所が読まれます。イエスは5千人のためにパンを増やして、彼らが満腹するまで食べさせました。翌日、再び集まってくる群衆にイエスは命のパンについて話されました。人々に与え食べさせたパンはただのパンではありません。イエスが与えたパンはイエス御自身、御自分の体であることを人々に教えられました。

興味深いことに、命のパンについて話す時に、イエスは生々しい言葉を使っています。イエスが与えるパンは自分の「肉」であると言っておられます。「はっきり言っておく、人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。私の肉を食べ、私の血を飲む者は永遠の命を得る」(53節)。これは、決して聞き流せる言葉ではありません。この言葉を聞いた多くの弟子は「実にひどい話だ。誰が、こんな話を聞いていられようか」。そのために、多くの弟子はイエスを離れ去りました。その後のことはご存じのように、イエスは弟子たちに「あなたたちも離れていくのか」と問われました。イエスの問いに、ペトロは「主よ、あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。私たちは誰のところへ行きましょうか」。この言葉は、ご聖体の前に私たちも繰り返している言葉です。

ここでイエスは「私の“肉”」と言う時に、ギリシア語の「サルクス」という言葉を使いました。サルクスは「肉、肉体」という意味です。しかし、この言葉には軽蔑的でマイナスの意味が含まれています。「サルクス」と言う時の「肉体」は弱く、病気になる、死んでいく、腐っていく、不完全な肉体、罪を犯す体を意味します。イエス自身は、罪を犯したことがありません。しかし、イエスがわざわざここでサルクスという言葉を使うのは意図的だということが言えます。イエスは何を強調しようとしておられるのでしょうか。

新約聖書の中で、「キリストの体」と言う時に、それは三つのことを指している——1イエスのこと(マリアから生まれ、十字架につけられて死に、復活した体);2ご聖体のこと;3教会のことを指します(パウロが強調しているように、教会がキリストの体である)。イエスが天に上げられた後も、キリストの身体は、ご聖体と教会共同体を通して今もなお生きているということです。つまり、イエスは「私の肉」と言う時に、それは生身の人間からなるご自分の身体、教会共同体をも暗示しているということです。

ですから、ご聖体をもらいに行く度に、司祭が「キリストの身体」と言って、「アーメン」と答えますが、その「アーメン」は、十字架上に付けられたイエスの体に対する「アーメン」と同時に、もう一つのキリストの体、教会共同体、つまり、お互いに対する「アーメン」でもあります。永遠の命を得るために、イエスの御体と同時に、生身の人間からなっている教会共同体、それぞれ弱さを抱えている私たちがお互いのことをも受け入れる、認める、いただく必要があるということです。神様との個人的な関係を持っていると断言しても、実際に他人を受け入れることができない人は、本当の意味での「キリストの体」を食べたとは言えません。これこそがイエスが要求する最も難しいことです。多くの人がイエスから離れていく理由ので はないかと思います。

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今日の朗読では、面白い違いに気づくことができます。それは、第1朗読の預言者エリアの行動パターンと、第2朗読の記者が勧めている生き方の比較です。エリアは無意識のうちに他の人より優れたものになりたかったことが伺われます。先祖より、あるいは同時代の他の預言者に勝るものになることを目指していたと考えられます。他人との比較が私たちの動機付けであるならば、ほとんどの場合エリアのように落胆、挫折で終わってしまいます。

それに対して、エフェスの教会への手紙によると、私たちの生き方を鼓舞するものは、神に倣うものになること、言い換えれば、いかにも神の子供らしく神の真似をすることでなければなりません。それは他の人より完璧であるかどうかは別として、一人ひとり神から望ましい生き方を学び、他の人のためにとか、他の人のようにとか、他の人に褒められるためにではなく、神と共に生きるように訴えられています。ちなみに、この「真似」というのは猿のような真似事ではなく、やはり一人ひとり自分独自の仕方で実現させるクリエイティブな生き方を指しています。

最後の、福音ではそれがどう表現されているかを見てみますと、「自分の命」でも「何かのための命」でもなく、神との命、神の命、すなわち永遠の命というふうに表されています。キリスト者が目指しているはずの生活というのは、神によって養われ、神の力に動かされているものでなければなりません。その手段は色々与えられていますが、中で最高位を占めているのは、やはりご聖体の秘蹟なのです。しかも、ここでいう「永遠の命」はただの死後の限りない命を指しているだけでなく、もっと広く今から始まる豊かな命であり、まさに何かのために捧げる命でもなければ、誰かのような誰かよりも完璧な生活でもありません。むしろ、神と共に、神によって生きる神の命に他なりません。

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今日の三つの聖書朗読は、私たちを本当の意味で人間らしく生かすものは何なのか、を考えさせる箇所です。

第一朗読の出エジプト記(16:24,12-15)では、荒れ野で食べ物が思うように得られない状態で、「奴隷でもエジプトにいればパンを腹一杯食べられたのに」と不平を声を上げるイスラエルの人々の様子が描かれています。彼らに対して、主なる神はモーセに「あなたたちは夕暮れに肉を食べ、朝にはパンを食べて満腹する」と伝えさせますが、それは「あなたたちはこうして、わたしがあなたたちの神、主であることを知るようになる」ためでした。食べる物があるかないかだけにとらわれていた人々に、食べる物、必要なものを与えられる神に心を向けることが大切なのだと知らされます。

第二朗読の使徒パウロのエフェソの教会への手紙(4:17,20-24)では、キリストのことを知ったのなら、それにふさわしい「新しい」生き方をするように、と促されています。イエスの内にある「真理」を知ったのなら、その真理のうちに生きなさい、という教えです。

ヨハネ福音書(6:24-35)では、第一朗読と似たような状況が描かれています。パンを食べて満たされた群衆は、腹を満たす食べ物を求めてイエスのもとに押し寄せてきます。けれども、イエスは、ご自分を命を与える天からのパンとして示します。パンを食べて満足するのではなく、そこに神の業、神の恵みを見出すことを求められます。

毎日の食べ物は生きるために欠かせないものです。けれども、自分の腹を満たすことだけに一生懸命になって、その食べ物を食べることができるようにしてくれている人々への、そして私たちを生かしてくれている神への感謝を忘れないようにしたいと思います。その時、私たちは、飢えている人、生きるのに精一杯で困っている人への思いを持つことができるでしょう。


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それぞれのテーマにそって聖書箇所を覚えるのは難しいです。しかし、イエスが五つのパンと二匹の魚を増やして5千人を満腹させる箇所というと、ヨハネ福音書の6章だとすぐ言えるほど印象的な物語です。またこのパンの増加という出来事につても他の三つの福音も語っているため、イエスの言動の中にこの物語の位置づけは重要だと分かります。


実にパンの増加というこの出来事の重点はどこにあるかについての解釈は様々です。中では、この物語から倫理的な教えを引き出すことがかなり多いです。たとえば、長い時間で自分ご自身に従ってきて、疲れてきった飢え渇く人々に対してイエスのように憐れみと関心を持つ大切さとか、もしくはイエスご自身が不思議なわざをなさったより、むしろ、互いに分かち合うことによってまことの奇跡が起こったということで、分かち合いの精神を強調することとか。さらに、残ったパンの屑を集めるように命じられたことで無駄遣いのない心がけを強調することも出来るでしょう。などなどです。


確かに、病に悩んでいる人々や死にかかっている人々、貧しい人々に対して何らかの具体的な形で手の差し伸べる大切さは言うまでもないのです。福音書の物語の中で、イエスが会衆のために、奇跡をよく行いました。しかし、そういった不思議な出来事をもってこの世のあらゆる不治な人間の病をいやしたり、ただ物質的に日ごろの食事の課題を解決したりするより、もしろ、それらの言動をもって神の国の到来、メシアの時代の開始を告げ知られるためです。特に、ヨハネの福音書の場合、イエスの行った不思議な出来事は「奇跡」よりも「しるし」と呼ばれるものです。


「しるし」には二つの機能があります。一つ目は「しるし」と言えば、何かのヒントをもたらすものです。このパンの増加の出来事においては、イエス・キリストこそが溢れるほどのパンをもって飢え渇く民を養ってくださる救い主であるというヒントは人々の前に置かれています。この物質的なパンをもってイエスは徐々に自分ご自身こそが神に飢え渇く者を満腹させる永遠のパンだと民に示していきます。「しるし」のもう一つの機能は、「しるし」そのものがそれらを見聞きしている者に対して何か具体的な誘いをするものです。つまり、見る人々はその「しるし」に対して応答するよう招かれているのです。しかし、当時の群集はこのしるしを見てもなかなかそのヒントを読み取ることが出来ませんでした。福音書によると、人々はイエスを王にしようとしましたが、決してイエスこそが預言された救い主だという理由よりも、むしろ、ただのパンで満腹したからです。


人の失敗を笑ってはいけませんが、人の失敗から学ぶことが出来ます。聖霊の助けを願いながら、聖書の中で、また日々の生活の中でイエスの示してるしるしをよく読みとって、それらの招きに対して日々をもって答えることができますように。アーメン。

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朗読:

第一朗読 エレ23:1-6

第二朗読 エフェ2:13-18

福音朗読 マコ6:30-34


時代によって、または国や文化によって理想的なリーダーは若干違うかもしれません。しかし、どの時代や社会においても理想とされるは、人々のことを最優先するリーダーです。聖書は繰り返しイスラエルの理想の指導者について語っています。イスラエルをエジプトから導き出したモーセ;士師として活躍したサムソン、イスラエルを偉大な王国として建てたダビデ王など、多く指導者が登場しました。しかし、モーセやダビデのような偉大な人物でさえ、それぞれにリーダーとして不届きなところがあります。それでも神はイスラエルのために理想の牧者がやがて登場することを約束し続けました。「みよ、このような日が来る、と主は言われる。わたしはダビデのために正しい若枝を起こす。王は収め、栄え、この国に正義と恵みの業を行う」。

預言者エレミヤがこれらの言葉を語ってから約六百年後にその日が来ました。「主は我らの救い」という名の牧者、「イエス」が民の前に現れました。ダビデのための正しい若枝は、ダビデよりも遥かに偉大な方です。彼はダビデのように敵を倒すために民を率いるのではなく、「御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し」ました。彼はモーセのようにイスラエルの民に立法を与え、動物の地で契約を結んだのではありません。彼は、ご自分の血を持って「規則と戒律ずくめの立法を廃棄されました」。

エレミヤが語ったように、「主は我らの救い」という名の牧者、「イエス」は、群れを散らす牧者ではなく、迷い出る羊を見つけるまで探しに出かける良い羊飼いです。「イエスは船から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のない羊のような有様を深く憐れみ、色々と教え始められた」。理想の羊飼い、理想の指導者、理想のリーダーはいつも自分のもとに置かれている人々のことを最優先します。理想のリーダーは、自分の休み時間も、自分の健康状態も、自分の楽しみも、そして、自分の命さえも惜しまないということです。

エレミヤの口を通して約束された理想の羊飼いはイエスのこと、神御自身のことです。我々は皆、傷ついた羊、時に群れから外れる羊、誠の羊飼いを探し求める羊です。神の内に憩いの場所を見つけるまでは。

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