釈義 - C年 四旬節 |
第一朗読:ヨシュア5,9a.10-12
エジプトから逃げて四十年間も砂漠を旅するユダヤ人は、神に保護された民族であった。困難な時に、彼らが生活できるように神から水、マナ、肉を貰った。その業の意味は、自分では出来ないことを神から貰うということである。
しかし、約束された地方に入った後、ユダヤの国民は自分で働いて生活できるようになったので、必要でなくなった神からの保護は止まってしまった。人間は自分で出来ることは自分でするはずだということが神の御旨である。
第二朗読:二コリント5,17-21
第二朗読の言葉は理解しにくいであろう。まず神は人間を愛するがゆえにこの世に御子を送り、罪を許すために必要な捧げ物として与え、死者から復活させた(5、19.21)。復活したイエスはすべての人間の主として人間を神と和解させた。パウロによれば、イエスは人間を救うための神の業である。というのは、イエスによって神は自分の救いの計画を完全にしたのである。イエスを信じている人々は神と平和がある人間である。パウロにとって神と行動するというのは、イエスを信じることである。
福音朗読:ルカ15,1-3.11-32
神はご自分で造られた人間を愛する神である。再び人間が神と一緒にいることが出来るように、神が救いの計画を完全にした。悔い改める心を持っている人はいつも神に戻ることが出来、神から犯した罪を許される。人間に対して神の愛は人間の罪より力がある。それが今日の福音書の基本的な教えである。
メッセージ - C年 四旬節 |
「すると、父親は言った。『子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。』」ルカ 15:31
ファリサイ派の人たちは、一生懸命に神の掟を守るように努力しましたが、自分たちほど掟を守っていないと思った人を軽蔑したりして、罪人に対する優しい態度をとることによっていつくしみ深い神の愛を現していたイエスまでを批判しました。最終的に彼等はイエスを憎んで、イエスを排斥することによって、神の子が伝えた神の招きと共に神ご自身の愛を拒んでしまったのです。
考えてみれば、人間から愛しか求めておられない神が私たちに掟を守って欲しいと望んでおられるのは、私たちが罰に対する恐れや何らかの報いの意欲のために忠実な奴隷になるためではなく、愛に満たされた神の子になるためなのです。神が求めておられるように生き、神が示してくださった道を歩む人は、必ず父である神がいつくしみ深い方であるように、いつくしみ深い人になるのです。ですから、他の人に対する無慈悲な態度をとり、自分の行いに頼る律法主義者になっていたファリサイ派の人たちは、掟を守っているように見えても、実際に神がこの掟によって示してくださった道を歩まなかったということが分かります。
私たちは、ファリサイ派の人たちのように正しく生きようとしていても、神を愛するようにならずに、神と共にいることが私たちにとって何よりも大きな喜びにならないならば、例え神の国に入ったとしても幸せにはなりません。なぜなら、神の国というのは、食べたり飲んだりすることや他の手段によって体の感覚を喜ばせるところではなく、神と共にいて、神の愛と命にあずかる状態であるからです。
私たちは、イエス・キリストと共に生き、イエス・キリストがご自分の言葉と行いを以て示してくださった道を歩むことによって、神の愛といつくしみをますます深く知り、神に対する信頼と神との愛の交わりを深めることができますように祈りましょう。
主日の朗読聖書 - C年 四旬節 |
ルカ13・1-9
1ちょうどそのとき、何人かの人が来て、ピラトがガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜたことをイエスに告げた。2イエスはお答えになった。「そのガリラ ヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い者だったからだと思うのか。3決してそうではない。言っておくが、あなたがたも 悔い改めなければ、皆同じように滅びる。4また、シロアムの塔が倒れて死んだあの十八人は、エルサレムに住んでいたほかのどの人々よりも、罪深い者だった と思うのか。5 決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。」
6そして、イエスは次のたとえを話された。「ある人がぶどう園にいちじくの木を植えておき、実を探しに来たが見つからなかった。7そこで、園丁に言っ た。『もう三年もの間、このいちじくの木に実を探しに来ているのに、見つけたためしがない。だから切り倒せ。なぜ、土地をふさがせておくのか。』8園丁は 答えた。『御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。9そうすれば、来年は実がなるかもしれません。もし それでもだめなら、切り倒してください。』」
主日の朗読聖書 - C年 四旬節 |
テーマ :救いの計画
第一朗読 出エジプト3,1-8a. 13-15
神はモーセに仰せられた。「わたしは、『わたしはある』という者である。」また仰せられた。「あなたはイスラエル人にこう告げなければならない。『わたしはあるという方が、私をあなたがたのところに遣わされた』と。」 (Ex 3:14 JAS)
第二朗読:一コリント10,1-6.10-12
みな同じ御霊の食べ物を食べ、みな同じ御霊の飲み物を飲みました。というのは、彼らについて来た御霊の岩から飲んだからです。その岩とはキリストです。 (1Co 10:3-4 JAS)
福音朗読:ルカ13,1-9
番人は答えて言った。『ご主人。どうか、ことし一年そのままにしてやってください。木の回りを掘って、肥やしをやってみますから。もしそれで来年、実を結べばよし (Luk 13:8-9 JAS)
釈義 - C年 四旬節 |
第一朗読 出エジプト3,1-8a. 13-15
神がご自身をモーセに現わすまで、ユダヤ人たちは彼らの先祖たち(アブラム、イサク、ヤコブ)が神を信じていたということだけを知っていった。モーセが尋ねた質問には非常に深い意味がある。神の名は何かという質問の事実上の問いは、先祖たちの神がどんな神だったのかということと、本当にその神が存在するのかということである。ヤコブの死後四百年後や、奴隷の生活を強いられた時など、この質問がユダヤ人にとって大問題となった。モーセに与えられた答えは、「わたしはある」という表現である。その意味は、神が昔の方ではなく現在も存在する方であり、かつてユダヤ人の先祖を救われた方だからこそ今もユダヤ人を救われる方だということである。神を信じている人は神の業を見て神を知ることになる。
第二朗読:一コリント10,1-6.10-12
第二朗読の言葉はキリスト者に対する一つの厳しい教えである。それは、キリスト者になることだけでは足りないということである。キリスト者になった人にはキリスト者らしい信仰の道を歩む義務がある。この教えを証するのは、モーセの時期に神に反対するユダヤ人に対してされたことである。
福音朗読:ルカ13,1-9
福音書の言葉によれば、すべての人々は回心する必要がある。回心というのは神の御旨に反対する自分の考え方や生き方を変えることである。それをしていない人は突然に亡くなる。「突然」とは、準備が出来なかった人のことである。ピラトに塔で殺された人々は突然に亡くなったので罪のうちに亡くなった。だから彼らの将来は不安である。
イエスの言葉によれば、神はすべての人に回心するための十分な時間と恵みを与えられる。