釈義 - C年 祭祝日 |
テーマ :神の恵み
第一朗読:サムエル上1,20-22.24-28
サムエルの誕生は奇跡であった。アンナは年をとった女性であったので、アンナにとって神からいただいた者は神の者である。子供の頃から神殿で育ったサムエルは、その後偉い預言者になった。神に最後まで従った。イスラエルの十二の部族が士師的な政治制度から王国的な政治制度に移行したのは、サムエルの時代になってからのことである。
第二朗読:コロサイ3,12-21
コロサイ3,12-21の言葉は、キリスト者としてこの世に生きている間どんな道を歩くべきかという説明をする部分である。まず、キリスト者は許された人であるから、いつも他の人を許すべきだという教えである(3,12-13)。これは社会的な教えである。次に、心の中に愛、平和、知恵を備えるのに必要な、自分なりの教育をするべきだとする教え(3,14-17)。これは個人的な教えである。そして最後に、家族の関係をどのように律するべきかということを説明している(3,18-21)。これは世帯的な教えである。キリスト者として信仰だけではなく、キリスト教らしい毎日の生活をすることを伝えている。
福音朗読:ルカ2,41-52
家族の生活の中でお互いに人間関係の問題がある場合が多い。そのうち、両親と子供の関係は一つの問題である(2,48)。両親は子供のことをいつも心配するが、ときどき、子供の心や考え方が理解できない(2,50)。子供は自分の道を探す時に両親の心配を考えず(2,43-44)自分の夢の声を聞く(3,49)。しかし、お互いに理解できる時が来る。
メッセージ - C年 祭祝日 |
「イエスは言われた。「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか。」ルカ 2:48-49
イエスがその生みの母であったマリアに向かって語った言葉、例えば「わたしの母、わたしの兄弟とはだれか」・・・「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ。」(マコ 3:33-35)という言葉を読むと、イエスは孝行息子ではなかったとか、血の繋がりを大事にされなかったというような印象を受ける人がいるようです。
しかし、もしそれが事実であったならば、イエスは34年間の生涯の中の30年間も家庭生活をされたのでしょうか。決してそうではないはずです。やはり、人生の凡そ90%を家族にささげたイエスは、家族の生活は非常に大事であるということを示したと思います。
考えてみれば、非常に多くの場合は、血の繋がりがあっても、犬猿の仲の関係に生きる人が多くいます。自分の野心や欲望を優先して自分の子どもに対する責任を怠ったり、または子どもを虐待したりする親がいたら、自分の両親を敬わずに、ただのいろいろな援助や資金の源としてしか見ない子どもも沢山います。家族の中でいろいろな問題が世代から世代へと伝わることも珍しくありません。
イエスが聖母マリアに語った言葉によって、血族関係が大切であっても、何よりも大事なのは、神との関係であるということを教えています。神は、私たちの幸福を妬むような恋がたきではなく、すべての人が互いに愛し合うことを求めておられる天の父であり、愛の源です。ですから、神との関係を何よりも大切にするということは、他の人間関係を犠牲にするということではなく、神から真の愛をいただくことによって血族関係を含め、あらゆる人間関係を癒していただくということなのです。
主日の朗読聖書 - C年 待降節 |
ルカ1・39-45
39そのころ、マリアは出かけて、急いで山里に向かい、ユダの町に行った。40そして、ザカリアの家に入ってエリサベトに挨拶した。41マリアの挨拶をエ リサベトが聞いたとき、その胎内の子がおどった。エリサベトは聖霊に満たされて、42声高らかに言った。「あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子 さまも祝福されています。43わたしの主のお母さまがわたしのところに来てくださるとは、どういうわけでしょう。44あなたの挨拶のお声をわたしが耳にし たとき、胎内の子は喜んでおどりました。45
主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」
主日の朗読聖書 - C年 待降節 |
テーマ : きょうダビデの町に、あなたがたのために救主がお生れになった
第一朗読:ミカ5,1-4
しかしベツレヘム・エフラタよ、あなたはユダの氏族のうちで小さい者だが、イスラエルを治める者があなたのうちから/わたしのために出る。その出るのは昔から、いにしえの日からである。 (Mic 5:2 KOG)
第二朗読:ヘブライ10,5-10
この御旨に基きただ一度イエス・キリストのからだがささげられたことによって、わたしたちはきよめられたのである。 (Heb 10:10 KOG)
福音朗読:ルカ1,39-45
主のお語りになったことが必ず成就すると信じた女は、なんとさいわいなことでしょう」。 (Luk 1:45 KOG)
釈義 - C年 待降節 |
テーマ : きょうダビデの町に、あなたがたのために救主がお生れになった
第一朗読:ミカ5,1-4
預言者ミカはモレセト市に住んでいたが、宗教的な活動はエルサレムでした。彼はイザヤ,ホゼア、アモスら預言者たちと共に(紀元前759-698)ユダヤ人の社会や宗教的な問題(ミカ2,2;6、11;ミカ3,5.11;ミカ5、12;ミカ1、7;ミカ1,8;8,11-13)を正すために強く批判した。しかし、彼の教えの中には慰め的な預言もある(5,1-3)。この第二朗読の言葉はユダヤ教にとってメシアに関する言葉である。キリスト教にとってはこの言葉はメシアとしてのイエスを表している。
第二朗読:ヘブライ10,5-10
第二朗読の言葉は「大祭司としてのイエス」という主題(4,14-10,18)が一つの部分である。一般的に言えば、ユダヤ教の教えにとって人間の罪を許すことができるのは、神だけである。ユダヤ教の律法では、罪が許されるためには、エルザレム神殿で捧げ物を捧げなければならない。ヘブライ人への手紙の著者とこの手紙の受取人たちはイエスを信じているユダヤ人であった。だから、ヘブライ人への手紙の言葉によれば、神のみ旨のとおりイエスは人間の罪が許されるように自分の命を捧げ物として捧げた。この捧げ物が完全な捧げ物である(10,10)。
福音朗読:ルカ1,39-45
ユダヤ人社会ではマリヤよりエリザベトの立場のほうが高かった。だから、マリヤは身籠ったエリザベトを助けるためにガリラヤのナザレからユダのベツレヘムまで危険な旅をした。マリヤのあいさつの後のエリザベトの言葉(1、43)が予言であった。社会的な立場が低い者の子供が社会的な立場が高い者とその子供の主になるからである。ルカによれば、エリザベトはこの予言を聖霊の力のうちに語った。ルカの書物では聖霊の力がすべての正しく不思議な業の理由である。