メッセージ - C年 四旬節 |
「木の周りを掘って、肥やしをやってみます。
来年は実るかもしれません。」(ルカ13,8-9)
神の似姿として造られた人間は、罪によってその本性に傷がつけられているから悪へと傾いています。教会はこれを「原罪」と言います。人類には原罪について責任がありますが、弱さのために誘惑に負けたりする一人ひとりの私たちは、場合によって罪の犠牲者にすぎません。世間生活の中で愛がとても不足しているので、多くの人は善人として生活したいと思っていても、それを失敗することが多いのです。人を癒してくださったイエス様は度々、「あなたの信仰があなたを救った」と言っています。信仰によって、神御自身が私たちの内に働き、私たちはキリストとの一致の内に慈しみと愛をもって悪に打ち勝つことができるのです。
きょうの福音の中で、いちじくの木の例えを用いて教えるイエス様は、神様の働きを保証すると同時に、私たちの信仰を問いかけています。中東地域で年に4回も実を結ぶいちじくの木は、神の恵みと肥沃のしるしです。春には甘くとても良い実を結び、秋の収穫は割れて腐った質の悪いものが殆どです。したがって、聖書の中でいちじく木は人生の両面、神の似姿としての本性と同時に人間の堕落を表現します。いちじくの木の例えの中で、ぶどう園の御主人様は(父なる)神様で、園丁はキリストで、いちじくの木は私たち一人ひとりのことです。
ぶどう園では、実を結ばない木や枝を切り倒されます。同じように私たちは、もし実を結ばないなら滅びます。人間の本性にある傷を癒すために救い主イエス・キリストが来られました。善い実を結ぶように、園丁がいちじくの木の周りに土をおこしたり、肥やしをやったりすると同じように、キリストは、私たちが永遠の命の実を結ぶように愛の肥料となって、御言葉をもって頑な心を柔らげ、御受難と復活をもって秘跡の内に御自身を私たちのために永遠の命の糧となりました。
神様が人となって私たちを死に至るまで愛し抜かれたから、キリストの復活に与る弱い私たちは悪に打ち勝ち、キリストの愛を「樹液」にして良い実を結ぶことができます。これこそは生きた信仰生活です。それでも実を結ばない人は、罪の犠牲者であると言うことよりも、自らキリストの愛と救いを拒んで悪を選んだ者として自分の罪について責任を負うものなります。
四旬節は神様が私たちの心を掘って愛の肥料をたくさん与えられる恵みの時です。今、神に立ちかえれば、愛と永遠の命の豊かな実を必ず結ぶことでしょう。
主日の朗読聖書 - C年 四旬節 |
ルカ9・28b-36
28b[そのとき、] イエスは、ペトロ、ヨハネ、およびヤコブを連れて、祈るために山に登られた。29祈っておられるうちに、イエスの顔の様子が変わり、服は真っ白に輝いた。 30見ると、二人の人がイエスと語り合っていた。モーセとエリヤである。31二人は栄光に包まれて現れ、イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期 について話していた。32ペトロと仲間は、ひどく眠かったが、じっとこらえていると、栄光に輝くイエスと、そばに立っている二人の人が見えた。33その二 人がイエスから離れようとしたとき、ペトロがイエスに言った。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つ はあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」ペトロは、自分でも何を言っているのか、分からなかったのである。34ペトロがこう 言っていると、雲が現れて彼らを覆った。彼らが雲の中に包まれていくので、弟子たちは恐れた。35すると、「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」 と言う声が雲の中から聞こえた。36その声がしたとき、そこにはイエスだけがおられた。弟子たちは沈黙を守り、見たことを当時だれにも話さなかった。
釈義 - C年 四旬節 |
第一朗読:創世記15,5-12.17-18
第一朗読の言葉はヤハゥエスト (J資料)の伝承を伝えている(創15,1-21)。年取ったアブラムが神の約束通りのことが起こらない(創15,1)という不安を感じている時に、神は彼に再び約束するだけではなく彼と契約をする(創15,18)。この契約によって神はアブラムに約束の地と子孫を与える(創15,4-6)。変わりに、神はアブラムから何も望んでいない。この種の契約は父と息子のような種類のものである。
第二朗読:フィリピ3,17-4,1
フィリピのキリスト者が信仰を守ることを精一杯続けているようにパウロはこの手紙を書いた(1,27)。フィリピのキリスト教信者にはさまざまな問題があった、そのうち最も危ないものは、あるキリスト者のやり方であった(3,17-19)。というのは、洗礼を授けられた人たちだけれどもキリスト者らしい生活をしていないのである。彼らは宗教的なことよりこの世の考え方や振る舞いに関心を寄せた。それは危ないことであった。キリスト者の義務は自分の信仰に簡単な生活で証することである。
福音朗読:ルカ9,28b-36
すべての共観福音書には「主の変容」という物語があるが、それぞれ異なる部分がある。マタイによる、「主の変容」の目的はイエスがメシヤであるということを表すことである。マルコによる、「主の変容」の目的はメシヤの秘密を表すことである。ルカによる、「主の変容」の目的は、イエスが祈りの内に自分の受難について啓示することである。しかし、すべての共観福音書において、最も大切な教えは同じである。それは、「これは、わたしの愛する子、わたしの選んだ者である。彼の言うことを聞きなさい。」ということである。イエス自身を証するのは、イエスではなく神ただ一人である。
メッセージ - C年 四旬節 |
「すると、「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」と言う声が雲の中から聞こえた。」ルカ 9:35
よく祈る人は、安らぎや大きな喜び、また、神の愛や神の臨在を体験したことがあるはずです。恐らく、そのような体験をしている人は誰でも、少しでも長くそれを味わいたい、少しでもこの時間を伸ばしたいと望んでいるのではないかと思います。素晴らしい体験を与えられて、仮小屋を三つ建てようとしたペトロは、同じようにこの体験を手放したくなかったでしょう。けれども、この素晴らしい体験を与えた神は、ペトロに仮小屋を建てることを許したのではなく、イエスに聞き従うように命じたのです。
確かに、父である神が私たちにくださる賜物を喜んで受け入れて、それを心から楽しむことは良いことです。けれども、この賜物を自分の物にしたり、それを自分の楽しみや欲望を満たすために使ったりしてはなりません。なぜなら、その時、この賜物はその与え主が求めるような実を結ぶことができないだけではなく、私たちに害を与えることもありえるからです。
神が私たちにいろいろな賜物を与えてくださるのは、御自分の栄光と御自分の愛を表すことによって、私たちの信仰、希望と愛を強めるためです。こうして強められた私たちが神の愛する子であるイエスに忠実に従うことができるようになるのです。神の賜物を楽しむのではなく、イエスに従うことが一番重要なのです。なぜなら、それによってだけ、私たちは少しずつイエスの姿に変えられ、イエスと同じように神の心に適う神の子になるからです。最終的に、イエスのように神の心に適う神の子になるということは、私たちが創造された目的であり、私たちにとって最高の幸福、しかも永遠に続く幸福なのです。