釈義 - C年 年間

第一朗読 エレミヤ1,4-5.17-19

第二朗読の言葉は、神がエレミヤを預言者として活動させるために選んだということを表している。エレミヤは紀元前626年から亡くなる時までこの仕事をした。彼が活動をした時期はユダヤ人の国民(南王国)にとって非常に苦しい、王国を失った時期であった。エレミヤは人として心の優しい人物であったと思われている。しかし、預言者として神の御旨のとおり、王たちと南王国のエリトーに対して激しく反対をしなければならなかった。エレミヤの心の中で彼の性格と彼の義務は最初から最後まで戦っていたが、エレミヤは神の御旨を行う道しか歩いていなかった。

第二朗読:一コリント12,31-13,13

「愛の賛歌」と呼ばれている一コリント12,31-13,13の部分は一致が無いコリントの原初キリスト教を議論するパウロの最も大事な教えである。コリントのキリスト者たちは妬み、党派心、謗り、高慢の霊の内に強く議論した。この議論の中には社会的な問題(1コリ11,1-34)と宗教的な問題(1コリ12,1-30;14,1-40)があった。「愛の賛歌」は宗教的な問題に関する部分の中心である。パウロにとって「愛」こそが全てに勝る道である(1コリ12,31)。コリントのキリスト者はこの道を歩いて行く筈である。

この中には三つの文書がある:愛が無い人の価値(13,1-3);愛の業(13,4-7);真実的な愛(13,8-13)。

福音朗読:ルカ4,21-30

イエスは父を愛し、人間を愛する。そのため人間に恐れられることはなかった(ルカ4,28-30)。世論より真実を言う、神の御旨を行うことがイエスの業であった。信仰を持っていない(イエスを信じていない)ナザレの人々は奇跡を見たがったが奇跡を行うためには信仰が必要である。ユダヤ人ではないけれども信仰を持っている人々は奇跡を見た(4,15-27)。ユダヤ人ではあるが信仰を持っていない人々は奇跡を見られなかった。

 

 
メッセージ - C年 年間

「この聖書の言葉は今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した。」(ルカ4,21

 

イエス・キリストは育った町ナザレにお帰りになって、神の言葉を伝えていたが、ナザレ人はイエス様の説教を聞き入れられず、憤慨して彼を山の崖から突き落とそうとしました。なぜ、ナザレの人々はこのような心を持つようなったでしょうか。

「この人はヨセフの子ではないか」と言っていたナザレの人々は、イエス様を神の子としてではなく、神から遣わされた方としてでもなく、自分たちが育てた「息子」として迎えたということを証明しています。「医者よ、自分自身を治せ」という表現は、ナザレの人々がキリストを裏切り者として見なしていたということを語ります。イエス様が病気を癒す力を持っていたなら、先に自分の故郷ナザレの病人を癒すべきだったと思い込んでいたからです。もし、イエス様がナザレの人々に誉め言葉ばかり話したり、お世話になったことを感謝したり、どの町よりもたくさんの奇跡を行ったりしたならば、彼らはイエス様のことを自分の誇りにして、あつく歓迎したに違いありません。

しかし、イエス様は預言者のように神様の威厳をもって福音を宣べ伝え、み言葉を信じて悔い改めることを条件にして病人を癒してくださいました。御自分について記されているイザヤの預言が、「きょう、あなたがたが耳にしたとき、実現した」とイエス様は知らせています。しかし、ナザレの人々は生き方を変えたくなかったから、イエス様を信じようとしなかったのです。

私たちは、御ミサの中で、ナザレ人のような心でみ言葉を聞かないように注意しなければなりません。御ミサの神の言葉の祭儀の中にある聖書朗読と説教は、神体験の古い話や司祭が考えていることだけではありません。むしろその時、神御自身が私たちの一人ひとりに語りかけています。キリストが今日の福音の中で強調しましたように、私たちはそれを耳にしている時にその言葉が実現し、キリスト自身も現存します。み言葉に応えて生きたくないならば、私たちもナザレの人々のように、心の空洞が作る「崖」からキリストを突き落とそうとしているかもしれません。

 
主日の朗読聖書 - C年 年間

ルカ1・1-4、4・14-21

1・1-2わたしたちの間で実現した事柄について、最初から目撃して御言葉のために働いた人々がわたしたちに伝えたとおりに、物語を書き連ねようと、多く の人々が既に手を着けています。 3そこで、敬愛するテオフィロさま、わたしもすべての事を初めから詳しく調べていますので、順序正しく書いてあなたに献呈するのがよいと思いました。 4お受けになった教えが確実なものであることを、よく分かっていただきたいのであります。
4・14〔さて、〕イエスは“霊”の力に満ちてガリラヤに帰られた。その評判が周りの地方一帯に広まった。15イエスは諸会堂で教え、皆から尊敬を受けられた。
16イエスはお育ちになったナザレに来て、いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった。 17預言者イザヤの巻物が渡され、お開きになると、次のように書いてある個所が目に留まった。

18「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、/主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、/捕ら われている人に解放を、/目の見えない人に視力の回復を告げ、/圧迫されている人を自由にし、 19主の恵みの年を告げるためである。」


20イエスは巻物を巻き、係の者に返して席に座られた。会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた。21そこでイエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた。

 
主日の朗読聖書 - C年 年間

テーマ :一つのキリスト教

第一朗読:ネヘミヤ8,2-4Aa.5-6.8-10

彼らが神の律法の書をはっきりと読んで説明したので、民は読まれたことを理解した (ネヘ8:8)

第二朗読:一コリント12,12-30

ですから、ちょうど、からだが一つでも、それに多くの部分があり、からだの部分はたとい多くあっても、その全部が一つのからだであるように、キリストもそれと同様です。 (1コリ12:12)

福音朗読:ルカ1,1-4;4,14-21

私たちの間ですでに確信されている出来事については、初めからの目撃者で、みことばに仕える者となった人々が、私たちに伝えたそのとおりを、多くの人が記事にまとめて書き上げようと、すでに試みておりますので、 (ルカ1:1)

 
釈義 - C年 年間

第一朗読:ネヘミヤ8,2-4a.5-6.8-10

ペルシア王国のキルス王の命令(紀元前538年)のおかげでユダヤ人はバビロニアからエルサレムに戻ることを許された。その目的はエルサレムとエルサレムの神殿を建て直すことであった。この仕事ができるようにキルス王は二人の責任者をエルサレムに送った。それはネヘミヤ(聖人的な部分の責任者)とエズラ(宗教的な部分の責任者)であった。エルザレム町の壁とエルサレムの神殿を建て直した後、エズラは宗教的な改革を始めた。ユダヤ教改革のもとになったのはモーセの五書であった。一般的に言えばその時代からユダヤ教はエルザレム神殿だけではなく聖書も中心にすることになった。第一朗読はこの時代に関する言葉である。

第二朗読:一コリント12,12-30

第一コリント使徒への手紙は、さまざまなキリスト者のグループが一致をもって一つのコリント教会作ることが出来るように書かれた書物である。このさまざまなキリスト者のグループはイエスの教えに従って互いに良い関係を作ること出来なかった。それの理由はコリントのキリスト者の間に妬みや争いがあったことである(1コリ 3、3)。さまざまな問題の一つに第二朗読の問題(誰の活がは最も尊いか)があった。パウロは身体のたとえを使って教会の統一について説明した。この説明の結論は、すべての活動の目的が唯一教会を作るためのものであるということである。

福音朗読:ルカ1,1-4;4,14-21

イエスはユダヤ教のラビとして旧約聖書の言葉を解釈した(4,16-21)。イエスの解釈の目的はすべての旧約聖書の予言がイエスによって完全になった(4、21)とすることである。イエスが自らの正体を説明するために使ったすべての議論は旧約聖書と関係がある言葉であった。実はイエスが既に存在しているという予言を新しく説明したのである。

ルカは自分の福音を書く前に必要な準備をした。それは、先に書かれた書物とさまざまな伝承の研究である。実際彼は自分の福音書の目的に当てはめるためにマタイによる福音書とマルコによる福音書の言葉を使った(1,1-4)。

神以外、誰もゼロからは始まらない。