メッセージ - A年 年間

第一朗読 イザ55:6-9

第二朗読 フィリ1:20c-24, 27a

福音朗読 マタ20:1-16

 

第一朗読に、預言者イザヤはバビロン捕囚からの救いの希望をイスラエルの民に伝えたが 、民は耳を傾けようとしませんでした。しかし、イザヤはくじけることなく、繰り返し民に改 心を呼びかけました。「主を尋ね求めよう、見出しうるときに」、「呼び求めよう、近くにい ますうちに」。更に、預言者は神に逆らう民にその道を離れ、悪を行うものにそのたくらみを 捨てるように回心を呼びかけました。そうすれば、神は民を憐れんで、彼らを赦してください ます。しかし、なぜ神の前に人間は自分が選んだ道、自分の思いを捨てなければならないので しょうか。それは、第一朗読の後半の部分にあるように、「私(神)の思いはあなたたちの思 いと異なり、私(神)の道はあなたたちの道と異なる」からです。「天が地を高く超えている ように、私(神)の思いはあなたたちの思いを高く超えている」からです。これは決して神は ご自分の意志を人間に押し付けているという意味ではありません。そうではなく、我が子を愛 と憐れみを持って正しい道に導こうとする神の思いの現われに他なりません。

イエスの「ブドウ園の労働者」のたとえ話は神の思いの高さと憐れみの深さをみごとに現 しています。同時に、人間の考えの儚さを示しています。一日働けば1デナリオンがもらえる という約束のであれば、一時間しか働かない人には1デナリオンから差し引いた賃金をもらう ことが当然だと思うのが人間の考えです。また、たとえ一日1デナリオンという約束の場合で も、一時間しか働かない人が1デナリオンをもらったのであれば、一日中働く人がそれ以上の 賃金を期待するのが当然だと思うのが我々人間です。一時間しか働かない人と一日中働く人が 同じ賃金をもらうことは不公平だと訴えるのは我々人間が考える正義を基準にしているからで す。しかし、たとえ話の中の主人、神、の判断基準は違います。一日中働く人には約束通りの 賃金を払います。そして、途中から、または一時間しか働かない人にはご自分の憐れみを持っ てその人に「ふさわしい」賃金を与えます。正に、神の思いは人間の思いと異なります。人間 は目に見えること、働く時間数で判断します。神は約束したことを守っていながら、その上に 一人一人がもっとも必要なものを憐れみを持って与えてくださるのです。

使徒パウロは、自分にとって「望ましい」ことと、多くの人にとって「最も必要なこと」 の間に板挟みになった時に、彼は自分の望みではなく、人々の必要性の中に現れる神の思い、 神の道を選びました。神の思いが人の思いをはるかに超えていることをパウロ自身は身を持っ て体験しているからです。神の思いによって、パウロは「月足らずに生まれた」(1コリ 15:8)ものにも関わらず神は計り知れない恵みを与えてくださるのです。そして、それはパウ ロだけではなく、我々一人一人は同じ恵みを日々いただいており、その憐れみによって生かさ れているのです。

 
メッセージ - A年 年間

愛には様々な形があります。先週はその厳しい面、つまり指摘を学ぶように招かれていました。人のためを思って、場合によってその人が聞きたくないことも言わなければなりません。愛に促されて。今日は、愛の違う側面、つまり赦しについて考えさせられています。キリスト者にとって本当に愛することは、うまくいっている時、お互い良いことをし合っている時だけの特権ではなく、いつどこでもの命法なのです。今日の福音のテーマです。

ちなみに、ゆるしを漢字で書くなら、「許し」ではなく「赦し」ですが、よく間違われています。他人の過ちを赦すことは、忘れて見過ごすこととか、無かったことにするとか、これからも同じようにさせてあげる(=許す)ことではなく、もっと深い行為です。言い換えれば他人を憐れむことです。その根拠はどこにあるでしょうか。何も必然的なことでもなければ、利益があるわけでもありません。(といっても、実は、赦すことは精神的に相手の教育・改心のためよりも、自分自身の癒しのために欠かせないのですが・・・)

赦さなければならないという理由はただ一つあります。神様もそうなさっているからです。正義の主であるにもかかわらず、寛容に富んでいます。福音では下役はただ返済の延期を願っていたのですが、主人は直ちに借金を全部帳消しにしました。これは下役にとって何ら期待できる権利ではなく、純粋は恵みでした。現在、誰が何の権利を持っているかと大声で呼ばわれていますが、それより大事なのは権利にもかかわらず人に親切をすることです。そうする時こそ、神様に似たものになることができます。しかし、「赦す」と「赦される」の間に循環がなければ、どちらも不可能です。

 
メッセージ - A年 年間

今日の福音では、兄弟に忠告すること、間違いを指摘することについて語られています。大切な兄弟だからこそ言うのが大事ですし、言葉を選ばず何でも言えるはずです。関係ない人であれば、わざわざ言わなくても良い、そしてもし言うなら、それは単なる喧嘩になりかねません。ところが、実際のところ親しい友達であればあるほど、人間は関係を悪くしたくないがために、何もきついことを言わないことを選びがちです。しかし、本当はお互い全てを言い尽くして、何も残さず話し合い、場合によっては揉め事も経て、関係は更に親しくなるのが事実です。本当の愛には場合によって厳しい顔、甘やかすだけでなく育てるべき自覚もあります。まさに、マザー・テレサが言ったように、愛の反対は憎しみではなく、無関心です。

面白いことに、この福音には言うことを聞いてくれない兄弟を呼んで、他の2人3人の前で改めて戒めるということが書かれているすぐ後に、祈っている2人3人の集まっているところにイエス自身がおられるということが書いてあります。この類似は偶然ではないでしょう。共同体での様々な人間関係には個々人の祈り、また共同の祈りが欠かせないのです。イエス様との親しい友情を持っている人々は、お互いも近づいていくことになります。現代、political correctnessすなわち偽物の寛容や尊重の名の下で相手に干渉しない、皆が自分のことを自分でやれば良いと思う態度が流行っています。しかし、相手の状況に気を配らず、自分の発展だけを考えること、それはキリスト教的な完全性から遠く離れています。

 
メッセージ - A年 年間

第一朗読で、神の言葉を告げたために迫害を受けたエレミヤは、神にその苦しみを訴えていますが、しかしそれにもかかわらず「あなたの勝ちです・・・私の負けです」と言って、神からの使命にその身をゆだねます。

第二朗読では、パウロが「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい」と語り、この世のあり方にではなく、神の御心に従うようにと勧めます。

福音朗読では、受難へと向かっていくイエスが弟子たちに「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と言います。

どれも、「私」「自分」の利己的な思いではなく、神の御旨を求め、自分自身をそのために献げ、主イエスの後に従いなさい、という呼びかけです。自分の中へ中へと集中して、そこだけに目を向けて、「私」にこだわるとき、周りの人の喜びにも悲しみにも苦しみにも気づくことができません。自分と他者との関わりの中で生きることができません。何が本当に正しいことかを見失ってしまいます。しかし、自分の中できつく握りしめた手のひらを、外に向かって開くなら、そこに神の恵みが働きます。

 
メッセージ - A年 年間

第一朗読 イザ22:19-23

第二朗読 ロマ11:33-36

福音朗読 マタ16:13-30


第一朗読の預言者イザヤに「私は、お前をその地位から追う。お前はその職務から退けられる」という言葉がありますが、この言葉の中の「お前」とは、当時イスラエルの宮廷を支配していたジェブナという家令のことを指している(22:15)。神はイスラエルを支配する権力を家令ジェブナから「ダビデの家の鍵」を支配するはずの王に与えます。残念ながら、22:25にあるように、その王の支配もやがては崩れ落ちるのです。しかし、それでも「ダビデの家の鍵」が失うことはありません。神の民は失望を味わっても完全に希望をなくしたことはありません。新しいイスラエルへの繁栄の希望はやがて「ダビデの子」イエス・キリストの到来によって成就されるのです。

イエスはカフィリポ・カイサリア地方でメシアとしての身分を弟子たちに確かめた後、ペトロに「天の国の鍵」を彼に授けられます。ギリシア・ローマ支配下の時代にフィリポ・カイサリアは神々や皇帝を礼拝する神殿が建てられた町として知られています。その場所で、「イエスこそがメシア、行ける神の子」だと信仰告白したペトロにイエスは天の国の鍵を与えました。ペトロはいろいろな場面で弟子たちの代表として登場する一方、イエスの裁判の時に三度にわたってイエスのことを知らないと否定した弟子でもあります。また、他の場面に、イエスはペトロに対して「信仰の薄い者よ。なぜ疑ったのか」と叱ったこともありました。それでも主はペトロに天の国の鍵を渡されたのはどういうことでしょう。

その答えは第二朗読の使徒パウロの言葉にあるのではないでしょう。人間にとっての不条理は「神の富と知恵と知識の深さ」の現われとなることが出来るということです。神は絶望の中にも希望を与えることが出来るのです。人が自分権力や富や能力だけを頼りにし、それらを神のようにすがる中で、神はいろいろな出来事を通してご自身こそが真の神であることを現すことが出来るのです。そして、神は人間の弱さを通してご自身の力を示すことが出来るということです。「ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか。誰が、神の定めを極めつくし、神の道を理解しつくせよう」と綴ったパウロ自身は自分がたどってきた道、またイスラエルがたどってきた歴史を振り返る時に痛感した真理のではないでしょうか。どんなことがあっても、すべてのものは神の富と知恵と知識の深みの中にいるということです。