メッセージ - A年 年間 |
今日の福音に見られる「地の塩、世の光」というフレーズは、聖書の中でもおそらく最も有名な言葉の一つではないかと思います。これは、やはり有名な山上の説教の中で、集まってきた民衆たち、社会的地位が高いわけでもなく、特別な教育を受けたわけでもない、ガリラヤに住む田舎の貧しい人たちに向けてイエスが語られたものです。
イエスは、「あなたがたは地の塩である」「あなたがたは世の光である」と言われています。「地の塩になりなさい」「世の光になりなさい」と言われているわけではありません。もう既に「地の塩」であり、「世の光」である、既に神の子として恵みを受けた存在である、そう言われています。
けれどもその一方で、単に地の塩であり、世の光であるのだからそれでいい、と言われているわけではありません。塩であれば、その塩味を効かせなさい、光であれば、その光を隠さないで周りを照らしなさい、あなたがいただいている恵みを使って、分かち合って、周りの人に天の父を示しなさい、と呼びかけられています。
私たちは愛され、恵みを受けているけれども、それでひとり満足していればよいのではありません。愛は分かち合うものであることを、イエスはその誕生から死に至るまで身をもって示して下さいました。私たちも「地の塩、世の光」とされていることに感謝しながら、その働きを喜んですることができますように。
メッセージ - A年 年間 |
(ヨハ1,29-34)
「水で洗礼を授けるためにわたしをお遣わしになった方が、『“霊”が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である』とわたしに言われた。」ヨハ1,33
洗礼者ヨハネは自分の使命を果たしてイエスを「世の罪を取り除く神の小羊」として紹介しました。この言葉は、救い主であるイエス自身の使命を表します。イエス・キリストが神によってこの世に遣わされたのは、すべての人々の罪を贖い、それを取り除くためなのです。これこそ福音、「喜ばしい知らせ」ですが、それを聞いても、全然喜ばない人が、特に現代は非常に大勢いるようです。おそらく、この人たちは、別にそんな悪いことをしていないし、他の多くの人よりも良い人間ですので、罪を取り除く救い主を全く必要としていないと考えているのではないかと思います。
けれども、罪を取り除く救い主を必要としているのは、強盗や殺人などのような犯罪を犯したりする人だけなのでしょうか。このことが分かるためには、イエスの使命を描く洗礼者ヨハネが神から言われた言葉の意味、つまり、「その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である」という言葉の意味を理解する必要があります。
誰かに聖霊によって洗礼を授けるというのは、この人を神の愛と神の命にあずからせることですので、イエスが取り除く罪とは、犯罪のことではなく、愛と命の源である神から離れて生きている状態のことなのです。したがって、罪を取り除くということは、神から離れて生きている人を神のもとに導くこと、神と和解させ、神との正しい関係をつくることなのです。
人間は、愛と命の源である神との正しい関係に入らない限り、いろいろな恐れや心配、また、執着や心の傷などによって左右されるし、愛に生きることができませんので、何の犯罪も犯したことがなくても、自分の心の最も深い望みに従って真の愛に生きることのできない人こそ、罪を取り除く救い主、すなわち、イエス・キリストを必要としているわけです。
メッセージ - A年 降誕節 |
イエスの誕生の次第を羊飼いたちから聞いた者は皆、「不思議に思った」とされていますが、それに対して「しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた」と言われています。このマリアの態度は、お告げの場面で天使ガブリエルの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ、というその時の態度にもつながるものです。神の働きに対して、「自分には関係ない」「どうでもいい」という無関心、でもなく、神の計画よりも自分の意思、個人的な望み、独善的な正しさを優先させるのではなく、不安や恐れや疑問があるとしても神の御旨を受け入れる態度です。神の望まれることが何かを完全に理解していないとしても(そして事実できないけれども)、それでも何が神の御旨なのかをいつも求め続ける、問い続ける、そういう信仰の生き方です。
降誕物語の中にも、同じメッセージを見出すことができます。イエスご自身がお生まれになったとき、自分の家でもなく、綺麗な寝心地の良いところでもなく、宿屋からも追い出されたところで生まれ、ふかふかのベッドではなくて、飼い葉桶に寝かされました。自分が快適さや安全の中にいるためではなく、人々に神の愛を示すために、あえて貧しさの中にお生まれになりました。そして、その誕生を祝ったのは、同じように社会の中からはみ出した存在である、羊飼いたちでした。自分の幸せのためではなく、神の御旨を行うため、すべての人を救うため、神の愛を人々に、特に弱く貧しい人々に与えるために死に至るまでささげられたイエスの生き方が、ここに反映されています。
毎年1月1日には神の母聖マリアの祭日が祝われますが、マリアが「神の母」と呼ばれるのは、彼女からお生まれになったイエスが神の子であり、人の意思ではなく神の力によってキリストが誕生したからです。マリアがいつも神の御旨を求めて、神の働きの「手」になろうとしたように、イエスご自身が神の救いを実現するために生涯を捧げられたように、私たちも、この一年間をキリスト者としてふさわしく生きることができますように。
メッセージ - A年 待降節 |
(マタ1,18-24)
「夫ヨセフは正しい人であった。」マタ1,19
順境の時に、他の人に対して丁寧な態度をとり、正しいと思うような行動をとるのは割合に簡単なことですが、大きな問題や困難に直面している時には、それは随分難しくなります。けれども、私たちは、順境においてよりも逆境において、より正確に自分が本当に正しい人であるかどうかが分かります。なぜなら、その時には私たちの心の真の思いや望みによって動かされていることがよくあるからです。
聖ヨセフは本当に正しい人でした。彼は順境においても、逆境においても、正しいことを求めてそれを行いました。自分の花嫁が妊娠しているという事実を知ったヨセフがマリアに裏切られたと思っても当然のことでしょう。当時の法律によって、傷つけられた自分の名誉を回復するために、ヨセフにはマリアを石で打ち殺す権利がありました。けれども、ヨセフは自分の名誉ではなく、マリアの善を優先して考えましたので、自分の評判が悪くなっても、マリアに自由を返すために離縁することにしたのです。
ヨセフがどんな状況においても正しいことができたのは、神を固く信頼していたからです。いつも一緒にいてくださる神こそ、自分を守り助けてくださると確信していたので、自分で自分を守る必要がない、ただ正しいこと、つまり神が示してくださることを行えば十分だと信じていたわけです。
このように神を信頼していたヨセフは、逆に神に信頼されました。神は彼にご自分の子であるイエスとイエスの母マリアのことを任せて彼らを守り世話する使命を与えてくださいました。それによってヨセフは、救い主の協力者になったと同時に、イエスと共に生きることによって救いにあずかるようになったのです。
さて、私たちはヨセフに倣って、どんな状況においても神を信頼して、私たちのもとに来られるイエスを受け入れることによって、神の国の平和と喜びにあずかることができますように祈りましょう。
メッセージ - A年 待降節 |
(マタ11,2-11)
「イエスはお答えになった。『行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。わたしにつまずかない人は幸いである。』」マタ11,4-6
誰にも喜ぶことがあると思いますが、その喜びについて考えたことがありますか。たとえば、自分が何のときに喜ぶのか、何のことで喜ぶのか、つまり、自分の喜びの原因は何であるか、自分を喜ばせるものは何であるかということについて考えたことがありますか。
恐らく、原因に基づいて喜びを二つのグループに分けることができると思います。一つは、自分の期待や望みが適えられることから沸き起こる喜びです。もう一つは、何か思いもかけない、美しいものとの出会いや、自分が想像も期待もしなかった素晴らしい贈り物をいただくことがもたらす喜びです。
第一のグループの喜びを味わうためには、自分の期待や望みを満たせばいいわけですので、この喜びを得るために自分から進んで何らかの働きをすることができます。けれども、第二のグループの喜びを味わうためにできることは、自分の想像力や望みによって視野が狭くならないように注意しながら、意外な贈り物を見失わないために絶えず目覚めていて、忍耐強く待つことだけなのです。
第一のグループの喜びはある程度まで人間が管理できるものですので、人気のあるものですが、第二のグループの喜びは全く管理のできないものですので、それを求める人は少ないでしょう。けれども、第一のグループの喜びが私たちの想像力や能力に制限されているものですし、それを探求している人たちは、他の人を操ったり利用したりして、他人を傷つけることがあり、最終的に自分を傷つけることが沢山あります。しかし、第二のグループの喜びは、私たちの想像力を超えるものであり、全能の神が与えてくださる無限のものなので、誰にも害を与えることがなく、人間の心を広くし、人間を高めるものなのです。
さて、私たちの救い主イエス・キリストに信頼して、イエスが私たちに与えたい贈り物を受け入れることができるように、自分たちが求めているものにこだわることなく、心を開いて、目を覚まして、忍耐強く待つことができますように祈りましょう。