メッセージ - A年 四旬節 |
(ヨハ4、5-42)
「イエスは答えて言われた。『この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。』」ヨハ 4,13
人間が何かを求めているというのは、何らかの善が不足しているか、不足しているように感じているということなのです。そのような状態は、一種の苦しみですので、この苦しみをなくすために、この望みを満たそうとしています。私たちは自分の望みを満たすために、普段、持っていないものを手に入れなければならないと思っているのかもしれませんが、体の欲求の場合は、それが事実であっても、心の望みの場合は、そうではないのです。
サマリアの女性が水を飲んでも、また渇くようになったように、私たちは、心の望みを満たすために必要と思うことを手に入れることができたとしても、そして、それによって心の望みを満たしたような気持ちになったとしても、それは、一時的な状態にすぎませんし、私たちは必ず心の渇きを再び感じるようになります。結果的にこの望みは消えないだけではなく、前よりも大きくなっていくのです。
イエスがサマリアの女性に教えてくださったように、生ける水、つまり人間の心の渇きを完全に癒すことのできる水は、外から来るものではなく、人間の内から流れ出るものなのです。ですから、私たちは他の人からいろいろなものをもらったり、他人を利用したりすることによって、この生ける水を汲むことはできません。それは、逆説的なことですが、この水が私たちの心の渇きを癒すために私たちは、他の人々の正当な望み、また、神ご自身の望みを満たすように努める必要があるのです。
サマリアの女性は、イエスの教えを正しく理解し、それを信じたので、今まで頼りにしていた水がめをおいて、町に走り、イエスとの出会いの喜びを他の人と分かち合い、彼らに救い主への道を教えました。彼女は他の人や神を利用しようとする代わりに、奉仕するようになってはじめて、彼女の心の渇きが癒され、イエスの約束が成就されたのです。
メッセージ - A年 四旬節 |
人間は神によって創られた者であるだけではなく、神を探し、神を信じ、神に従うため神に呼ばれた者です。それが今日の朗読の主題です。人間の中で、神を最初に信じた人はアブラムでした。彼の生涯は人間と神との間に出来た最初の契約という実を結びました。神を探し、神を信頼し、神と関係を持てることが代表的な事例です。全ては、まだ知らない神の呼びかけに答えることから始まりました。慣れ親しんだ故郷を捨てる時、彼の旅が死ぬまで終わらないことになるとは知りませんでした。もしそれを知っていたら、果たして最初の一歩が踏み出せたでしょうか。旅をする間様々な経験をして、勝ちも負けも味わったアブラムは、神との真実の関係を学び、神の約束が真実であるということが理解できました。
神の呼びかけに肯定的に答えた者はアブラムだけではなく、旧約と新約聖書にはアブラムのように信仰の道を歩き、神を信頼する人々が多勢登場します。第二朗読にはパウロの弟子であるテモテが現れます。彼はアブラムと同じように自分の家族や故郷などを捨て、パウロと共に宣教活動をしました。年若くして司教になったテモテは様々な問題に陥り、その都度パウロによって助けられました。テモテは神が呼び出してくださった者であり、神の恵みのうちに神の力によって苦しい時にも福音を宣べ伝えなければなりません。イエスの福音は人間の命や人間の死に関する真実の教えだからです。この教えを宣べ伝えるために、テモテは神に呼ばれました。
神が呼び出してくださった者として、事実の神の言葉を宣べ伝えるイエスの弟子たちは少しずつイエス自身を理解することができるようになりました。立派なラビからはじまり、奇跡を起こせる預言者のような者が続き、モーセのような新しい律法を作る者まで、イエスの弟子たちはできる限り一歩ずつイエス自身を発見しました。高い山の上にある弟子たちは「これは私の愛する子、彼を聞け」という神の命令を聞きました。確かにイエス自身を理解するためには、イエスを聞かなければなりません。「聞く」とは耳で言葉を聞くことではなく、心で聞くことであり、それはイエスの言葉を完全に行うことです。信仰とは信念ではなく行いです。
皆さんはこの朗読の言葉を聞いて、様々な点で私たちの経験と関係していることがわかると思います。まず、私たちは神の呼び出しに答えました。そして、この呼び出しを信頼しながら福音を宣べ伝えるために自分の家族や故郷を捨てて、神の御旨に従います。そうすれば、少しずつイエス自身が理解できるようになると思います。
メッセージ - A年 四旬節 |
四旬節に私たちは、イエス・キリストの十字架の意味を思い起こし、その復活に向けての道のりを一緒に歩みます。今日の福音では、イエスが荒れ野で40日間断食をして過して誘惑を受けられます。40という数字と荒れ野という場所は、旧約の時代にモーセがイスラエルの人々をエジプトでの奴隷状態から導き出して、四十年間荒れ野を旅しながら約束の地に向かうという話を思い出させますけれども、まさにこのイスラエルの試練を、イエスご自身も追体験して歩まれました。
モーセに導かれて荒れ野を旅していたイスラエルは、エジプト人の軍隊に追われ、食べるものもなく、苦しい中で、エジプトに奴隷として戻ってもいいと考えたり、自分たちに対する神の助けを疑って他のものに頼ろうとしたりしました。そしてイエスご自身も、40日間の荒れ野での断食と誘惑という試練を通して、食べ物や身の安全は確かに必要だけれども、それでも根本的に、本当に頼るべき所はどこなのか、ということを明らかにされました。「人はパンを食べて生きるけれども、それだけでは本当に人間として生きていることにはならない」「人は神の口から出る言葉によって生きている」ということはそういうことです。
復活祭の前の四旬節にあって、主の苦しみと十字架を思い起こす私たちも、私たち自身の生活の中で、この荒れ野での試練を体験します。苦しいときに、自分にとって本当に大切なものが何かを考えさせられるときがあります。その時、私たちは主イエスの歩みに倣って、良い選択をすることができるでしょうか。
メッセージ - A年 年間 |
(マタ5,38-48)
「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる。」
マタ5,45
誰かが言ったことですが、人間は自分が信じている神のような人になっています。言い換えれば、この人がどんな神を信じているかということが分かるためには、この人が神について何を語っているかということではなく、実際にどんな人になっているか、特に他人に対してどんな態度をとっているかということを、見なければならないということなのです。
イエス・キリストの生き方を見れば、イエスは本当にご自分が語ったように、すべての人々を無条件に愛しておられる神、例外なくすべての人を支え、すべての人のために善だけを行われる神を、始終一貫して信じていたということが分かります。
あなたは自分自身の生き方によって、どんな信仰を表していますか。自分が他の人に対してとる態度と同じ態度を、あなたに対して神がとってくださればいいと思いますか。それとも、神がそのような態度をとれば、自分が困ると思いますか。
メッセージ - A年 年間 |
第一朗読
シラ書は紀元前3~2世紀に書かれた書物である。その頃、パレスチナはセレウコス王国の属国になった。そしてユダヤ人は宗教と先祖の伝承を捨てることを強制されることとなった。シラ書の著者の目的は、先祖の知恵を守ることだ。シラ15,15-20の意味は、罪を犯すことは人間の心が選んだものだということである。つまり、世界には良い道と悪い道があり、一人一人が自由にこの二つの道から一つの道を選ばなければならない。同時にこの二つの道を歩くことはできない。悪を行う人は悪い道を歩いている。善を行う人は良い道を歩いている。人間は選択しなければならない。自分で選択し、自分で責任も取るのである。
第二朗読
紀元2世紀、この頃コリント市は大事な港であった。そのため、ここでは様々な宗教や文化や哲学派の考え方が交錯した。この場所でパウロは知恵を教えた。それは人間の知恵ではなく、自分の知恵でもなく、彼に霊によって明らかに示された神秘としての神の知恵である。その知恵はイエス・キリストの神秘である。キリストの神秘とは、イエスの死とイエスの復活の結果である。この結果、人間が、今は理解できなくても、将来天国に神と共に存在することとなる。
福音書
マタイ5,17-37は山上の説教の部分である。ここでイエスは律法と預言者、つまりトーラ(モーセ五書)について教える。イエスの教えの目的は、ユダヤ教の律法を廃止することではなかった。イエスの活動は、ユダヤ教の律法を守って、その律法を完成するということであった。律法を完成するということは、律法の正しい意味と目的が分かるようになることであり、それは、人間が天の父のように完全な者になるということである。
イエスはユダヤ教の律法に新しく深い意味を与えた。紀元一世紀のユダヤ教信者たちにとって律法以上に大切な事はなかった。律法を守る人が正しい人であり、正しいユダヤ人であると思っていた。しかしイエスにとって、律法を守ることは必要ではあるが、それだけでは足りない。他の人間を認めることが大切なのである。