メッセージ - A年 年間 |
第一朗読 エレ20:10-13
第二朗読 ロマ5:12-15
福音朗読 マタ10:26-33
第一朗読に、紀元前7世紀末から6世紀初めにエルサレムで活躍した預言者エレミヤの言葉が読まれます。北(バビロニア帝国)からの恐怖が迫ってくるのをユダの人々に預言したエレミヤは人々から迫害を受けます。その時に、彼は自分が耐えなければならない苦悩や不安を率直に神に訴えます。「恐怖が四方から迫る」。「私の見方だったものも皆、私がつまづくのを待ち構えている」と。
しかし、苦難の中にもエレミヤは希望を捨てることはありませんでした。「主は恐るべき勇士として、私と共にいます」。そして、エレミヤは敵に対する復讐を祈ります。しかし、それは自分で敵を滅ぼす力が与えられるように祈るのではありません。あるいは自分が望むような仕方で敵が滅ぼされるようには祈っていません。「わたしに見させてください、あなたが彼らに復讐されるのを」。預言者エレミヤにとって、復讐は神ご自身が行われるみ業です。自分が出来ることはその苦悩と不安を神に打ち明けることです。後のことは神にお任せするだけです。
イエスは、エレミヤのようにみ言葉を人々に伝えることで迫害を受ける弟子たちを励まします。迫害を目の前にしておびえている弟子たちにイエスは「人々を恐れてはならない」。「恐れることをやめなさい」と命令しました。恐れをやめて、すべてを神に任せるように弟子たちを力づけます。すべては天の御父のみ旨によって行われるのからです。「あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている」からです。恐れる必要のない弟子達が行うべきことは人々の前で福音を述べ伝え、イエスの名を証し続けることです。たとえそれが苦難と苦しみが伴っているとしても。
弟子たちへの励ましの言葉でイエスは現代に生きる私たちにも「恐れるな」と励まし続けています。イエスの弟子として私たちは今もその励ましの言葉が必要です。もしも自分は「恐れな」という主のことばを必要としないなら、それはキリスト者としての預言者的義務への意識が薄れている証拠なのかもしれません。
メッセージ - A年 祭祝日 |
6月にはカトリックの祝日が多い、しかも、キリストの人生の出来事を記念し、祝う祭りではなく、キリストの聖体や御心というものを中心に据える祝祭日まであります。本来なら前の木曜日に祝われる祝日ですが、皆が参加できるようにわざわざ日曜日に移動させるほどに大事な秘義を謳っていることが分かります。
聖体の秘跡(エウカリスティア)はただ頭で考える難しい神学的なテーマではありません。聖書的に考えると、まず神にしか与えられない「糧」として紹介されています。その予形は旧約聖書に既にあります。人間は様々なものに飢えていますが、決して物質的なものだけに満足するわけではありません。むしろ、食べれば食べるほど、また食べたくなる現実が見られます。第一朗読が言うには、場合によって糧の良さやそのありがたさを実感するために、神が人間に飢えることをも許したりします。人間を更に満たすために、一時的に窮屈な状態にさせます。旅路で道が険しくなると、普段足りる糧ではもうどうにもなりません。同じように、人生の一番大きな闘いには霊的な糧、天から下ったパンが不可欠です。
次に、聖パウロは聖体を一致のしるしと考えています。面白いことに、本人は最後の晩餐には出席しなかったのに、一番早い段階で聖体の秘跡の制定について「主から受けた言葉」として報告しています(1コリ11,23-26)。一つのパンを作るには、多くの麦の粒を砕いて、一つにまとめて、捏ねて形を整えなければなりません。それは、自分の誇り・自律を超えて、謙遜と連帯性を意味しています。また、一つの盃から飲むぶどう酒(キリストの御血)はブドウの房を絞って、力をもって汁を抽出しないといけないことから、受難を意味しています。なので、ミサで捧げられたパンとぶどう酒はただ他の宗教に多く見られる食事の形態を取る(契約を結ぶ)儀式ではなく、「キリストの体と血そのものにあずかる」パンとぶどう酒なのです。
最後に、福音書を見てみますと、ヨハネは最後の晩餐の場面の代わりに「足を洗うシーン」(13章)を描き、聖体を暗示させるためには「天から下った生きたパン」の話を書き留めています(6章)。後者で強調されているのは、「真の糧と真の飲み物」であることです。これは旧約時代のシンボルを遥かに超える現実を指しています。つまり、食べてもまた飢えてしまう他のすべての食料とは違うものです。人間の生命を養い、発展させるためのものだけではなく、それ以上にキリストの命を食べる人に分け与えるための有効な手段なのです。信者に自分の命を分け与えるということは、イエスはまず自分の命を与えなければならない、つまり捧げなければならないことを含意します。ですから、聖体はさらに生贄(いけにえ)でもあります。
メッセージ - A年 年間 |
我々はキリスト者として三位一体を信じています。それは最も正しいやり方だと思います。人間と唯一神の間の関係は、信仰から始まり信仰で終わるからです。アウグスティヌスの時代から、人間が唯一神について完全には理解できないと分かっていましたが、唯一神への信仰を守るために重要なことを聖書から学ぶことは、信仰によってしか出来ないと思います。聖書は人間の手で書かれた神の言葉ですから、神の言葉を読めば神について最大限のことを学ぶことが出来るでしょう。
今日の第一朗読の言葉は、唯一神について何を表しているでしょうか。
モーセは唯一神についてこう言いました。「主、主、憐れみ深く恵みに富む神、忍耐強く、慈しみとまことに満ち」。この言葉によれば、唯一神は憐れみ深い父であり、恵みに富む父であり、忍耐強い父であり、慈しみとまことの父です。つまり、唯一神は人間に対して優しい神です。
第二朗読の言葉は唯一神について何を表しているでしょうか。
パウロの言う、唯一神は三位一体であるとは、父と神の子と聖霊の交わりのことです。彼はこう言いました。「 主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが」。そのおかげで我らは神が愛であり、イエスが恵みであり、聖霊が交わりであることを知りました。神の愛とは、人間に対する神の基本的な態度は人間を愛することだということです。イエスは恵みであるとは、イエスの死と復活のおかげで人間が希望のうちに救われた者となったということです。聖霊の交わりとは、神の霊によってのみ人々の間に真実の愛と真実の平和がおとずれる可能性があるということです。
今日の福音書の言葉は唯一神について何を表しているでしょうか。
ここでは福音者ヨハネにとっての神の愛とイエスの恵みについて具体的なことを学ぶことが出来ます。ヨハネはこう言いました。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」この言葉に説明は必要ないと思います。必要なのは、この言葉を強く信じることです。
(2017年6月11日)
メッセージ - A年 復活節 |
聖書の中に見られる聖霊に関する記述は、神学的・教義的な聖霊についての教えというより、聖霊が私たちの間でどのような働きをしているかを生き生きと示している方が多いように感じられます。
第一朗読の使徒言行録では、言葉も、出身も、文化的背景も違う人々が神の言葉を聞く聖霊降臨の場面が描かれています。ここに見られる聖霊は、神の言葉を弟子たちに語らせ、また人々の耳と心を開き聞かせます。
第二朗読の第一コリント書によれば、聖霊はキリストにおいて私たちを一つに結びながら、一人一人に様々な賜物と務め・働きを与えて下さる神の霊です。聖霊に生かされて、私たちはそれぞれの場で、それぞれの生を生きながら、キリストにつながる一つの体として働きます。
そして福音朗読のヨハネ福音書では、イエスが、弟子たちを遣わすにあたって聖霊を与える、と語られています。ここで聖霊を受けるということが、イエスの息を受けることとして描かれています。家の戸に鍵をかけて閉じこもり、どんよりとした閉塞感の中で息を潜め心も閉じていた弟子たちの真ん中にイエスは現れ、ご自分の息を吹き込み、新しい風を吹かせ、暗く閉じていた彼らを開かれました。イエスの息が、命が、私たちの中で生き生きと息づいているとき、そこに聖霊が働いていると言うことができます。弟子たちに聖霊を与え遣わすときに「平和」が強調され、「罪のゆるし」が使命として与えられているように、聖霊を受けて、イエスの息を吸って生かされている私たちも、平和とゆるしのためにキリストの使者として送り出されています。
聖霊降臨の日の聖書朗読が私たちに問うているのは、聖霊についてどれだけ正しく知っているか、ではなく、聖霊を受けてどれだけイエスに従う者らしく生きるか、です。聖霊に吹かれ、主の命を受け、それぞれの場で生き生きと神の言葉をあかしすることができますように。
メッセージ - A年 復活節 |
朗読箇所:使11:1-11;エフェ1:17-23;マタ28:16-20
キリスト教を大学生に紹介する時に、イエスの誕生や公の宣教活動(教え)と十字架上の死についてはある程度理解してもらえます。しかし、イエスが行った奇跡やイエスの復活や昇天に対して『本当に起こったのか?』『化学的に、どのように説明できるのか?』といった疑問がいつも出てきます。現代人らしいこれらの率直な質問に答えに戸惑うことがたびたびあります。その時に気づかされることがあります。それは、これらの問いに何が正しい答えなのかということを考える以前に、先ず自分が信じるものは如何なるものか、自分の信仰があるかないかという根本的な問いに迫られるということに気づかされます。
イエスの昇天の場面に立ちあった弟子たちの中に「疑うものもいた」とマタイは記しています(マタ28:17)。福音書の中の弟子たちは、決して常に模範的な信仰を持っている訳ではありません。イエスと一緒にいながら、イエスの奇跡を目の前に起こっていても、それを理解できないので、イエスはたびたび弟子達の不信仰に落胆しました(マタ14:31; 15:16; cf. マル4:13; 6:51-52, 7:18)。その弟子たちにイエスは近寄ってきて、弟子たちを全世界への宣教のために派遣しました。つまり、イエスは信仰が足りない弟子たちをも含めて彼らを全世界に福音を告げる使命を与えたということです。
二千年たって、キリスト教が全世界に広がっていきます。それは、今日の福音箇所の最後、そしてマタイ福音書全体を締めくくるイエスの言葉にあるように、「私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」からです(マタ28:20)。マタイ福音書の初めに、戸惑っているヨセフに天使は、マリアから生まれた子はインマヌエル、「神は我々と共にいる」と呼ばれる、ということを告げました(マタ1:20-23)。イエスの昇天の前に、神はインマヌエル、共にいてくださる神であることを度惑っている弟子たちに再確認しました。全世界への宣教の保証は弟子たちの力ではなく、彼らと共にいて、彼らを通して働く神ご自身の力です。
ご昇天は、イエスが天の昇られたのでこの世からいなくなったということを意味するのではありません。教皇ベネディクト16世が指摘したように、主のご昇天によって「私たちも天に昇られることが出来るということです。私たちがイエスの所に行って、イエスの内に入ることが出来る」ということです。「私たちが《天国》と呼ぶものは、イエスご自身だからです。この信仰の神秘を他の人々に告げる内に、それを伝える自分の信仰が強められていくことができますように。