聖書の解釈 - 聖書を読む人のための手引き

 

聖書は、いろいろな人が書き記した73冊の書から成り立っていますが、73冊すべてが聖なる書であること、つまり、本当に聖霊の霊感によって書かれて、神が人間に伝えたいを思われたことを誤りなく伝えていることは確かなことなのでしょうか。言い換えれば、聖書と呼ばれている本は、本当に神の言葉であるという確信を持つことができるのでしょうか。神ご自身がこのすべての書の著者であることを認める証明書を発行されたわけがないですから、誰が、どのように、また、どんな権威を以てそれを決めたのでしょうか。この質問に答える前に、まず、神のことを知る方法、特に神の自己啓示のことと聖書が形成された過程を説明する必要があると思います。

 

◎ 神の自己啓示

人間は、神から与えられた理性によって、様々なことを知り、理解することができます。理性のためにこそ、科学の発展とともに、私たちが生きている世界の構成や人間自身の精神や体の仕組みなどの理解が段々と深まって、技術も高まっていき、昔は、誰も想像もしなかったようなことができるようになっています。同じ理性のために、人間は、何が正しいか、つまり、どのような行動が人間を生かし、人間の益になるか、また、どのような行動が人間に害を与えるかということ、つまり、道徳的な基準をある程度まで知ることができます。また、世界や人間のことに関する知識に基づいて論理的に考察することによって、存在しているすべてのものの第一原因であり、創造主である存在、つまり、私たちが見える現実を超えている神が存在しているという結論を出すこともできます。つまり、理性によって人間は、少なくとも、神が存在していることと創造主であることを知ることができるということです(ロマ1・20-23参照)。

 

けれども、私たちは、理性の力によってのみ神について知ることのできないことをも知っています。例えば、神は唯一でありながら、父と子と聖霊という三方の一体であること、つまり三位一体の神秘を知っています。実は、このような認識は、神ご自身の啓示による認識です(カテキズム50参照)。ヘブライ人への手紙の中に次のように書き記されています。「神は、かつて預言者たちによって、多くのかたちで、また多くのしかたで先祖に語られたが、この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました」(ヘブ1・1-2)。この言葉からも分かることですが、神は、自分のことを最初から完全に現してくださったのではなく、良き教育者のように、人間の心の状況や理解力に合わせて、少しずつご自分のことを現してくださったのです。神の自己啓示の過程の頂点は、神の御ひとり子であるイエス・キリストなのです。啓示の過程の発展は、聖書の形成の過程の中で見られます。

 

◎ 旧約聖書の形成

神のわざであるすべての被造物そのものは、神の、いわゆる、自然の啓示ですが、神はいろいろな自然の現象や出来事を通して、また、人間のいろいろな体験を通しても語られるのです。神は、アブラハムを召し出してから、彼の生涯の中で、また、彼の子孫から生まれたイスラエルという民族の歴史の中で、特に力強く、特にはっきりとした形で人間にご自分を啓示し、この世界に対するご自分の計画を実現してこられました。イスラエル人が体験した神の働き、特にエジプトから解放されたことやシナイ山で神と契約を結んだことは、まず数百年の間に口頭で次の世代に伝えられましたが、凡そ紀元前10世紀から、口伝された諸伝承が少しずつ文書化されたのです。紀元前8世紀と6世紀の間、多くの預言者たちが活躍していました。彼らは過去や現在の出来事の中で見出した神のメッセージ、いろいろな教えや注意や導きを宣べたりしていました。この言葉を自ら書き記す預言者もいましたが、多くの場合、彼らの弟子や後の人が預言者の生涯や彼らが宣べた言葉を書き記したのです。国家を失う経験をしたイスラエル人は、捕囚からパレスチナに戻った時に、自分たちの国民のアイデンティティを再意識し、それを保ち、次の世代に伝えるために、ユダとイスラエル王たちの歴史やいろいろな資料に書き記されていた捕囚前の歴史やエルサレムの物語、また、捕囚時代の物語をまとめたり、必要に応じて文書化したり、いろいろな資料や様々な伝承を合併したり、再編集したりしました。こうして、預言書の作成は、紀元前6世紀までに終わりましたが、モーセ五書は紀元前5世紀に完成されました。その後、ダニエル書やマカバイ記を含めて、いくつかの書が書かれましたが、1世紀に、旧約聖書の最後の書として、知恵書が書き記されました。要するに、旧約聖書の一番古い文書が書かれてから、最後の文書が書かれるときまで、千年以上がかかったということになるわけです。

 

このように非常に長い過程の結果として作成された書が、聖書であるとは、聖霊が文書を書いた人に霊感を与えて、この人を導かれたからだけではなく、元々の出来事や書の主人公となった人の生涯の中で働いたから、また、この出来事や人の言葉や行いを伝えた人々においても神が働き、彼らに神が伝えてくださった言葉の意味を変えることなく、正しく伝える恵みを与えてくださったから、そして、口頭で伝えられた伝承を文書化した人も、いろいろな文書を編集したり、資料を合併したりした人も聖霊の導きに従ってこの作業を行ったからです。要するに、聖書の作成のすべての段階で、また、この作成に関わったすべての人々において神が働いたからこそ、神が最初から伝えたかったことが誤りなく伝えられ、聖書は、神の言葉となっているということです。

 

◎ 新約聖書の形成

新約聖書に含められているすべての書は、比較的に短い間、つまり、たったの50年の間に書かれましたが、新約聖書は、基本的に旧約聖書の作成過程と同じような過程の結果です。けれども、新約聖書の作成期間が短いために、この過程の各段階は、はっきりと見られます。

 

まず、神の特別な働き、神の自己啓示の頂点として、「神の栄光の反映であり、神の本質の完全な現れで」(ヘブ1・3)あるイエス・キリストの生涯、特にパレスチナにおけるイエスの行動と教え、キリストの死と復活がありました。イエスご自身がご自分の教えを書き記したというような記録がないですが、イエスは、ご自分の活動の早い段階で、ご自分の証人となるために12人の弟子を選んで、彼らに「使徒」、つまり、「遣わされた者」という名を付け、彼らに特別な教育を与えられました。そして復活されてからイエスは、この使徒たちにご自分の教えをすべての人々に伝えるように命じて、彼らを全世界に派遣されたのです(マコ16・15;マタ28・19-20;マタ24・14;使1・8参照)。カトリック教会のカテキズムの中で次のように教えています。「主キリストは至高の神の全啓示が自らにおいて完了されるため、かつて預言者によって約束された福音を自ら実現し、かつご自分の口をもって宣布しましたが、これを救いに関するあらゆる真理と道徳の源として、すべての人にのべるよう、また彼らに神のたまものを与えるよう使徒たちに命じました」(カテキズム75)。

 

福音書が度々示している通りに12人の使徒たちは、イエスの行いを目撃し、イエスの言葉を自分の耳で聞いても、それをなかなか理解することができなかったのです。けれども、彼らは、昇天されたイエスが約束通りに遣わしてくださった聖霊を受けて、イエスの指示に従って旧約聖書を読むことによって、イエスの行いとイエスの言葉の真の意義を見出し、キリストから与えられた使命を果たして、イエスの証しを立てながら、その生涯と教えを忠実に宣べ伝え、その意義を説明するようになりました。使徒たちは、様々な状況に置かれている、いろいろな人々にイエスの福音を宣べ伝えましたので、それを聞いている人々に理解してもらうために、必要に応じてイエスの教えを聞いた通り、また、イエスの行いを見た通りに伝えたのではなく、それをある程度まで編集したり、適応したりしていたのです。

 

イエスの弟子たちの宣教活動の結果として、イエス・キリストを救い主として認めたキリスト者の共同体が次々と生まれてきました。聖ルカがキリスト者の共同体の生活を次のように描いています。「ペトロの言葉を受け入れた人々は洗礼を受け、その日に三千人ほどが仲間に加わった。彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった」(使2・41-42)。イエスを証しし、イエスの福音を伝えたのは、使徒たちだけではなかったのですが、聖ルカが伝えている通りに、使徒たちは、特別な権威をもって、宣教活動をし、弟子たちから特別に尊敬されて、共同体の中心的で、指導的な立場にいたのです。

 

このときに宣教師たちは、主に口頭で福音を伝えました。その頃キリストの行いや教えについての文書も書かれたようですが、後に新約聖書に含まれた書簡という形の文書は、聖パウロによって、西暦50年代に入ってから書かれました。勿論、聖パウロは、この書簡を聖書として書くつもりがありませんでした。ただ、自分が創立した共同体において何らかの問題が起こったと聞いても、すぐにそこへ行けないときに、この共同体を教え、戒め、励まし、指示するためにこの書簡を書いたのです。聖パウロは、具体的な共同体のために書簡を書きましたが、それを読んだ他の共同体のキリスト者が、それを自分の共同体のためにも用いることができるということが分かると、この書簡を写して、新しい写本を作ったため、聖パウロと他の指導者が書いた文書は、キリスト教の世界の中で少しずつ広まったのです。

 

実は、福音書は、書簡と異なる形を取っても、書簡と同じような目的のために作成されたのです。つまり、福音記者たちは、イエス・キリストの生涯やイエス・キリストの教えすべてを、次の世代とか、全世界の人々に伝えようと思って福音書を書き記したのではありませんでした。初代教会の諸共同体には、新しい、つまりイエスが活動をなさった時になかったような疑問や問題や困難が生じていましたので、福音記者たちは、自分たちの共同体のこのような疑問や問題や困難に対して、イエスの教えやイエスが示してくださった模範に基づいて、必要と思った教え、励ましや導きなどを与えるために、自分の記憶や手元にあった資料の中から必要と思ったものだけを選んで、この共同体のキリスト者たちに理解しやすくなるように編集したり、解釈したり、相応しいと思った表現を用いたりしたのです。つまり、福音記者たちは、各共同体の状況や必要性に応じて、以前に使徒がしたようにイエスの教えを適応化したということです。一人ひとりの福音記者が異なる現状にあって、異なる問題や困難にあった共同体のためにその福音書を書いたと同時に、福音記者一人ひとりは、性格とか生まれた環境や受けた教育も異なっていたし、イエスの教えや神学の課題に関する好みも異なっていましたから、すべての福音記者は、同じイエスの生涯と教えを元にしていても、異なる福音書を作成したわけです。

 

◎ 使徒たちと司教たちの権威

聖パウロの書簡が示しているように、早い段階で、初代教会において間違った教えを宣べた人がいました。この場合、教えが正しいかどうかということを決めるために決定的な権威をもっていたのは、使徒たちでした。使徒たちは、この権威を教会から与えられたのではなく、イエスご自身から与えられたのです。ご自分の教えをすべての人々に伝えるように使徒たちを遣わしたイエスは、この派遣について次のように言われました。「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」(ヨハ・21)。要するに、イエス・キリストは、神の名によって語る権威を父である神から与えられたように、ご自分の名によって語る権威を使徒たちに与えてくださったのです。聖パウロは、1世紀にキリスト者の意識を表して、使徒たちについて、次のように語ります。彼らは、「新しい契約に仕える資格、文字ではなく霊に仕える資格を」(2コリ3・6)神から与えられた者、「キリストの使者の務めを果たしている」(2コリ5・20)者、「キリストに仕える者、神の秘められた計画をゆだねられた管理者」(1コリ4・1)であると。要するに、キリスト者は、最初から、イエス・キリストが使徒たちに与えてくださった権威を認めて、使徒たちがイエス・キリストの名よって語る、イエスの代理人であることを認めたからこそ、ある教えが正しいものであるかどうかということを使徒たちに決める決定的な権威があるということを認めていたわけです。

 

使徒たちは、この権威、つまり、キリストの代理として、キリストの名によって語る権威を、彼らが任命した自分たちの後継者に伝えました、このことは、キリスト者によって、最初から認められていました。これについて、聖パウロも(例えば、1テモ3・1-7;テトス1・7-9)、教父たち(例えば、ローマの聖クレメンス、アンチオキヤの聖イグナチオも)書いて、使徒たちの後継者、つまり司教たちの権威を認ると書いています。

 

使徒たちは、キリストご自身から与えられた権威、また、彼らが司教たちに伝えたこの権威は、教えの正しさを決めるときに決定的なものであっただけではなく、どのような書が聖霊の霊感によって書かれたか、つまり、どのような書が神の言葉で、聖書に属するものであるかということを決めるときにも、決定的なものでした。

 

◎ 新約聖書の正典化

旧約時代にあったように、初代教会のキリスト者は、「正典的な意識」、つまり、彼らが持っていたある書が、他の書と違って、彼らのキリスト者としての生活のための基準となっているという確信を持っていました。この確信を、聖パウロの言葉が描いています。「聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です」(2テモ3・16)。そのために、キリスト教の各共同体は、ユダヤ教会から受け継がれた聖書と同じように重要であり、有益になると思った書を集めていましたし、他の共同体が持っていた書を写したりしたのです。

 

2世紀の前半に、多くの場合司教でもあった教父たちは、自分たちの共同体のために、正典と考えた書のリストを作り始めます。その頃から、教父たちは、四つの福音書とパウロの書簡を、ユダヤ人の聖書と同じ権威のある書として認めていました。西暦202年に亡くなったリオンの司教聖イレネオが、ユダヤ人の聖書を「旧約」、そして、正典として認められたキリスト者の書を「新約」と呼び始めました。

 

全ての共同体は、同じ書を霊感に基づいて書かれたものとして認めたわけではありませんし、各共同体において出来上がった正典的な書のリストは異なっていて、すべては、部分的なものでした。それから、教父たちは、最初から拒否した書が次々と出回るようになったし、マルチオンのような異端者たちは、自分たちの正典を作り始めましたので、使徒的教会の正式的な正典を決めることが必要になったのです。27の書を含む新約聖書の正式的な正典は、まず、393年のヒッポンの教会会議と397年のカルタゴ教会会議において教会を代表して集まった司教たちによって承認されましたが、その後、多くの教皇と公会議によって再確認されました。

 

凡そ300年もかかった新約聖書の正典化の過程において、ある書を正典に加える一番大事な基準、つまり、聖書に属する書として承認する一番大事な条件とは、この書の使徒性でした。書の使徒性とは、使徒が自分自身でこの書を書き記したということだけではなく、この書が、何らかの仕方で使徒の伝承につながっていること、例えば、使徒の弟子や協力者が書いたものであるか、使徒や弟子が残した資料の合併や編集の結果として作成されたものであるということです。ある書を聖書に属する書として認めるために用いられた他の基準とは、書の普遍性、つまり、この書が一つの共同体や一つの地方のみならず、世界中の共同体によって使われていることです。それから、正統性、つまり、書全体が、使徒の教えと一致していることと、書が読書や教えるためにのみならず、典礼においても用いられていたことでした。


新約聖書の正典化の過程は、教会全体、特に使徒たちからキリストの名によって教える権威を受けついた司教たちによる識別の過程でもありました。教会の指導者であり、司牧者である司教たちがその権威を持っていなければ、どの書が聖霊の霊感に基づいて書かれたかが分からなかったのです。したがって、聖書を神の言葉として読むために、使徒たちの後継者の権威を認める必要があります。逆に言えば、使徒たちの後継者である司教たちの権威を認めていない人には、カトリック教会の識別を信頼する根拠も、新約聖書を神の言葉をして認める根拠もないために、聖書が本当に神の言葉であるという確信を持つことができないのです。

 

◎ 旧約聖書の正典化

ユダヤ教は、伝統的に聖なる書物を三つのグループに分けていました。第1のグループは、モーゼの5書です。第2のグループは、預言書です。そして、第3のグループは諸書です。1世紀のユダヤ教の世界において、第1と第2のグループに含まれてあった書は、はっきりと決まっていたし、この書は、普遍的に聖書として認められていましたが、第3のグループに属する書は、はっきりと決めていなかったし、このグループに含まれた書の権威について疑問を持つユダヤ人のラビもいました。けれども、ユダヤ教にとってエルサレムの神殿が中心となっていた時に、ユダヤ教の聖書の正典が正式的に決まっていなかったことは、問題にされなかったようです。けれども、神殿が破壊された西暦70年からユダヤ教は、自分たちのアイデンティティをはっきりとし、それを保つために新しい基礎を求めたのです。聖書がユダヤ教の自然な基礎になったわけですが、どの書が聖書であるかということをはっきりと決める必要になったわけです。ユダヤ教のラビの間で行われた議論の結果として、2世紀の終わりごろや3世紀の初めごろに、ヘブライ語やアラム語で書かれた39の書を聖書として認めるようになりました。そして、ギリシア語で書かれた7の書(トビト記、ユディト記、知恵の書、シラ書、バルク書、マカバイ記上、マカバイ記下)は、聖書として認められず、正典に入りませんでした。けれども、39書が普遍的に認められるようになっても、その中のいくつかの書についての議論は、まだ5世紀まで続けられたのです。

 

キリスト教が生まれた1世紀に、ユダヤ教の正典がまだはっきりと決められていなかったし、2世紀の終わりごろにラビたちによって正典から外された7の書は、少なくとも七十人訳聖書(旧約聖書のギリシア語の翻訳)を用いたユダヤ人によって聖書として認められていました。また、この7の書の中の三つが、クムランで発見された写本の中にありましたので、クムランの共同体もこの書を聖書として認めていたという結論を出す学者もいます。

 

この7の書は、1世紀のユダヤ教の中で、どれほど広く認められていたかということが分からなくても、キリスト教が最初からこの書を旧約聖書の他の書と同じように、権威のある書として用いたということは確かです。初代教会は、ユダヤ人たちが2世紀の終わりに拒否した7の書を含めて、旧約聖書の46書を用いたのみならず、382年のローマの教会会議、393年のヒッポン教会会議と397年のカルタゴ教会会議において、正式的に承認されたのです。

 

キリスト教の立場から考えれば、使徒の後継者である司教たちに新約聖書の正典を承認する権威があったように、旧約聖書の正典を承認する権威もありましたが、ユダヤ教のラビたちには、そのような権威があったと言える根拠はないのです。

 

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聖書の解釈 - 聖書を読む人のための手引き

聖書は、一冊の本に見えても、実際には73冊の書を集めている「図書館」のような書物なのです。聖書の中に入っている一番古い文章は、紀元前10世紀に書かれたものです。一番遅い段階で書かれた文書は、西暦1世紀のものです。つまり、聖書全体は、千年以上の間に作成されて、非常に多くの人によって書かれた文書、しかも、複数の言語(ヘブライ語、アラム語、ギリシア語)で、様々な所で、様々な政治的や経済的な状況において書かれたものです。聖書において、歴史的な物語やたとえ話、預言的や黙示的、また、詩的な表現形式とその他の文学類型が使われています。

 

 

◎ 神の作品

 

それほど多くの相違を持っている書物が、なぜ、一つの聖書になっているのでしょうか。それは、聖書に含まれているすべての書物に一つの重要な共通点があるからです。この共通点とは、共通の作者、つまり、神ご自身なのです。実は、聖書が他のすべての書物と違って聖なる書であるのは、そのためなのです。勿論、神が聖書の作者であるとは、神ご自身が文書を書かれたということではありません。553年にコンスタンチノープルで開かれた公会議の中で、教会は次のように教えました。「尊き母なる教会は、旧約および新約の全部の書をそのすべての部分を含めて、使徒的信仰に基づき、聖なるもの、正典であるとしています。なぜならそれらの書は、聖霊の霊感によって書かれ、神を作者とし、またそのようなものとして、教会に伝えられているからです」(第2コンスタンチノープル公会議)。

 

 

◎ 人間の作品

 

第2バチカン公会議の公文書の中でカトリック教会は、聖書が聖霊の霊感によって書かれたことを次のように説明します。「神は聖書を作り上げるにあたってはある人々を選び、彼らの才能と能力を利用しつつ採用したのである。こうして、神が彼らのうちで彼らを通して働くことによって、彼らは真の作者として、神が欲することのすべてを、またそれだけを、書き物によって伝えたのである」(『啓示憲章』11)。要するに、神は主な作者であっても、唯一の作者ではありません。言われた言葉をのみ書き記す秘書のようではなく、神から受けた啓示を、個人の才能と能力に応じて自分の言葉で文書を書いた人間である聖書記者も真の作者です。そのために、聖書の言葉は、神が伝えたいと望まれたことだけではなく、文書を書いた人の性格や趣味、また、その人の知識や世界観、また、当時の常識や、考え方などを表しているわけです。

 

 

◎ 人間の言葉となられた神の言葉

 

神の作品である聖書は、同時に人間の作品でもあるとは、大きな神秘です。実は、この神秘は、イエス・キリストが真の神であり、真の人間であるという神秘と同じです。この神秘について教会は、次のように教えています。「かつて永遠なる父のみことばが人間の弱さをまとった肉を受け取って人間と同じようなものになったのと同様に、神のことばは人間の言語で表現されて人間のことばと同じようなものにされた」(『啓示憲章』13)と。イエス・キリストは、罪を除いて他の人と同じ人間になったように、聖書において神の言葉は、誤りを除いて人間の言葉と同じものになったのです。言い換えれば、人間の言葉となった神の言葉は、真理を誤ることなく伝えているということです。それについて、カトリック教会のカテキズムに次のように書かれています。「霊感によって書かれた書は、真理を教えます」(カテキズム107)。また、「神の啓示に関する教義憲章」には、次のように書かれています。「それゆえ、霊感を受けた作者すなわち聖書記者たちが主張していることはすべて、聖霊によって主張されているとしなければならない。したがって、聖書は、神がわれわれの救いのために聖なる書として書き留められることを欲した真理を堅固に忠実に誤りなく教えるものと公言しなければならない」(『啓示憲章』13)。

 

 

◎ 救いのための真理

 

聖書を正しく理解するために、少なくとも、聖書に対して根拠のない期待を持たないために、聖書が誤りなく伝えている真理の特徴を意識しなければならないのです。それは、私たちが、自分の救いのために必要としている真理なのです。言い換えれば、私たちが聖書を読むのは、天文学や物理学、また、医学の範囲に入っている事実、また、歴史的な出来事に関する事実を知るためではありません。なぜなら、そのような知識は、救いの恵みを受けるために必要ではないからです。考えて見れば、優れた学者になって、世界の構成や人間の体の構成を知るようになっても、人生の目的やその意義、また、正しい生き方を知らない可能性、また、実際に正しく生きていない可能性があるでしょう。逆に、難しい科学を知らなくても、正しく、つまり、創造主である神の意志と同時に、人間の本質に沿って、人間らしく生きることが可能です。聖書においては、このような真理、つまり、創造主である神が人間のために定めた目的に向かって歩むために必要な真理のみを見出すことができるのです。

 

聖書を正しく理解し、結果的に聖書の言葉によって生かされるために、聖書の最も根本的な特徴、つまり、聖書は、神の作品でありながら、人間の作品でもあるという特徴を常に意識しなければならないのです。神が聖書の作者であるとは、聖書の内容、つまり聖書が伝えている真理、救いのために必要な、普遍的な真理は、神によって決められたということです。そして、人間が聖書の作者であるとは、この真理を伝える方法、つまり表現の形式、文学的な形などは、人間が決めたということです。

 

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聖書の解釈 - 聖書を読む人のための手引き

 

数えきれないほど多くの人々が経験した通りに、聖書には、人間を励まし、慰め、強める力、また、間違った生き方を変え、人生を有意義なものにする力、そして、真の幸福に導く力があるのです。それは、私たち自身と私たちが生きているこの世界を創造してくださった神の言葉、言ってみれば、人間の創造主である神が私たちに与えてくださった「人生のマニュアル」であり、すべての時代、すべての文化、あらゆる状況に生きている一人ひとりの人のための個人的な導きであるからです。第2バチカン公会議のときに教会が教えたように、「聖書において、天におられる父は、聖書の中で深い愛情をもって、自分の子らと出会い、彼らとことばを交わす」(『啓示憲章』21)。つまり、聖書は、人間にとって、慈しみ深い父である神と出会う場、また、対話する場になれるからこそ、ヘブライ人への手紙の中で書き記されているように、「神の言は生きていて、力が」(ヘブ4・12)あるのです。

 

けれども、聖書はそれだけ素晴らしくて、無数の書物の中で最も重要な本であっても、非常に難しいものでもあります。聖書を読んでみた多く人々は、神の言葉の力を体験する代わりに、この難しさに負けて、読むのを辞めてしまいます。聖書を忍耐強く読み続ける人の中には、読む言葉によって励まされる、また、生かされる代わりに、ますます混乱し、戸惑い、場合によっては、読んだことに躓いて、聖書からだけではなく、信仰や神ご自身から離れてしまう人もいます。やっぱり、預言者イザヤの書を朗読していたエチオピア人の宦官が、「読んでいることがお分かりになりますか」というフィリポの質問に答えて、「手引きしてくれる人がなければ、どうして分かりましょう」(使8・30-31)と答えた通りです。

 

皆さんにとって聖書は、父である神と出会う場、また、神と対話する場、結果的に永遠の命の糧、つまり、イエス・キリストとの交わりを深め、愛における成長を促すものとなるために、聖書の特徴、聖書が作成された過程、聖書の解釈、また、神の言葉の黙想について、なるべく分かりやすく説明したいと思います。この説明が多くの人にとって、聖書を読むための導きとなり、聖書の読書が実り豊かなものとなるようにお祈りします。

 

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聖書の解釈 - 聖書を読む人のための手引き

 

神の言葉が命の糧となるために


聖書を読む人のための手引き

 

目次

はじめに

1.神の作品であり、人間の作品である聖書

・神の作品
・人間の作品
・人間の言葉となられた神の言葉
・救いのための真理

2.神の言葉である聖書

・神の自己啓示
・旧約聖書の形成
・新約聖書の形成
・使徒たちと司教たちの権威
・新約聖書の正典化
・旧約聖書の正典化

3.聖書の解釈

・聖書記者たちの意図を理解する
・聖霊の光のもとに読む
・聖書全体の内容と一体性に特別な注意を払う
・教会全体の生きた伝承従って聖書を読む
・信仰の類比に留意する

4.聖書の霊的な意味

・寓意的意味
・道徳的意味
・天上的意味

5.レクティオ・ディヴィナ(霊的な読書)

・第1段階:読書
・第2段階:黙想
・第3段階:祈り
・第4段階:観想

 


参考書

„Jak powstało Pismo Święte” Ks. Wojciech Pikor, 2010

“The Bible Compass”  Dr. Edward Sri, 2009

“Gdy otwierasz Biblię” Ks. Rajmund Pietkiewicz, 1995

「教会における聖書の解釈」、教皇庁聖書委員会、1993

「カトリック教会のカテキズム」、1992(2002の翻訳)

「神の啓示に関する教義憲章」、第2バチカン公会議、1965

「福音書の歴史的真理性に関する指針」、教皇庁聖書委員会、1964

 
メッセージ - C年 年間

(ルカ11,1-13)

「イエスはある所で祈っておられた。祈りが終わると、弟子の一人がイエスに、『主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください』と言った。」ルカ11,1

 

宇宙万物の創り主である神は、全能者であるだけではなく、私たち一人ひとりを愛してくださる父でもあるのです。この愛のゆえに、神は私たちに必要な恵み必要な善を、常に、しかも、無条件に与えてくださるのです。

残念ながら、多くの人々は、神を信頼する代わりに、自分の思考や欲望、または、他の人の間違った助言を信頼していますので、神に向かって心を閉じて、神の賜物を受けないばかりか、自分の心の真の望みを満たすことのできないもの、結果的には自分に害を与えるものさえをも手に入れるように、一生懸命努めています。

幸いにも、やがて自分の力の限界を認めて、神に向かって祈る人もいます。確かにこの人たちは、自分の欲望が満たされることしか求めておらず、つまり、間違った動機に基づいて祈っていますが、神が彼らの期待通りに応えなくても、イエスが教えてくださったように信頼と忍耐を持って祈り続けるならば、少しずつ間違った欲望から、また、何の根拠のない期待、場合によって非現実的な期待から清められて、自分たちや他の人にとって真の善であるものを求めるようになるのです。

そして、自分が持っているすべての良いものが神から与えられたものであり、この賜物によって神がご自分の愛を表してくださる事実に気付いて、それを自覚するようになる人は、神を信頼するようになって、神が与えてくださるすべての賜物を受けるだけではなく、神の導きに従って生きるようにもなるのです。

このような祈りと生き方によって、人間は最高の賜物、つまりすべての良いものの与え主である神ご自身を、受け入れるために必要な心の準備ができるのです。神に象って、神に似せて創造された人間は、神ご自身を受け入れ、自分自身を神にささげることによって神と一つになって初めて、完全な安らぎ、完全な幸福、しかも永遠に続く安らぎと幸福を味わうようになるのです。