メッセージ - C年 復活節 |
第一朗読:使徒13,14.43-52
第一朗読の言葉は、パウロとバルナバの第一宣教旅行の間にピシディア州のアンティキアで行ったパウロの演説の一部であり、パウロが異邦人に対して宣教活動をする理由が示されています。パウロとバルナバは宣教活動する際、初めにユダヤ人に福音を述べ伝え、ナザレのイエスがメシアであると証ししまたが、この福音を認められなかった人々が大勢いました。このことにより、パウロとバルナバが異邦人に迎えられることになりました。このユダヤ人の大きな間違いが、異邦人に対して大きな恵みになりました。唯一の神を知らない異邦人がイエスを信じることで唯一の神の計画に入り、救われた人々となりました。ユダヤ人の間違いと異邦人の信仰の両方が、唯一の神による救いの計画の一部でした。神の御旨は、「わたしは、あなたを異邦人の光と定めた、あなたが、地の果てにまでも救いをもたらすために」ということですから。
第二朗読:黙示録7,9.14-17
イエスの時代までは、唯一の神を知らない異邦人に救済の可能性はありませんでしたが、キリスト者たち、特に聖パウロの宣教によってイエスに救われた人々になりました。だから、新エルサレム、天のエルサレムにユダヤ人だけではなく異邦人も唯一の神に向かって永遠に礼拝することができます。このことについて、福音者ヨハネが世界の終末について説明する書物(黙示録)の中で、啓示が現れたことが示されています。すべての人間は唯一の神に造られた者ですから、すべての人間が唯一の神に礼拝することが真実です。
福音書:ヨハネ10,27-30
イエス・キリストを信じている人々が彼の持ち物となり、イエスが羊飼いと呼ばれ、信者達が羊と呼ばれています。信者たちがイエスの声(教えと掟)に従い、イエスが信者達を世話し、守ります。イエスを信じているすべての人々(ユダヤ人も異邦人も)がイエスと共に永遠の命を迎えています。最後まで信仰を守れば、イエスを信じている人々はイエスの持ち物として、イエスの教会という体を通して天国に入ることができます。イエスの持ち物として私たちは心の平安を得ます。
メッセージ - C年 復活節 |
「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ」 (ヨハネ21,6)
本日の福音が紹介するキリストの復活の出来事は、御復活の目的について教えさせるものがあります。弟子たちが自分の意志に従がって漁に出て夜通し働いても、空しく、何も獲れませんでした。ところで、イエス様の一言、「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ。」に聞き従うと、一瞬の内に大きな魚153匹もかかりました。即ち、復活したキリストに聴き従うことは、人生を苦しみから喜びへと変えます。
人間が神様に従わない時、傲慢になって互いの分裂を起こし、命の主である神様から離れて罪と死の餌食になると、聖書全体は教えています。ご復活なさったキリストは命の主です。漁をしていた7人の弟子たちは、復活したキリストに従った瞬間から、初めて自分たちが目指している目標に達するばかりでなく、彼らの想像を遥かに超えた多くの魚を獲ることができました。そして、彼らは、復活したキリストに気付いて仲間に紹介する喜び、キリストに出会う喜び、キリストと共に交わる喜び、キリストの内に一致の喜びを味わうことができたのです。
神の子は人間となって、私たちに死に至るまで御父に従順の模範を示してくださいました。それは、私たちが命の主であるキリストに従うことによってのみ、地上の生活を成功させ、彼との一致の内に永遠に生きることができるためです。
弟子たちが獲れた魚の153匹という具体的な数字、それは当時知られていた魚の種類の数です。以前、ペトロを弟子に呼ばれたキリストは、人間をとる漁師にすることを約束してくださいました。この度の不思議な漁の奇跡は、キリストがペトロに、魚ではなく、出かけて人間をとる漁師としてすべての民に、主のご復活の「網」を打つ時が来たことを促してくださいました。
現代に生きる私たちは、キリストの神秘体としてご復活の信仰を証し、すべての人々が命の主であるキリストに従がって永遠の命に与るように働きかける使命に目覚める必要があります。その使命を果たすことができるように、神言会の創立者聖アーノルド・ヤンセンに倣い、次の言葉を持って祈りましょう。
「イエスの御心がすべての人の心に生きるようにしてください。」
メッセージ - C年 復活節 |
(ヨハ20,1-9)
「さて、あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい。」コロ 3:1-2
使徒たちの中で、ゼベダイの子ヨハネと思われる、「イエスが愛しておられたもう一人」の弟子だけが最後まで、つまり十字架のもとまでイエスに従いました。そのことができたのは、他の使徒よりもイエスを強く愛していたからでしょう。苦しみを受ける恐れや命を失う恐れを乗り越えるために必要な力をもたらした、イエスに対するこの大きな愛のゆえに、ヨハネはキリストの死のために他の使徒よりも深く悲しんだのではないかと思います。
そんなヨハネにとってイエスの復活は、どんな意義をもったのでしょうか。恐らく、それは何かの宗教的なことや神学的なことよりも、もう絶対に会うことの出来ないと思われた一番親しい人、自分の命よりも大切な友との再会が可能になったということだったのではないかと思います。復活されたイエスと出会ったヨハネはどんなに喜んだことでしょうか。
そして、それよりも素晴らしいことがありました。普段はどんなに深い友情であっても、どんなに美しい愛であっても、それには必ず終わりがあります。しかし、復活されたキリストはもう一度死ぬことがありませんので、いつまでもヨハネと共にいることが出来ます。それはもう何も、死さえもイエスと再会したヨハネを、イエスから引き離すことが出来ないということになるわけです。愛する人にとってそれ以上に素晴らしいこと、それ以上に喜ばしいことがあるのでしょうか。
イエスを信じるとは、イエスを愛することであって、イエスと永遠の絆で結ばれることなのです。イエスを信じている人は、ヨハネや数え切れないほど多くのキリスト者と共に、聖パウロの次の言葉を述べることができると思います。すなわち、「わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」(ロマ 8:38-39)これこそ永遠の命であり、最高の幸福と喜びなのです。
メッセージ - C年 四旬節 |
第一朗読: イザヤ50,4-7
第一朗読の言葉は、イザヤの二番目の主の僕の賛歌から引用した文です。この言葉で最も大切なメッセージは、主の僕への迫害に関する部分です。主の僕は唯一の神の言葉を聞き、唯一の神に教えられた通りに話し、疲れた者を言葉で励まします。しかし隣人に認められず、暴力や強い批判などを受けます。それは、いつ、どこであっても変わらない、主の僕の人生です。イザヤの時代のみならず、イエスの時代であっても、現代であっても同じことです。今日のみ言葉の礼拝では、この言葉がイエスの受難について予言します。
第二朗読: フィリピ2,6-11
イエスは唯一の神の僕です。なぜなら、イエスが唯一の神の救いの計画を完成したからです。イエスは唯一の神の御旨の通りに、罪の束縛や永遠の死から人間を解放しました。しかしそのために、イエスは自分の命を捧げなければなりませんでした。人間の救済はイエスの受難や復活によってなされた神の業です。この業についてパウロは具体的に説明し、この説明がキリスト教神学における一つの根本的な教えになりました。まず「キリストは、神の身分である」という表現は、イエス・キリストが永遠の神であることを表しています。つまり「イエスが神になった」という考え方は間違っているということです。次の、「かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました」という部分は、イエス・キリストが神の身分でありながら人間になったということです。つまり、イエス・キリストは二つの身分(完全な神の身分と完全な人間の身分)を持っていたということです。その次の、「へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」とは、ナザレのイエスが人間として唯一の神を信頼し、人間を救うために自分の命を捧げたことを示しています。また次の、「神はキリストを高く上げ」という部分は、人間に認められなかったイエスが神に認められて復活した後、天国まで高く上げられたことを表しています。次に「あらゆる名にまさる名をお与えになりました」とありますが、これはイエスが唯一の神から絶対的な権利を与えられ、全世界の支配者であり裁判官であり救い主である存在になったことを意味しています。最後の、「すべての舌が、『イエス・キリストは主である』と公に宣べて、父である神をたたえるのです。」という一節は、すべての人々がイエスを信じるということが望まれていることを表しています。
福音書: ルカ22,14-23,56
今日の福音書はイエスの受難に関する部分です。聖ルカはイエスの受難について次の大切な教えを示しています。すなわち、イエスの最後の晩餐がキリスト教の最初のミサになったこと(ルカ22、14-23)、ペトロがイエスの弟子たちの頭になるということ(ルカ22、24-38)、オリーブ山で行われたイエスの弟子たちの信仰の試験(ルカ22、39-62)、イエスの裁判(ルカ22,63-23、25)、十字架上でのイエスの死(ルカ23、26-56)です。ルカによるイエスの受難は、イエスとその周りの人々との様々な人間関係に特に注意が向けられています。登場する一人一人が、イエスとその受難に向けて異なる態度を取っています。
メッセージ - C年 四旬節 |
ルカ13,1-9
「言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。」ルカ 13:3
正しく生きる人であっても、正しくない生き方をしている人であっても、おそらく、世の終わりまで他人の悪い行いやいろいろな事故によって様々な害を受けることがあるでしょう。つまり、私たちは、いくら気をつけても、どんなことをしても、そのような苦しみを完全に避けることができないということです。
けれども、そのような苦しみを避けることができなくても、私たちは出遭う悪や苦しみによって滅ぼされること、また、命と最高の幸福の源である神から切り捨てられるというような究極的な苦しみと同時に絶対的な悪を避けることができます。そのために必要なのは、悔い改めなのです。
悔い改めるということは、メタノイアをすること、つまり自分の考え方や価値観を正すということなのです。正しい価値観を持つということは、悪を悪として、自分に害を与えるものを害を与えるものとして認め、善を善として、自分を生かすものを自分を生かすものとして認めることなのです。
それは、簡単なことに見えるかも知れませんが、実際には難しいことなのです。なぜなら、私たちは互いに矛盾している情報を与えられていますし、多くの場合は善や幸福を楽しみや快楽と間違って、物事の表面的な魅力や偽りの価値によって騙されるため、なかなか正しい判断ができないからです。
私たちは、善を悪から見分け、自分を生かすものを、自分に害を与えるものや自分を死なせるものから見分けるようになって、正しく考え、正しい判断をしたいならば、私たちを創造してくださったゆえに、誰よりも私たちのことを知っておられる方、しかも、私たちを愛してくださり、私たちのために善だけを求めておられる方の言葉に耳を傾け、この言葉に従う必要があるのです。