メッセージ - C年 四旬節

 

第一朗読: 創世記15,2-12.17-18

唯一の神はアブラハムと契約した。この契約には二つの要点があった。一つはアブラハムの子孫に関するもので、もう一つはアブラハムの子孫に与えられる約束の地に関するものである。約束したときには、アブラハムはまだ妻サライとの間に息子が生まれていなかったし、まだ自分の土地も持っていなかった。アブラムは年老いており、自分の力では信じられなかったが、神の言葉によって信頼した。その時代の習慣として約束のしるしが必要だったので、アブラハムは唯一の神にいけにえを捧げた。そのおかげで約束は果たされた。約束の一つ目は短期間のうちに完成されたが、契約の二つ目は完成されるまでに何百年もかかった。

 

第二朗読:フィリピ3,17-4,1

パウロの宣教活動によって、フィリピの人々の中でキリスト者になった者があったが、彼らはキリスト教ではない社会の中に存在して様々な迫害を受けた。その時あるキリスト者はキリスト者らしい習慣に従うかわりに、キリスト者ではない人々の習慣に合わせて生活したので、パウロはその信者たちにキリスト者としての生活について説明した。まず、キリスト者の本国がこの世ではなく天国であると伝えた。それは、この世界のことよりキリストの言葉に集中しなければならないということである。キリスト者はこの世を旅する人として生活しなければならない。つまり、目指すのはこの世界のことではなく宗教的なことである筈だ。この宗教的なことの中で最も大切なのは、イエスの再臨である。その時、キリスト者たちは迫害から救われるだけではなく、イエスと一緒に天国に戻ることができる。キリスト者の本国が天国だからである。しかし、それはイエスの約束である。この約束が完成されるまで、キリスト者らしく生活しながらイエスの言葉を信頼していなければならない。

 

福音書:ルカ9,28-36

イエスは山で祈っていうちに、いつしかモーセとエリヤと語り合っていた。モーセとエリヤはユダヤ教の歴史の中で最も大切な指導者であった。モーセは唯一の神の律法を民衆に伝えた。つまり、モーセというのは律法である。エリヤは唯一の神の宗教が迫害される時に、事実信仰と宗教を守るために予言者として活動した。したがって、エリヤというのは予言者たちの代表である。この三人、モーセ、エリヤとイエスはイエスの受難について話していた。そのことしかこの話の内容はわからない。しかし、この話の内容よりもっと大切なことは、唯一の神の証である。「これはわたしの子、選ばれた者。かれに聞け」という証は三つのことを表している。まず、唯一の神がイエスを自分の子と呼んでいること。次に、イエスが人間として神に選ばれた者であり、神の救いの計画を完成する者であること。最後に、唯一の神を信じている人々がイエスの言葉に従わなければならないことである。この三つのことを信じて、この教え通りに生活するキリスト者たちが、やがてイエスと一緒に本国に入る。

 
メッセージ - C年 四旬節

 

テーマ:「あなたは神である主を拝み、ただ主に仕えよ」(ルカ4,8)

四旬節の第1主日に当たって教会は、「イエス、荒れ野で悪魔から誘惑を受ける」という福音箇所が朗読されます。この福音の中では、次のようなことが私たちを驚かせます。イエス様が神の子であるにもかかわらず誘惑を受けたということや、人となった神自身を誘惑する強引な悪魔のあつかましさなどです。もう一つの驚きは、悪魔が悪いことをするように唆すのではなく、聖書に書かれた神様の御言葉を用いて、ズル賢い方法でキリストを誘惑するということです。人間に過ぎない私たちはなおさらではないでしょうか。誘惑を受けて負けてしまう私たちは大きな警戒心をもって気を付けなければなりません。

イエス・キリストは、三つの誘惑を退きました。その第一は、「神の子なら、この石に、パンになるように命じたらどうだ。」という誘惑です。荒れ野で40日間祈りと断食してきたイエス様が空腹を覚えていたので、キリストを愛する人もきっと、体の健康を心配して、イエス様に御馳走を食べさせたい気持ちがあることでしょう。別の福音箇所にあるように、空腹を感じた群衆にキリストは、五つのパンを取って、それを増加して5千人を養った奇跡を行いました。同じように、石がパンになるような奇跡それ自体が何も悪くありません。問題は、誰の意志に従がって奇跡を行うかということです。神様の御旨であるならば、それは、偉大な救いの業になります。しかし、悪魔の薦めであるから神様の御心から離れて、死をもたらす悪に近づくことになります。したがって、悪魔が神の言葉を語ろうとも、キリストはその言葉に従わず、誘惑に負けない模範を私たちに示してくださいました。

人祖アダムとエヴァが悪魔の誘惑に負けた罪は、全人類の罪の象徴となりました。悪魔は二人に、神様のようになるという素晴らしいことを薦めました。アダムとエヴァは悪魔の言うことを聞いたから、既に神様の似姿に造られていることを忘れて、神様から離れて神様のようになることに挑戦しました。神様に関係なく栄光を望むことは、人類の悪であり、罪深さであり、永遠の命の源である神様から離れて行くので、人間に死が訪れました。私たちを含めて、いつの時代の人も、神様無しにして自分たちの人生を計画するなら、悪魔の誘惑に負けて罪を犯したりします。そして、神様の怒りを恐れて、親密な愛の関係をますます作り難くなります。

キリストは、人間として私たちに悪魔の誘惑に打ち勝つ模範を示してくださいました。本日の福音のキリストは、洗礼の時に受けた聖霊に満たされたから悪魔の誘惑を退ける力が充分ありました。砂漠の中にいても、「神の霊」が充分だったから、悪魔からのパンもこの世の富も、どんな栄光や支配も必要としませんでした。私たちも、心の中で悪のために隙間もないように、祈りと秘跡を通して自分たちの心も人生のすべての次元も聖霊によって満たされるように呼ばれています。そして、キリストが死に至るまで神様の御旨を探し求めて御父に従順であったように、私たちも神様の御旨を行うことが自分たちの人生の目標と最大の喜びにする必要があります。誘惑を退けるためにキリストが悪魔に返事した御言葉は、私たちにも誘惑に打ち勝つ確実な武器であると思います。

「あなたは神である主を拝み、ただ主に仕えよ」

 
聖書が教えるカテキズム - 聖書が教えるカテキズム

 

「聖書が教えるカテキズム」20162月の講話

序.

カトリックの信条は、弟一箇条で御父である神様を信じる信仰、第二箇条で御子イエス・キリストを信じる信仰、第三箇条で聖霊を信じる信仰という内容を含んでいます。聖霊に対する信仰は、使徒信条の次のような節から成り立っています。

「聖霊を信じ、

聖なる普遍の教会、生徒の交わり、罪の赦し、体の復活、永遠のいのちを信じます。」

ニケア・コンスタンチノポールの信条は、聖霊に対する信仰を以下のとおりに提言します。

「わたしは信じます。主であり、いのちの与え主である聖霊を。

聖霊は父と子から出て、父と子と共に礼拝され、栄光を受け、また預言者をとおして語られました。わたしは、聖なる、普遍の、普遍の、使徒的、唯一の教会を信じます。罪のゆるしをもたらす唯一の洗礼を認め、死者の復活と来生のいのちを待ち望みます。」

 

聖霊に対するカトリック教会の信仰は、神様の第三ペルソナである聖霊とその働きである神様の命をこの世に与えること、そして聖霊の被造物である教会を信じることです。イエス・キリストは御昇天する直前に聖霊降臨を預言します。「 イエスは言われた。『父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない。あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。』 こう話し終わると、イエスは彼らが見ているうちに天+に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった。」(使徒言行録1章7-9節)その九日目に聖霊降臨の出来事が実現され、地上に目に見える教会が誕生し、聖霊を信じることは教会の信仰箇条となりました。

聖霊は、三位一体の神様の一つのペルソナ(位格)であることをキリストによる啓示から分るようになりました。また、第7講話でも紹介しましたように、キリストは最後の晩餐の時に弟子たちに御自身の代りに御父のもとから聖霊を送ることを約束してくださいました。

この講座の中では、聖霊の働きが教会に限らず、世の初めからキリストに至るまで聖霊は、旧約の預言者を通して働き語られ、聖書全体は聖霊の働きを様々な象徴で表現されています。

 

1.聖霊の呼称と象徴

1)ヘブライ語の「ルアー、Ruah」である聖霊

第二講話で、紹介しましたように、創世記は、世界創造の「初め」に、「神の霊が水の面を動いていた。」(創世記1章2節)と記されています。ここにヘブライ語の“Ruah Elohim”は、「神の霊」と訳されています。ルアー(Ruah)は、風、息吹、命の源を意味し、理性と自由意志を持つ霊的な存在を指しています。その意味を取って、キリスト教の神学は、キリストが啓示された聖霊に当てはめる存在であると信じています。ギリシア語の「プネウマ(Pneuma)」はヘブライ語の「ルアー(Ruah)」の翻訳となります。

 

2)ギリシア語の「パラクレートス・Paracletos」である聖霊

第7講話にも紹介しました最後の晩餐に語られたイエス様の言葉(ヨハネ16章7-15節)によりますと、聖霊は「弁護者」であると言います。ラテン語の“Advocatus(アドヴォカトウス)は「助けに呼ばれた者」という意味のことばです。(現在、advocatusha裁判などの弁護士のことです。)日本語の「弁護者」は、罪人の私たちを神様の前に弁護する方を示す用語です。しかし、原文のギリシア語で“Paracletos”は「共におられる方」という意味です。誰よりも身近な親しい存在である聖霊が人間を神様との交わりに加えられることを意味します。パラクレトスが同時に罪に定めた人の無罪を主張する者を指し示しますので、聖霊は、罪人の私たちを正し、神様の交わりに相応しくしてくださる方であることを示します。

 

3)他の聖霊の呼び名

聖霊は、旧約聖書で「神の霊」や「主の霊」と呼ばれます。キリストは、「弁護者」であると同じ意味で「慰め主」や「助け主」と言い、また、「真理の霊」(ヨハネ14,17)と言います。初代教会は、「キリストの霊」(ロマ8,9)、「御父の霊」(ルカ4,18)「栄光の霊」(一ペトロ4,14)、「神の子とする霊」(ロマ8,15)という名称を用いていました。

 

4)聖霊の働きを表現する象徴とその意味

働きによって、聖霊が以下のとおりに表現されています。

①    「息」は、命を与える霊

②    「風」は、神の到来を実現する霊、

③    「水」は、命、清め、「渇き」を癒す霊

④    「火」「光」は、愛、英知、導き、照らし、清め、成長を与える霊

⑤    「舌」は、神様との交わり、神様について証しする霊

⑥    「塗油」は、救い、喜び、癒し、一致、力、勝利、聖別、神の代理とする霊

*  油注がれた者=メシアであり、キリストであること

⑦    「雲」は、神の現存を現す霊

⑧    「証印」や「霊印」などは、神に属するようにし、とする霊

⑨    「手」は、助け、賜物を与える聖霊、愛の奉仕実現する霊

⑩    「指」は、悪霊を追いはらう聖理の業、神の掟を心に記し人を変える力である霊

⑪    「鳩」は、人に平和な住まい、聖潔、忠実、再生の恵み与える霊、

聖霊は、誠の神様である故に、以上の聖霊の働きの表現は、地上において至聖なる三位一体の神様の働きであると提言することができます。以上に紹介しました聖霊の象徴を聖書の中で啓示されている聖霊の働きを心に留める助けとなります。

 

2.「預言者をとおして語られた」聖霊

「預言者」と言われているのは、旧約時代にも新約時代にも神のことばを告知するために聖霊が霊感(息吹)を与えたすべての人たちです。この人たちの内にある聖霊の働きによって、ユダヤ教とキリスト教の聖なる伝承を持つ信じる共同体が誕生し、そのメンバーは神様を知って共に生き、神様の救いの業に与るように聖化されることができます。その伝承の中で聖霊の働きかけによって記された神のことばは、「聖書」と言います。

 

1) 世界の創り主である聖霊

聖書の初めに次の御言葉が書かれています。「初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった。」(創世記1章1~3節)世界創造の働きの中で、神のことばと共に聖霊の働きがあると聖書は言います。無の混沌に、存在と秩序を、暗闇に光を照らす聖霊は、神様の英知を現します。

 

2)人間創造に参与する聖霊

「神は言われた。『我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。』」(創世記1章26節) 「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。主なる神は、東の方のエデンに園を設け、自ら形づくった人をそこに置かれた。」(創世記2章7~8節)

神様は人を御自分の似姿に象って創られ、御自分の「息吹」である聖霊によって命を与えてエデン(喜び)の園に住まわせました。こうして聖霊は神様の愛です。人間は自由意志を持って神様の愛に答えて生きるならば、聖霊に満たされて永遠に生きることができます。

 

3)約束の霊

人間は、その最初の先祖アダムとエヴァの時から罪を犯し、神様の愛との命から離れて死すべき者となりました。しかし、神のゆるぎない愛の故に救いの約束は、楽園での陥落の瞬間から始まります。即ち、誘惑者である蛇の姿を取った悪魔に、神様は、「お前と女、お前の子孫と女の子孫の間にわたしは敵意を置く、彼はお前の頭を砕き、お前は彼のかかとを砕く。」(創世記3章15節)と言われて、人間の子孫が悪と戦う苦しみを受けるが、悪魔に打ち勝つことを預言し、救い主が生まれる約束をしてくださいました。この瞬間から、聖霊はこの約束の実現に向けて救いの歴史を出発させてくださいました。旧約時代にわたって、聖霊は、神様がご計画をなさった救いの営みを、救い主キリストの誕生に向けて運んでくださいました。そして、多くの預言者を通してキリストの到来のために準備してくださいました。

聖霊によって神様がイスラエルの最初の先祖アブラハム(紀元前19世紀)を選びました。神の救いの約束が実現するために、人間側からの信仰生活が必要です。アブラハムは、神様への信頼の故にすべてを捨てて神様が示す人生を始めました。その信仰の故に、神様は、彼に「あなたを祝福する人をわたしは祝福し、あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入る。」(創世記12章3節)ということを約束してくださいました。アブラハムを信じるすべての人の父と呼ぶようになりました。即ち、救いの約束に与るために信仰の恵みを受け、それに自由意志を持って応えて生きる必要があることを示しました。

王国時代に、預言者ナタンはダビデ王(紀元前10世紀)に神様から預かった次の預言を伝えました。「あなたが生涯を終え、先祖と共に眠るとき、あなたの身から出る子孫に跡を継がせ、その王国を揺るぎないものとする。この者がわたしの名のために家を建て、わたしは彼の王国の王座をとこしえに堅く据える。わたしは彼の父となり、彼はわたしの子となる。」(サムエル記下7章12-14節)と。したがって、旧約時代にメシアへの待望は、「ダビデの子」の内に実現し、彼は永遠に続く神の国をこの世に実現する約束となりました。それは、キリストが創立した「教会」の預言です。

預言者イザヤは、メシアが聖霊の力によって救いの業を成し遂げることを次のように預言した。「主はわたしに油を注ぎ、主なる神の霊がわたしをとらえた。わたしを遣わして貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。打ち砕かれた心を包み、捕らわれ人には自由を、つながれている人には解放を告知させるために。」(イザヤの預言61章1節)と。イエス様ご自身が、この預言が御自分の内に実現したと証しされました(ルカによる福音4章18‐19節)。

 

3.「神との契約」(律法)の中で働かれる聖霊

旧約聖書は、救いの歴史の中で神様は人間と四つの契約を結んだことを紹介します。それは、ノアの契約、アブラハムの契約、シナイ山の契約とダビデの契約です。神様は、救いの約束だけではなく、救いに導くために選ばれた人と選ばれた民と契約を結んでくださいました。それは、救いの条件を果たしていく限り、神様と結ばれることになり、救いにあずかることができるのです。その契約の条件は、神様がモーセに与えられた「神の十戒」を中心とする律法です。契約の締結を可能にするのは、人間側で働かれる聖霊でした。聖霊こそは神様に信頼する信仰と神様を愛する恵みの霊です。

 

1)「ノアの契約」

イスラエルの歴史前の出来事として聖書が紹介するノア物語の中で、堕落した人類が洪水に滅ぼされたが、無垢なノアの一家は動物と一緒に箱舟に乗って救われたことを紹介します。洪水の後に、感謝のいけにえを献げたノアと、神様は契約を結んだことについて次の御言葉が書かれています。「更に神は言われた。「あなたたちならびにあなたたちと共にいるすべての生き物と、代々とこしえにわたしが立てる契約のしるしはこれである。すなわち、わたしは雲の中にわたしの虹を置く。これはわたしと大地の間に立てた契約のしるしとなる。」(創世記9章12-13節) 円を描いて天と地を一つに結ぶように見える虹は、ここで正しい人を愛の内に神様と結ぶ聖霊の働きである「永遠の契約」を表現します。

 

2)「アブラハムの契約」

アブラハムはイスラエル人の最初の先祖であり、その契約は、歴史的な出来事である証明されます。創世記は、アブラハムに向けて次の神様のことばを啓示します。「これがあなたと結ぶわたしの契約である。あなたは多くの国民の父となる。あなたは、もはやアブラムではなく、アブラハムと名乗りなさい。あなたを多くの国民の父とするからである。わたしは、あなたをますます繁栄させ、諸国民の父とする。王となる者たちがあなたから出るであろう。わたしは、あなたとの間に、また後に続く子孫との間に契約を立て、それを永遠の契約とする。そして、あなたとあなたの子孫の神となる。(創世記17章4-7節)換言すれば、この契約の本質は、神様がアブラハムの血筋による子孫と、彼の信仰を受け継ぐ多くの民の「信じる人の父」となることです。神様は御自分の霊によって、神の民を作り、最終的にキリストが設立した教会を聖霊によって誕生するように導く契約です。

 

3)「シナイ山の契約」

シナイ山の契約は出エジプト記 19-24章の中で描かれています。シナイ山で神様がモーセに与えられた「神の十戒」で特徴づけられ、神のことばを守ることによって民は罪と悪から解放されて、神様と結ばれることによって真の自由な身分となります。聖霊の導きによって約束の地を目指して進むイスラエルの民は、信仰の内にすべての民が天国へと歩むことを促しています。神様と人間を結ばれる契約は、いけにえによって表現されました。屠られた小羊の血によって聖霊は、民を罪から清め、いけにえの煙は天と地を繋ぐように、神様と神の民が与え合う愛によって一つに結ばれる救いの業を表現します。

 

4)「ダビデの契約」

ダビデの契約は、シナイ山の契約に基づいてあり、ダビデの王座が、彼の子孫であるキリストによって永遠に続くという約束によって特徴づけられます。神様と人との間の愛と忠実が契約の条件となります。

 

結び.

神様が預言者たちを通して約束してくださった救い主と聖霊の注ぎによる救いは、歴史上、神の子の誕生によって実現され、キリストが実現した新しい契約は究極なものであり、すべての人がこれに与るように呼ばれています。次の講話の中で「時が満ちた」というキリストの時代に働かれる聖霊を紹介することに致します。

 

 
メッセージ - A年 待降節

 

(ルカ1,4-4.14-21)

「主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。」ルカ4,18-19

福音記者聖ルカが、自分の福音書をテオフィロという人のために書き記すと伝えています。テオフィロという名は「神に愛されている者」、また「神を愛している人」を意味します。父である神はすべての人を愛していますので、この福音書は、誰か一人の人のために書かれたのではなく、すべての人のために書かれたということになります。同じことを聖書全体についても言うことができます。すなわち、聖書は父である神がいろいろな人を通じて、御自分の愛する子らのために、送ってくださった手紙であるということなのです。

誰かが愛する人に手紙を送るとき、まず自分の愛を表したいのではないかと思います。同じように、父である神は聖書の言葉によって、私たち一人ひとりに対するご自分の愛を表しているのです。

また、親が自分の子どもに手紙を書くならば、その中でいろいろな注意をしたり、アドバイスを与えたりするし、子どもが困っているならば、その子を励まし、力付けるような言葉も書くでしょう。同じように、聖書の言葉によって、父である神は私たちを教え、導き、慰め、励ましてくださるのです。

そういう意味で聖書はどんな本よりも重要な書物ですが、その言葉は父である神が求めておられるような実を結ぶために、それを読む人には、神に対する信頼と開かれた心が必要です。なぜなら、多くの場合、神の教えは、私たちが慣れている考え方に逆らっているし、私たちの考え方の変更と同時に、生き方の変更をも要求しているからです。私たちは、聖書を読んで理解したことを実行することによってだけ、その言葉をますます深く理解することができるし、神の愛をますます強く実感し、自分が歩むべき道、また、父である神が私たちに与えてくださる使命を知ることができます。さらに、暗闇や困難の時にも聖書を読み続けると、神の言葉は必ず私たちを励まし力付けてくださるので、どんなときにも神のことばを読み、それに従って生きることができますように祈りましょう。

 
メッセージ - C年 年間

 

第一朗読:イザヤ62,1-5

第二朗読:1コリント12,4-11

福音書:ヨハネ2,1-12

 

キリスト教会とは、イエスを信じる全信者のことであり、この世におけるキリストの体である(1コリ12、27)。教会の中で不必要な人は一人もいない。すべての個人は教会にとって大切な者である(1コリ12,12-26)。一人一人が教会の委員として、信者として、キリストの体の一つの部分として、神から貰った聖霊の賜物によってキリストの体である教会のために生きることは、教会の共同体のために生きることである。

第一朗読は、予言者イザヤが、まだエルサレムが倒れている間に述べた、将来訪れるエルサレムの栄光についての予言である。国民の心を守るためにはそうすることしか出来なかったが、それ以上に非常に重要なことであった。この予言によって、ユダヤ人たちの心の中に国民の伝統や宗教の伝統などを守るのに必要な力が引き起こされた。イザヤは神から貰った賜物をユダヤ教を守るために使った。

使徒パウロがコリントの使徒への手紙を書いた理由は、信者たちが一つの教会であり、一つのキリストの体であり、共同体であるということを理解せず、教会の中でそれぞれのグループが自分達の栄光を望み、他のグループに対して競争するという関係を作っていたからである。競争することで、社会的な事件だけではなく宗教的な事件も起こっていた。例えばどのグループが神から最も大切な霊的な賜物を貰ったかという争いは一つの問題であった。このような問題を正すため、パウロは霊的な賜物について二つの重要な教えを与えた。それは、すべての霊的な賜物の源と、その目的である。霊的な賜物の源はいつも唯一の神であり、霊的な賜物の目的はキリストの体である教会の共同体を建てることである。

賢振式の時にキリスト教の信者たちは聖霊の賜物を受け、教会の共同体を建てるために霊的な賜物を使い、共同体として信仰の道を歩くことがキリスト者らしい心掛けである。

ヨハネ福音者によれば、カナでの御礼の際に行われたイエスの最初の秘跡は、体を癒すことや汚れた霊を追い出すことなどに関することではない。婚礼の時にぶどう酒が足りなくなるということは、世話役にとって恥ずかしいことであり、花婿と花嫁にとってよくないしるしであった(ヨハ2,3)。それは客の関与するところではなかった(ヨハ2,4)が、マリアの懇願により、イエスは困難に陥った人々を助けた。このような社会的な背景があるイエスの最初の軌跡は、イエスの栄光の現れ(ヨハネ2、11)というだけではなく、イエスがこの世で良い心を持っている人々の手(ヨハ3,7-8)を使って、必要とする人々を助けるということを証しする。