聖書が教えるカテキズム - 聖書が教えるカテキズム

「聖書が教えるカテキズム」20166月の講話

序.

この講話のテーマは、使徒信条の第三箇条が聖霊に対する信仰告白(「聖霊を信じ、聖なる普遍の教会、聖徒の交わり罪の赦し、体の復活、永遠のいのちを信じます。」)の中の2節を含みます。

その一つの「聖徒の交わり」というは、神様の御心に沿った信者同志、ならびに信者と神様との理想的な交わりに望みをかけます。信者も罪を犯すので、その「聖」は人間の力ではなく、教会の中で生き、働かれる聖霊によるものです。信者の一人ひとりが聖霊の恵みによって罪から解放されて清められるから、教会は次の節、「罪の赦し」を信じます。ニケア・コンスタンチノポール信条は、「罪の赦しをもたらす唯一の洗礼を認め(る)」と宣言します。すなわち、罪人を聖徒(聖人)に変化するのは、教会が父と子と聖霊の御名によって授ける「唯一の洗礼」によるものであると伝えています。いわゆる、洗礼を受けた信者は聖霊によって聖徒になり、至聖なる三位一体の神様の交わりに加わります。

「聖徒の交わり」は、ギリシア語で「コイノニア」、ラテン語で「コムニオ」と言います。初代教会の信者は、自分の内に神様の霊が生きていることを信じた故に、お互いのことを、「聖人」と言いました。そして、教会の誕生以来、「聖徒の交わり」の頂点は、主イエス・キリストが十字架上の死によって実現された「罪の赦し」、またキリストの御復活の命に与るために最後の晩餐の時に制定された御ミサの集いです。それは、御ミサの中でキリストの死と復活が現在化され、信者たちは御聖体の内に生きておられるキリストの御体と御血を拝領して聖化され、神様の命に満たされて唯一のキリストの内に一つになる「コムニオ」の神秘に与ります。

1.霊的善の分かち合い

すべての人に恐れが生じた。使徒たちによって多くの不思議な業としるしが行われていたのである。信者たちは皆一つになって、すべての物を共有にし、財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分け合った。そして、毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた。こうして、主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされたのである。(使徒言行録24347節)

 

聖霊降臨の後に地上の教会の交わりは、使徒言行録の引用通りになっていました。初代教会の「聖徒の交わり」によって皆は、無償に与える喜びと無償に頂く喜びがあり、キリストによって一つに結ばれた喜びもありました。それは霊的な善の分かち合いと言います。こうして、教会の交わりの中で次のような分かち合いを実践することになっていると言います。

信仰の分かち合い

教会は使徒たちから受けた教えによって信じ、それを分かち合いました。

秘跡の分かち合い

洗礼は、神様と人との聖なるキズナの始まりとし、その頂点と完成はエウカリスチア(御聖体の秘跡)にあります。(「家ごとにパンを裂く」とは、御ミサのことです。)

カリスマの分かち合い

聖霊は、教会を建てるために一人ひとりに特別の恩恵を与えます。それは、カリスマ(賜物)と言います。賜物を自分のためではなく、信者はキリストの愛を持って分かち合うことによって全体の益となり、教会の発展にも繋がります。

所有の分かち合い

すべてのものは神様が造られたものです。キリスト信者は、主の財産の管理者だから、所有を分かち合うことによって人を助け、活かす使命があります。

愛の分かち合い

信者は、自我を捨てて神様のために生きるなら、真の愛を持って教会の交わりを聖とします。生者も死者も連帯関係の中で多いなる恵みの中に生きることになります。したがって、使徒パウロは、ローマ教会に次の言葉を書いています。

「わたしたちの中には、だれ一人自分のために生きる人はなく、だれ一人自分のために死ぬ人もいません。わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。(ローマ教会への手紙147-8節)

2.天上の教会と地上の教会との交わり

御子はその体である教会の頭です。御子は初めの者、死者の中から最初に生まれた方です。こうして、すべてのことにおいて第一の者となられたのです。神は、御心のままに、満ちあふれるものを余すところなく御子の内に宿らせ、その十字架の血によって平和を打ち立て、地にあるものであれ、天にあるものであれ、万物をただ御子によって、御自分と和解させられました。あなたがたは、以前は神から離れ、悪い行いによって心の中で神に敵対していました。しかし今や、神は御子の肉の体において、その死によってあなたがたと和解し、御自身の前に聖なる者、キズのない者、とがめるところのない者としてくださいました。揺るぐことなく信仰に踏みとどまり、あなたがたが聞いた福音の希望から離れてはなりません。この福音は、世界中至るところの人々に宣べ伝えられており、わたしパウロは、それに仕える者とされました。

(コロサイ教会への手紙1章18-23節)

この聖書の箇所は、教会の交わりが地上の次元を超えることを明らかにします。教会の頭であるキリストが御自分の死と復活によって天と地を御自分の内に和睦させたので、したがって、唯一の教会には、目に見える地上の状態、そして、目に見えない天上の天国と煉獄の状態、合せて三つの状態があります。

1)地上の教会の状態

地上で洗礼を受けた者は信者であり、聖霊の恵みによって神様の子どもの資格を受けています。教会の中で一人ひとりが固有な立場と異なる任務があり、使命はただ一つです。すべてに及ぶ神の国の完成のために一人ひとりの信者は、キリストの神秘体の一部となるように招かれています。(参考聖書箇所:一コリント12,12-26)聖徒の交わりの中で共にキリストを生きる者だから、神様の前に皆は誠に平等です。

教会の役務は、キリストの愛と救いの業をこの世で執行する秘跡と密接に結ばれています。秘跡を授ける権能は、キリストから十二使徒に託されたもので、これをイエスの名によって行われています。使徒の後継者は神様から召命を受け、叙階の秘跡によってキリストの祭司職に与るように聖別された司教たちと司祭たちです。司教団と司祭団を助けるのは、叙階された助祭たちです。彼らは代々にわたって、キリストの代理者となって、キリストの名によって教え、典礼と秘跡を授ける奉仕によってキリストの救いの業を教会の中で実現していきます。彼らから秘跡を受けるすべての信徒が、神様への様々な奉仕によって教会を発展させます。こうして教会は、異なった奉仕のために位階制度をもっています。

キリストは、使徒たちの間で使徒ペトロに「あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」(マタイ1618-19節)と言われ、かれを選び、教会の頭とされたのです。使徒ペトロの後継者ローマ教会の司教である教皇様は、司教団を代表し、皆を一つに結びます。

司教、司祭、助祭は叙階によって聖別された信者なので、彼らのことを「聖職者」と言います。叙階されていない他の信者の皆は、「信徒」と言います。また、福音の薦めにしたがい、聖職者と信徒に関係なく、貞潔、聖貧、従順を誓って神様に自己奉献した者を、「修道者」と言います。それぞれの修道会は、模範的な「聖徒の交わり」を共同生活の中で実現しようとして、そのカリスマに応じた教会の使命を果たすために奉仕します。信徒は、聖職者から秘跡を受けて、キリストと共に教会共同体や家庭、また社会生活の中で神様から頂いた賜物を活かし、地上で神の国の実現のために奉仕して貢献します。

2)天上の教会の状態

「私たちの地上の住みかである幕屋(体)が滅びても、神によって建物が備えられていることを、私たちは知っています。人の手で造られたものではない天にある永遠の住みかです。」(第二コリント教会への手紙51-2節)。

引用された御言葉によりますと、使徒パウロは、聖徒の交わりが天上の教会で完成されると言います。神様によって義と認められた人たちは、地上の人生を終った後に、天国に入って救われます。天国で神様の栄光に包まれている信者は、キリストと密接に結ばれています。祈りと秘跡の内に地上の教会と天上の教会は一つになり、地上にいる私たちは、天国に先に召された仲間たちと一緒に神様の前に集い、神様を誉めたたえて天国の先取りを頂くことができます。「聖徒の交わり」の中で、私たちは天国にいる聖人たちの執り成しを願うことができます。また、彼らは神様の恵みによって、私たちの信仰生活の助けとなれます。

地上の信仰生活を送って、小罪や罪の償いを充分に果たしていない不完全なままに天に召されたすべての死者のために、教会は祈るように教えます。なぜなら、聖書の中では次のような御言葉があります。「罪から解かれるように死者のために祈ることは、聖であり健全な考えである。」(第二マカバイ記1245節)と。カトリック教会は、死者が清められる教会の状態を煉獄と言います。死者は、自分の時が過ぎたので、自分のために何もできないが、地上の教会のために祈って執り成すことができます。そして、地上に生きている信者と天に召されて煉獄の状態にある信者がお互いのために祈り、赦し合う故に両状態の教会信者は、「聖徒の交わり」を実現して行き、救いの完成の天国に導かれます。

(以上の理由により、カトリック教会は煉獄の存在を認めています。ところで、キリスト自身も聖書も煉獄について具体的に何も教えていないので、カトリック以外のキリスト教のある宗派は、死による人を清める状態があることを認めても、煉獄の存在を認めていません。)

3.教会の中での執り成し

「(イエスは言われた。『はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである。わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。こうして、父は子によって栄光をお受けになる。わたしの名によって何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう。』」(ヨハネによる福音1412-14節)

三つの状態にある唯一の教会は、聖徒の交わりとしてキリストの内に一つの家族に形成され、生者と死者が神様の子どもとして相互の愛の故に至聖なる三位一体の栄光に与れます。その愛の中で全教会はお互いのために執り成しています。

イエス様の内に神性と人生が一つになりますから、神様との間に私たちの真の仲介者は、イエス・キリストのみです。したがって、教会の祈りは、いつも、「私たちの主イエス・キリストによって」ささげられています。私たちが天国に入るためにイエス様は、地上で命を献げ、御復活して最初の人間として天国に昇られました。三つの状態の教会に現存する唯一主、イエス・キリストのお陰で、私たちは聖徒の交わりの中で一つの家族となります。キリストに合せて諸聖人も私たちのために執り成し、また、私たちも先に天に召された死者のために執り成すことができます。

罪の汚れを知ることなく、聖霊に満たされてこの世に御子イエスを生んだ聖母マリアは、親子の間にある誰よりもキリストと親密の関係を持ち、キリストのすべての救いの出来事を「心に納めた」(ルカ2,19)方であると福音は啓示します。したがって、教会は聖母マリアを信仰の模範、聖徒の交わりの「範型」、私たちのために御子に執り成す母であると言います。私たちも、聖母マリアのようなキリストとの親密の関係を求めて聖母マリアに執り成しの祈り(特にアヴェ・マリアの祈り)をささげる信心をもっています。

そして地上で信仰生活の極みに達した信者たちが天国に入ってキリストと密接に結ばれると、教会は信じます。地上で彼らにささげた執り成しの祈りが聞き入れられて奇跡によって、その聖性が証明された場合、教会は、彼らを列聖し、聖人と名付けます。彼らの残した模範と執り成しによって私たちをキリストとより密接に結ばれる力となります。

4.「罪の赦しを信じます」

(イエスは使徒たちに)息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」(ヨハネによる福音2022-23節)

 

以上の福音の箇所には、復活したキリストは使徒たちに地上で罪を赦す権能をお与えになりました。赦す権能は、人間の力によるものではなく、キリストが使徒たちを通して教会に与えてくださった聖霊によるものです。したがって、教会は、聖霊を信じるから、「罪の赦し」の信仰を告白します。聖マルコによる福音の中で、「イエスは言われた。『全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける。』」(マルコによる福音1615-16節)と書いています。「罪の赦し」のために、福音を信じて洗礼を受けねばならないとイエス様は協調しています。したがって、教会はキリストが制定された罪の赦しをもたらす唯一の洗礼を信じます。この洗礼は、人間の本性の汚れである原罪を聖霊によって取り除き、人を神様の子どもにします。

キリストは、十字架上で流された血によって、人類を罪から解放しました。それを永久に執行するために、キリストは最後の晩餐の時に、「杯を取り、感謝の祈りを唱え、彼らに渡して言われた。『皆、この杯から飲みなさい。これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。』」(マタイによる福音書2627-28節)と言われました。こうして、キリストの死と復活の記念する教会のすべての秘跡がすべての人の罪の赦しのために効果的であることを、教会は信じます。

結び

次回は、聖霊の恵みによって、キリストの救いが私たちの体の復活と永遠の命を頂くことによって私たちの内に実現する信仰の内容を紹介することになります。即ち、「体の復活、永遠のいのちを信じます」という使徒信条の最後の2節を紹介します。

 
メッセージ - C年 年間

テーマ: 「善きサマリア人の例え話」

キリストの「善きサマリア人」の例え話は、エルサレムからエリコへ下って行く途中、追いはぎに襲われて半殺しにされた人が、ユダヤ教の聖職者である祭司とレビ人によって助けられることなく、ユダヤ人の敵と見なされていたサマリア人によって救われたことを紹介します。この福音の目的は、慈悲深い者になるように教えることより、「何をしたら永遠の命を受け継ぐか」という律法の専門家の質問への答えです。

律法の専門家は、聖書から答えが分かっていましたが、イエス様を試すために質問しました。だから、キリストは、あなたが聖書を読んでいる通りであるとお答えしました。その答えは、「愛の掟」を二つ守ることです。即ち、すべてを尽して神様を愛すること、隣人を自分のように愛することです。この点については、イエス様と律法の専門家の考えが一致しています。しかし、次の「わたしの隣人とは誰ですか」という律法学者の質問は、両者の心が極端に違うことを示しています。

律法学者たちは、律法を守らない罪人が神様に嫌われている敵であると見なして、彼らを憎むことが正しいと思っていました。福音の律法の専門家は、周りの人が律法を破るから、誰も隣人だと思いませんでした。「隣人を愛し、敵を憎め」という伝統的な教えに対し、キリストは、「敵を愛しなさい」(マタイ5章44節)とお教えになりました。

福音の祭司とレビ人が律法を守っても、永遠の命を頂く保証はないとイエス・キリストは指摘します。よって、ユダヤ人の聖職者である福音の二人は、自分の都合に合せて聖書を解釈して、汚れるからと思って怪我人を隣人だと認めることなく、愛の欠如のために永遠の命を受け継ぐことができない状態にあります。しかし、異邦人のサマリア人が律法を知ることも守ろうともしないのに、永遠の命を受け継ぐことができるとイエス様は証明しました。なぜなら、彼は敵の国の人をも、自分のように愛する実践によって隣人関係を示しました。

現代に生きる私たちは、律法学者のように自分を正当化しようとして、決めた祈りをしたり、守るべき御ミサに与ったり、掟を守もったりするからと言って、これだけで永遠の命を受け継ぐと思ってはいけません。

「わたしの隣人とはだれですか」という質問によって、永遠の命への道を見出すことができません。なぜなら、その質問をする人は、自分を愛する人を捜しますが、自ら誰をも愛していない状態を表します。キリストは、律法学者に薦められたように、私たちの一人ひとりにも永遠の命を受け継ぐ方法を教えてくださいます。それは、次のような質問をいつも自分に言い聞かせることです。

「わたしは、出会うすべての人の隣人になっているか。」と。

 

 
メッセージ - C年 年間

ルカ10:1-2, 17-20

 

イエスはご自分の宣教に先立って、まず七十二人を任命し遣わされました。私たちも皆、主に遣わされた宣教者です。七十二人の中の一人として、それぞれ自分の場に遣わされています。その派遣にあたって、いくつかのことが命じられています。

 

「働き手を送って下さるように主に願いなさい」

働くのは私たちですが、私たちを遣わされるのは神であり、そこに現れるのは私たちの力ではなく、神のみ業です。

 

「財布も袋も履物も持って行くな」

物質的な何かではなく、神の助けがあることに全幅の信頼を寄せるよう求められます。

 

「途中でだれにも挨拶をするな」

道草を食いながら、井戸端会議で時間をつぶしながら行く余裕はありません。他の何かに気を取られず、まず第一に神の国を告げ知らせるよう急かされています。

 

「『この家に平和があるように』と言いなさい」

私たちが告げるのは平和です。ですから神の国は「平和」と言い換えることができます。平和とは、第一朗読のイザヤによれば、母が子を慰めるような神の愛です。

 

「その家に泊まって、そこで出される物を食べ、また飲みなさい」「家から家へと渡り歩くな」

必要なものは感謝して頂きますが、自分が欲しい報酬のために働くのではありません。また、よりよい報酬を求めて、あっちに行ったりこっちに行ったりするのは良いことではありません。

 

「その町の病人をいやし、『神の国はあなた方に近づいた』と言いなさい」

これまでのほとんどのことは、派遣されるに当たっての心構えでしたが、ここで私たちに託されている中心的な使命がのべられています。

それは言葉と行いの両方で、神の国(平和、つまり神の愛)を示すことです。

 

狼の群れの中に送り込まれる羊だとしても、力強く歩んでいくことができるよう、これらのことを私たちへの励ましと導きとして心にとめたいと思います。

 
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「聖書が教えるカテキズム」20165月の講話

天地創造の時から御父の御心の内に計画された教会は、御子イエス・キリストによって創立され、聖霊の注ぎによって地上で実現されました。イエス・キリスト御自身の言葉と使徒たちの教えに基づきますと、教会はただ一つであり、聖霊によって聖とされ、すべての人のために普遍であり、使徒たちが残した信仰を土台にして未来へと発展しています。したがって、ニケア・コンスタンチノポール信条は、わたしは、聖なる、普遍の、使徒的、唯一の教会を信じます。」と言って教会に対する信仰を宣言します。信仰宣言の原文によりますと、教会の特質の順番は、「一」、「聖」、「公(普遍)」、「使徒伝承」となります。教会が一つであると強調されています。

この講話は、教会の四つの特質、そして教会が持つ精神や特徴などを紹介します。

1.「一」である教会

「父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちの内にいるようにしてください。そうすれば、世は、あなたがわたしをお遣わしになったことを、信じるようになります。あなたがくださった栄光を、わたしは彼らに与えました。わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためです。わたしが彼らの内におり、あなたがわたしの内におられるのは、彼らが完全に一つになるためです。」(ヨハネによる福音17章21~23節)

 

以上の引用は、キリストが御受難を受ける前に、最後の晩餐の時に弟子たちの前に御父にささげられた祈りの一部です。キリストは弟子たちを始め、すべての信者の一致のために力強く御父に祈りました。弟子たちが福音宣教して誕生するすべての教会共同体は、キリストの内に完全に結ばれるためです。一つになる心は、キリストが最後の晩餐の時に制定された御聖体の秘跡の内に現しました。即ち、イエス様は一つのパンを取って、御自分の体に聖変化され、弟子たちに分け与えてくださいました。こうして、唯一の主、イエス・キリストは弟子たちの内に生きるようになって、彼らを御自分の内に一つにしてくださったのです。

多種のたまもの、様々な民族や文化、多様な任務や生活様式にある教会が自分の特質として一つであるとは、唯一の神にその源があり、唯一の教会の創立者主キリスト、地上に教会を誕生させ、満たして成長させる唯一の主なる聖霊によるものです。その結果として、教会は唯一の信仰宣言、唯一の洗礼、一つの礼拝をもって神様を賛美します。一致を完成させる絆は、キリストが十字架上で表した無限な神様の愛です。

教会の一致を損なうのは、神様の限界ではなく、人間側の罪です。教会共同体内外の争い、異端、背教、離教などの罪は分裂をもたらし、教会全体を種々の団体や宗派などに分かれます。しかし、神様の変わらぬ愛は、私たちを違ったり分けたりすることは決してありません。神様は、いつも全教会が一つになるように聖霊を注いでくださいます。

2.「聖」である教会

「あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい。これらすべてに加えて、愛を身に着けなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです。また、キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。この平和にあずからせるために、あなたがたは招かれて一つの体とされたのです。いつも感謝していなさい。キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、諭し合い、詩編と賛歌と霊的な歌により、感謝して心から神をほめたたえなさい。そして、何を話すにせよ、行うにせよ、すべてを主イエスの名によって行い、イエスによって、父である神に感謝しなさい。」(コロサイ教会への手紙3章12-17節)

 

人間の本性が罪によって傷を負っているから、教会の信者も、罪深い者です。ところで、以上の御言葉は、私たちに神様がお考えになった人間らしい聖なる生き方を描いています。神の子、イエス・キリストは、この世に、「罪人を招いて悔い改めさせるために」(ルカによる福音5章32節)、そして、ご自分の死と復活によってすべての人を聖とするために来られました。キリストは、代々にわたって洗礼や他の教会の秘跡を通して、一人ひとりの信者を聖化させ、神の子どもとする恵みを与えてくださいます。したがって、使徒パウロはこう書いています。「キリストがそうなさったのは、言葉を伴う水の洗いによって、教会を清めて聖なるものとし、しみやしわやそのたぐいのものは何一つない、聖なる、汚れのない、栄光に輝く教会を御自分の前に立たせるためでした。」(エフェソ教会への手紙5章26-27節)と。

教会の「聖」は、地上において未完成のままです。人間の行いのためではなく、教会で実現される神様の恵みと救いの業によって、教会は「聖」です。聖性の魂は愛です。聖性の完成は救いの恵みに応えた信者の内に天上の教会で完成されます。そのために教会の信者がこの地上で、謙遜に自分の罪深さを認めて悔い改め、神様の恵みに心を開き、その慈しみと愛に応え、キリストのように生きることに招かれています。

地上においても神様の恵みに忠実に生きた信者を、教会は列聖します。列聖された聖人たちは、困難にあっても神様の愛に応えて聖なる生き方の模範を示し、今よりも代々にわたって教会の霊的な刷新に貢献する者となりました。特に、キリストとの親密な関係の中で生涯を生きた聖母マリアの内に、教会がまったく聖なるものであることを信じています。

3.「公(普遍)」である教会

「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」(マタイによる福音28章19-20節)

 

教会の名称となる「カトリック」(ラテン語でCatholica)という言葉は、「普遍」という意味を持っています。教会は、神様のものですからすべてのためであり、欠けることなく「すべてを含む」という意味です。以上の御言葉の引用の中では、イエス様が御昇天なさる直前に遺言として残した教会の普遍性の意味を言われています。教会は、特定の宗教団体(例えばカトリック教会)のためではなく、特質として、すべての人を含むものにしなければなりません。教会は宣教するためにキリストによって派遣され、キリストの教えを伝え、洗礼を授けて、すべての人をキリストの弟子にし、三位一体の交わりの中に加わるように使命を受けているからです。キリストがすべての人の救い主であり、教会の内に現存されるので、私たちは普遍の教会を信じます。

全世界に広がる「部分教会」は、教区や小教区に分けられているが、すべてが普遍です。なぜなら、各共同体がキリストの名によって集まり、同じキリストがそこに現存するからです。そして、すべての部分教会は、ローマ教会との交わりよって御自分の普遍性を目に見える特質とします。初代のローマ教会の教皇は使徒ペトロだからです。イエス様は使徒ペトロに次のように言われました。「あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。」(マタイによる福音書16章18節)と。いわゆる、使徒ペトロが告白した信仰は、十二使徒の信仰告白を総括し、その信仰の上に教会を建てる約束してくださったからです。

4.「使徒伝承」である教会

「週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』と言われた。 そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。イエスは重ねて言われた。『あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。』 そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。」(ヨハネによる福音20章19-22節)

以上の福音箇所の中に記されている御復活なさったキリストの言葉によりますと、使徒伝承である教会には三つの意味があります。

①   教会は「使徒という土台」(エフェソへの手紙2章20節)の上に建てられたものです。

②   教会は、使徒たちがキリストから聖霊を頂いて、キリストによる成し遂げられた救いの  恵みの管理者に任命され、キリストと同じ使命を果たすように遣わされています。

③ 教会は、世の終わりまで使徒の後継者である司教団によって教えられ、導かれ、聖化されるようにキリストによって選ばれています。そして、キリストが世の終わりまでいつも共におられることを約束してくださいました。(マタイによる福音28章20b節)

5.教会の定義

教会は、信仰生活の体験によって、自分自身を次のように定義しています。「教会は、神の民、キリストの体、聖霊の神殿である」と。

1)教会は神の民である。

「あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です。それは、あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業を、あなたがたが広く伝えるためなのです。あなたがたは、『かつては神の民ではなかったが、今は神の民であり、憐れみを受けなかったが、今は憐れみを受けている』のです。」(ペトロの第一手紙2910節)

神の民である教会は、歴史上のすべての宗教、民族的、政治的団体と異なり、神御自身に属して統治されています。そのメンバーは体の誕生によるのではなく、水と霊によって「上」から生れた者です。油注がれた者として、キリストの持っている救いの使命を果たし、神様の子どもの品位と自由を持っています。その使命は、「地の塩、世の光」として、人類に神様の救いを芽生えさせ、その目的は、キリストと一致して神の国の実現に貢献することです。キリストの祭司職に与って世界を聖別し、キリストの預言職に与ってキリストについて証をし、キリストの王職に与って神様の愛を持って奉仕のために自分を尽して捧げられたものとなります。

2)教会はキリストの体である

「あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。 神は、教会の中にいろいろな人をお立てになりました。第一に使徒、第二に預言者、第三に教師、次に奇跡を行う者、その次に病気をいやす賜物を持つ者、援助する者、管理する者、異言を語る者などです。」(コリントの第一手紙12章27~28節)

イエス様は、ご自身の霊によって全世界に広がる教会の一人ひとりの信者の心に生きておられます。それぞれの信者は神から頂いた賜物を用いながら救いの業を行っています。この意味で教会の信者は、イエス・キリストの体となります。したがって、全世界で救いの業を実現していくのは、「全キリスト」である教会であると言います。キリストは「教会の頭」(コラサイ1,18)であり、教会はキリストの「花嫁」であるとも言います。その目に見えるしるしは、御ミサの時に信者たちが頂くキリストの御体です。聖体拝領によって唯一のキリストは多くの信者の内に生きるようになり、皆はキリストの神秘体になるのです。イエス・キリストは、最後の晩餐の時に御自身をぶどうの木に例え(参考資料:ヨハネによる福音15章)、「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。」と言われました。枝が木に繋がっていなければ枯れてしまうから、キリストは、すべての人が永遠に生きるために、御自身に繋ぐように強いて教えてくださいました。

3)教会は聖霊の神殿である

「知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい。」

(コリントの第一手紙6章19~20節)

神様を否定しない限り、聖霊の働きは、どんな人の内にも可能です。しかし、洗礼によって神様の子どもとなる聖霊を受けた信者は、聖霊の住まいになります。使徒パウロは、信者の一人ひとりは「聖霊の神殿である。」と言います。私たちは、人間的な弱さや罪深さによって聖霊の働きを妨げることがないように、心を開いて聖霊の愛の働きが教会と世界を清め、生かしていくために聖霊の道具になるように呼ばれています。

6.教会の精神を示す四つの特徴

「ペトロの言葉を受け入れた人々は洗礼を受け、その日に三千人ほどが仲間に加わった。

彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった。」

使徒言行録2章41~42節

聖霊降臨の後に、使徒ペトロは集まった群衆に、キリストの死と復活によって成し遂げられた救いの業について証しすると、その日に3千人程が洗礼を受けて、地上の目に見える教会が発足されました。教会の信者を識別する精神は使徒言行録を引用された上記の箇所の通りです。

一つ目は、「使徒の教え」です。それは、使徒たちがキリストの内に見出した神様を紹介し、救いの福音を宣べ伝えることです。

二つ目は、「相互の交わり」です。それは、神様の呼びかけに応えて神様の家族として一つに集まることです。

三つ目は、「パンを裂くこと」です。それは、最後の晩餐の再現である御ミサに参加してキリストの内に皆が一つになることです。

四つ目は、「祈ることに熱心」です。それは、祈りを形式的ではなく、三位一体の交わりの中での神様と親密の交わりを作り上げることです。

結び

次回は、「聖徒の交わりを信じる」という信仰の内容を意識して、地上の教会の構造と召命、そして天上の霊的な教会を紹介することになります。

 
メッセージ - C年 年間

(ルカ9,51-62)

「イエスは、天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた。」ルカ9,51

人類の歴史を見ると、殆どの権力者は、手に入れた権力を弱い人や完全に無力な人々の利益のために用いるのではなく、自分自身や自分の仲間の利益のために用いているということが分かります。また、何らかの悪事を行ったためではなく、権力者に逆らったために罰せられることも、珍しくないでしょう。

以上の経験に基づいて、多くの人は、最高の支配者、最高の権力者である神が、この地上の多くの支配者や権力者と同じように振る舞っておられると、思い込んでいるようです。イエスを歓迎しなかったサマリア人を滅ぼし、復讐しようとしていたイエスの弟子たちは、きっと、このように考えていたのでしょう。

天から来られた方として、神のことを完全に知っておられたイエスは、多くの人々が想像している神とまったく異なる神を、ご自分の言葉と行いによって現してくださいました。弟子たちに、復讐を禁じることによってイエスが教えてくださったのは、神がご自分に逆らう人々に対して、絶対に罰を与えないし、復讐もしないということなのです。「エルサレムに向かう決意を固められた」ことによって、イエスは神についてさらに素晴らしいことを現してくださいます。

イエス・キリストが、ご自分に対して敵意を持って、ご自分を殺そうとしていた権力者が大勢いるエルサレムに行かれたのは、この人たちを滅ぼすためではなく、この人たちにも神の愛を現し、回心へと呼びかけ、神との愛の交わりに招くためなのです。確かにイエスは、権力者たちがご自分の証しを受け入れないこと、ご自分の呼びかけと招きに応える代わりに、ご自分を殺してしまうことを知っておられました。それにもかかわらず、エルサレムに行くことにされたのは、苦しみを避けたい、ご自分の命を守りたいというような望みよりも、彼らにも神の愛を現したい、彼らを神のもとに導きたいという望みの方が強かったからです。その意味で、エルサレムに行くことは、ご自分に対して敵意を持っていた人に対する真の愛の表現であったとともに、すべての人々に対する神の愛を現す行動でもあったのです。

神の意志に逆らって罪を犯した人間や、大きな悪事を行い、他の人と神ご自身を傷付けた人さえを愛し続けて、この人の救いを求め、いつも和解と愛の交わりへと招いておられる神に信頼して、神の招きに応える人がますます増え、神の国が発展していきますように祈りましょう。