メッセージ - C年 年間

テーマ : キリスト

第一朗読:ゼカリヤ12,10-11;13,1

第一朗読の言葉はゼカリヤ書の第二部分(ゼカリヤ9-14)終末論的な教えに関する言葉です。紀元前4世紀に書かれた言葉は「刺し貫いた者」についての預言です。預言者が誰についてこの預言をしたかがよく分かりませんが新約聖書の中では「刺し貫いた者」はイエスです(ヨハ7、37-39;19、34.37)。

第二朗読:ガラテヤ3,26-29

第二朗読の言葉は「律法と信仰」に関する問題(ガラ3,1-4、20)についてのパウロの論戦の中の一つの議論です。パウロによれば人間は信仰による義を強いられます(ガラ3、24)。信仰によって義と認められたすべての信者たち(ユダヤ人だけではなく異邦人にも)はイエスの業おかげで神の子供になりました。

福音朗読:ルカ9,18-24

イエスについて人々の意見は異なっていました(ルカ9、18-19)。イエスの弟子たちの中でペトロがイエスの質問に正しい答えをしました(ルカ9、20-21)。しかし、質問に正しい答えを出すこととイエス自身を正しく理解できることは同じことではありません。だから、神のメシヤであるイエスが人間として(人の子として)受難を受けます(ルカ9、22)。弟子たちはこのイエスの説明を復活際まで理解できませんでした。

 

 
メッセージ - C年 年間

 

この主日に朗読される福音(ルカ7,36-50)は、イエス様がファリサイ派の人の家に招かれて食事の席に着かれた時に、罪深い女がやって来て涙で彼の足を濡らして自分の髪の毛で拭い、接吻して高級の香油を塗った出来事を描いています。ファリサイ派の人は、イエス様が神様から来られた預言者なら罪深い女を追い払ったはずだと思い込んで、キリストを不審に思っていました。

真面目に働く人に報い、働かない人を辞めさせること、義人を誉め、悪人を罰することは社会常識になっています。自分に親切な人を愛し、失礼な人に対して反感を持って遠ざけることも人間の常識とも言えるでしょう。しかし、このような世間的な価値観を神様に当てはめることは大変な間違いです。神様は、義人を天国へ、罪深い人を地獄へ送ろうとする方ではありません。本日の福音が紹介するファリサイ派の人は、このような過ちを犯しました。

神様の愛と慈しみは、私たちの行いによって変わることなく、私たちに無償で無条件に与えられるものです。私たちが神様を愛したから、神様は私たちを愛してくださったのではなく、神様は先に私たちを愛し、罪深い私たちをイエス・キリストの十字架の死によって赦してくださったのです。自分が義人であると思ったファリサイ派の人は、神様に罪の負債がないと思い込んで、キリストに対する小さな親切だけを表します。罪をたくさん犯した女は、すべてを無償に赦された喜びから、キリストに対する大いなる愛を示しました。したがって、キリストは、ファリサイ派の人に、「この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。」と仰いました。

私たちは、自分と他人の罪の重さを比較してはいけません。なぜなら、罪によって人類の本性が傷つけられているので、誰であれ、大変な罪を犯す危険にさらされているからです。大切なのは、人間の罪深さに目を向けることなく、神様の愛、恵み、慈しみと赦しを見つめて、それを心に留め、喜びと感謝の内に生きることです。特に信者は、洗礼の恵みを受け、罪を取り除いて永遠の命を頂き、御ミサに参加して永遠の命の糧に養われている恵みをたくさん生きているはずです。天国は地上で稼いで得るものではなく、神様の救いによる恵みです。この恵みに与るために、神様の愛に応えて愛を実践して生きることは、信仰生活の最も大切な側面です。

神様の愛に応えずに悪事を行うなら、救いに与れない恐れがあります。私たちは神様に愛されたから愛することができるので、不完全な人間の常識を超えてキリストに倣い、相手の善悪に関係なく、すすんで人を愛して無償の愛で人を赦すように招かれています。

 
メッセージ - C年 年間

ルカ7:11-17

イエスがある母親の、死んでしまった一人息子を起き上がらせたのは、この母親を見て、憐れに思ったからでした。それは決して、神の子としての自分の力を誇示するためではありませんでした。ですから、この癒やしに立ち会った人々も、奇跡を行ったイエスではなく、このような大預言者を彼らの間に現れさせ、民を心にかけてくださった「神を賛美した」、と言われています。

夫を亡くし、母一人子一人で生きてきたやもめが、たった一人の家族である愛する息子を亡くして悲しみにうちひしがれ泣いているのを見て、イエスは心を動かされ、憐れに思われました。そして、「近づいて棺に手を触れられ」ました。それは、強制されてではない、イエスの側からの積極的な介入、それも愛に基づく働きかけでした。

私たちの中で現される神の働きは、私たちを愛するがゆえの、神の側からの積極的な介入です。私たちを愛して下さる神は、私たちに近づき、手をさし延べ、触れて、手を取って起き上がらせてくださいます。私たちはそのさし延べられた手に気づいて、その手にすがって、引き上げていただくだけです。

 
メッセージ - C年 祭祝日

ルカ9:11b-17

イエスが5千人に食べ物を与える奇跡を行ったのは、12人の弟子がそれぞれ発見された町や村から帰ってきたばかりの時でした。彼らはイエスの名において教えたことや人々のために行ったことをイエスに報告しました。達成感を感じた一方、体力的には疲れていることは、想像できます。そこでイエスは弟子たちを連れてベトサイだという町に退きました。そこで力を取り戻すために静かな時間を過ごすのを考えていたことでしょう。しかし、その予定が群衆の耳に入ってしまいました。そこで、イエスは弟子たちをゆっくりさせる予定よりも、自分のところに来た群衆を優先し、彼らを迎え、彼らに神の国について語り、治療の必要な人々を癒しました。そして、夕暮れになっても群衆はなかなか解散してくれませんでした。

『群衆を解散させるように』という弟子たちの提案は合理的なものだし、現実味のある提案です。持っている五つのパンと二匹の魚で5千人を食べさせるはずがないです。しかし、イエスにとっての最優先順位はやはり目の前にいる人々です。せっかく自分のところに来た人々をそこで帰す訳にはいけません。決断に迫られる時の決断は、イエスのものの見方と弟子たちのものの見方の違いを示しています。弟子たちは、先ず自分の持っているものから、何が人々のために出来るのか、何ができないのかを考え、決断するのです。自分たちの現実の範囲内で、人々への奉仕をするということです。それに対して、イエスは先ず目の前にいる人々が最も必要とするものは何かということを考えた上で、そこで何をやらなければならないかを判断するのです。ですから、『群衆を解散させるように』という弟子たちの提案に対して、『いや、あなた方が彼らに食べ物を与えなさい』とイエスは弟子たちに言った訳です。

宣教現場から帰ってきて、せっかく休もうとする弟子たちに、イエスは新たな課題、新たな使命をまかせました。しかし、イエスは単に使命を任せるのではなく、弟子たちにそれを成し遂げる方法を教えました。それは、パンを取って、神に祈りを捧げて、裂いて、人々に渡すことです。そのパンはイエスご自身です。十字架の上でイエスは御自分を捧げて、御自分を裂いて、御自分を人々に明け渡すのです。ご自身を与えつくすことによって、イエスは全ての人に救いの恵みを有り余るほど注いでくださることで出来たのです。つまり、パンの奇跡は本当の意味で、十字架上で示されるということです。

今イエスが私たちに与えた使命、イエスが私たちに残したチャレンジは決して簡単なものではありません。私たちも、いろいろな面で、夕暮れに追われている弟子たちと同じように『群衆を解散させてください』とイエスに叫びたくなるような状況に迫られているのではないかと思います。このような時に、宣教の十字路に立たされる時に、私たちはやはりイエスの姿を見、その模範を習わなければいけないのです。私たちも、置かれている現実を見ながらも、目の前にいる人々を最後まであきらめないイエスに習わなければならないのです。私たちも自分を捧げること、自分を裂くこと(時間、持っているもの、など)、自分を明け渡すことが今まで以上に求められるのです。今の時代の人々はある意味でパンの奇跡を必要とするのです。その奇跡を実現するのが私たちの使命だということです。「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」。

 

月曜日

今週の第一朗読、特に今日から木曜日までは、トビト記からトビトの話が読まれます。トビトの話は、信仰を歩む人の物語でもあります。そこには人の心のやさしさと強さ、苦しみと失望、そして、ドン底の苦しみから生まれる希望と信仰が生々しく描かれています。今日お聞きになった部分には、トビトの心の優しさがよく現れます。お祝いの食事を目の前にしても、それを食べずに異国の地ニネベの町に同胞の貧しいイスラエル人がいないかとずっと待っているトビト。危険なことだと知りながら、次々と殺されたイスラエル人を葬って、その死を悲しむトビト。そのトビトの心の優しさと強さは、祭司長や律法学者に捕らえられようと知っていても、怖がらずにまっすぐに彼らを批判したイエスの姿とダブっているような気がします。優しい人ほど強い、怖がらない、時には頑固にも見えることは、私たちも生活の中にも体験したことがあるのではないかと思います。

 

火曜日:

昨日に続いて、今日の第一朗読に、神の掟に忠実なトビトの姿が描かれています。目が見えなくなった苦しみの中にも、トビトは神が定められたことを忠実に守ろうとするのです。あの子ヤギの件で、『盗んだものなら、持ち主に返しなさい』というトビトのことばは『皇帝のものを皇帝に』というイエスのことばと、響きも言っている内容も大変似ています。デナリオン銀貨には皇帝の肖像、イメージ、顔があるのですから皇帝に返さなければならないですが、では、『神のものは神に返しなさい』と言う時に、イエスは何を指しておられるのでしょう。神の肖像、神の顔はどこに書いてあるのでしょうか。それは、神の似姿として造られた私たち一人ひとりのことです。この銀貨は皇帝に、しかしあなた自身を神に捧げなさいとイエスは質問する人々、そして私たちに言おうとするのではないかと思います。

 

水曜日:

今日は聖ボニヴァチオ司教の記念日に当たります。聖人は英国生まれで、ドイツそしてオランダにみことばを宣教し、殉教しました。聖人の取次ぎを願い、ヨーロッパの教会のために祈ります。教会離れの人が多い、ある意味では、今日の第一朗読のトビトとサラのように生きる希望を失いそうな状態のなか、神様のおん恵みによって、そしていろいろな人の働きによって、また成長する希望、生きる希望が与えら得るようように、ボニヴァチオの取次ぎを願って、祈りましょう。

 

木曜日:

今日で、トビト記からの朗読が終わりますが、話の結末は皆様がご存知のように、主の天使ラファエルの助けで、既に7人の男と結婚したサラは悪魔の力から救われ、無事にトビトの息子トビアと結婚することが出来たし、トビト自身も天使ラファエルがくれた薬で目が治りました。しかし、そのようなHappy Endingにたどり着くまでには、それぞれ苦しい中にも神様を信頼し続けてきたトビトもサラもいました。昨日のトビトの祈りとサラの祈り、そして今日のトビアの祈りの中に、神への信頼、神への愛というものが鮮明に現れます。トビトをはじめ、トビト記の中に出てくる人物を通して、私たちは神を愛すること、そして隣人を愛することを学ぶことが出来るのではないかと思います。ぜひ、時間があったら、トビト記の残りを読むことをお勧めします。

 

金曜日(イエスの御心):

今読んだ『失った羊のたとえ』、そしてこの後に出てくる『失ったコインのたとえ』と『放蕩息子のたとえ』、この三つのたとえ話は、ルカ福音書の心臓、心、中心だと言われています。ここには、罪人に対する神様の憐れみの御心、99匹の羊を残していても、失ったたったの一匹を探そうとする神様の愛が大変感動的に描かれています。自分が99匹の羊の仲間に入っていると思っているのであれば、あの羊の持ち主に文句をつけたくなるだろうと思います。しかし、自分があの失った羊、一人っぽちで道にさまよう孤独と不安にいるのが我が身だと気づいた時に、探してくれて、見つけてくれた有難さがどれだけ大きなのかが実感できるだろうと思います。

このたとえを話しているイエスにとって、これは単なるたとえではなくて、イエスにとっては現実です。イエスは命がけでその迷った羊を探す、いや、その羊を救うために命をかける、自分の命を捨てるのです。それぐらい、神は、イエスは迷った羊である私たち一人ひとりを愛してくださるのです。その愛に感謝し、その愛を無駄にしないように、その愛にこたえることが出来るものになりたいのです。

 

土曜日:

日本語には、「こらえる」ということばがありますが、マリア様が全てを心に納めていたということは、つまり、マリア様は全てを自分の中に「こらえていた」ということではないかなと思います。マリア様には耐えなければならないエピソドがたくさんあります。周りに説明のつかないし方で身ごもっていたこと、神殿でシメオンに「剣があなたの胸を刺し貫くだろう」と言われたこと、青年イエスを探してまわっていたこと、イエスの気が変になったといううわさが流れる時にイエスを迎えに行こうとしたこと、そして、十字架の下でわが子が苦しみながら死んでいくのを目の当たりにすること、その全てをマリア様は心に納める、全てを自分の中にこらえていたということです。こらえることがマリア様の愛の表れといえるのではないかと思います。

私たちも、日常の様々な困難にが立ち向かう時に、マリア様のような落ち着き、そしてマリア様のようにそれらを心に納め、こらえていく力を願いたいものです。

 
メッセージ - C年 祭祝日

(ヨハ16,12-15)

「このように、私たちは信仰によって義とされたのだから、

私たちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、

このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、

神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。」ロマ5,1-2

 

イエス・キリストが私たちのために、ご自分の命を与えてくださったことによって、完全な愛というのは、愛する人のために自分自身の全てを奉献することであるということを、示してくださいました。

 

父と子と聖霊は、このような完全な愛を以て互いに愛し合っておられるがゆえに、つまり、互いに完全に与え合い受け入れ合うがゆえに、一致しておられます。したがって、父と子と聖霊は異なるペルソナ(位格)であっても、一体であり、唯一の神なのです。

 

すべての人が、三位一体の神の愛の交わりに参与するように招かれています。実は私たちは、愛によって神と結ばれて、神と一つになるために創造されていますので、この目的に達していない限り、私たちの心の望みは満たされないし、永遠に続く幸せを味わうこともできないのです。

 

神の御独り子が人間になって、あがないのわざを成し遂げることによって、罪のために神から離れていた人間は、再び神のもとに帰ること、神と和解すること、神と一つになることが可能となりました。その結果として、聖霊降臨の時、神はご自身を全人類に与えてくださったのです。

 

洗礼を受けることによって私たちは、聖霊とともに父と御子を受け入れましたが、三位一体の神の愛の交わりに完全に参与し、神と一体になるためには、私たちが自分自身を神に奉献する必要があります。キリストに従い、キリストのように隣人を愛するように努力することによって、すなわち自分のためではなく、他者のために生きるように努力することによって、私たちは少しずつ自分自身を三位一体の神にささげ、神の愛の交わりを深めていくのです。