メッセージ - A年 待降節

今日の福音には、旧約聖書のモチーフがたくさん現れています。まず洗礼者ヨハネについて、「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ』」と言われていて、預言者イザヤ(イザヤ40:3)の言葉によって彼の役割が述べられています。そして、らくだの毛衣を着て腰に皮の帯を締めているというヨハネの格好が伝えられていますが、これは預言者エリアを彷彿とさせる服装です(列王記下1:8)。更にヨハネは、自分たちが「アブラハムの子孫」だと誇るファリサイ派やサドカイ派の人々を「蝮の子ら」と呼び、彼らに悔い改めるように厳しく求めます。

こうした旧約のモチーフは、イエスが公に活動を始める以前の、古い時代を示しながら、やがて来られるイエスが開く新しい時代を予期させます。洗礼者ヨハネ自身が、自分は人々を悔い改めに導くために「水」で洗礼を授けているが、自分の後に来られる優れた方は、「聖霊と火」で洗礼を授ける、と言っています。旧約とは違う、イエスがもたらされた新しさとは一体、何でしょうか。私たちはイエスの新しさの内に生きているでしょうか。

福音箇所の冒頭にあるように、ヨハネは自分の時代、旧約の時代の終わりにあたって、「天の国は近づいた」と言いました。そして彼の後にやってきたイエスは、その天の国をのべ伝えました。イエスの訪れと共に伝えられた「天の国」は、このマタイ福音書では例えば次のように語られています。

「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。」(5:3)

「義のために迫害される人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。」(5:10)

「子供たちを来させなさい・・・天の国はこのような者たちのものである。」(19:14)

心の貧しい人、迫害されても義を行う人、子供のような人を天の国に招くために来られたイエスの訪れを待ちながら待降節を過ごす私たちは、イエスに倣って、このような小さな人と共に生きるよう招かれています。

 
メッセージ - A年 待降節

毎回、新しい典礼年度が始まると、聖なる教会はいつも同じ教えを我らに思い出させてくれます。この世を旅する間、我らはイエスの再臨を待っています。この希望を毎日、ミサの中で大きな声で唱えます。心の中に持っているすべての希望のうち、この希望は最も重要なものであり、この希望が我らに完成されるように、聖書と聖なる教会の教えに従います。この希望はキリスト教から始まったことではなく、ユダヤ教の聖書にも、すでに一般的な形を持つ同じ教えがあります。予言者イザヤの時代、神の国民の立場は、彼らが望んでいる立場とは完全に異なっていました。その時、予言者はユダとイスラエルの不正なやり方に対して批判的な言葉を投げかけるだけではなく、国民の希望を守るため、将来行われるイスラエルの栄光について慰めの言葉もかけました。しかし、この慰めの始まりは次の言葉でした。「さあ、ヤコブの家よ、主の光の中を歩もう」。イザヤが発したこの言葉の意味は、もっと良い将来を望み、もっと良い時代を待っている間、常に主に従い、主の言葉を聞き、その言葉の通りに行うということでした。ユダヤ人はこの将来を長い間待っていましたが、主が彼らを訪ねたとき、彼らのほとんどが主を認められませんでした。今でも彼らは主であるメシアを待っています。しかしあるユダヤ人達は、現れた主を認めることができ、主を信じ、主を信頼したので、ユダヤ教の中にメシア的運動が始まり、原始キリスト教ができるまで、主の光の中を歩みました。「主の光の中を歩む」とは、パウロの言葉によれば、「酒宴と酩酊、淫乱と好色、争いとねたみを捨てる」ということです。悪を捨て、善を行いながらイエスの光の中をイエスが再び来られる時まで歩みます。信仰によって義とされたキリスト者は、相応しい準備ができたまま、イエスの再臨を待っています。待っているとは、受け身的な意味ではなく、イエスの言葉に従って善を行い、信仰を伝えながら信仰を守っているということです。イエスが人物としていつ現れてもいいように、キリスト者はイエスのたとえ話の僕たちのようにイエスを待たなければなりません。この基本的な義務を忘れないように、聖なる教会は毎年新典礼年度が始まる時にキリスト者たちにこのことを思い出させます。だから、待降節とは、イエスの誕生日を祝うために待っている期間ではありません。次の一年間、イエスの再臨を待ちながら、信者として信仰の証しをしましょう。

 
メッセージ - C年 年間

第一朗読:サムエル記下5,1-3

統一イスラエル王国の時代(約紀元前1020年から926年まで)に三人の王がいた。それは、サウロ王(べニヤミン部族)と、ダビデ王、ソロモン王であった(ユダ部族)。十二ある部族のうち、すべての部族がダビデを王として選んだ理由として三つ挙げられる。まず、彼がユダヤ人であるということ。そして、ユダヤ人の部族のために戦ったということ。そして何より、彼が神によって選ばれた人だということである(2サム3,2)。ここで重要なのは、ダビデがイスラエルの指導者であるということだけではなく、彼が唯一の神の国民を牧する僕であるということである。

ダビデは民主主義的な契約によって王になった。そして紀元前1002年から970年まで、ダビデが統一イスラエル王国の王であった。

第二朗読:コロサイ1,12-20

人間を救う計画は父である神の業である(1,12-13)。この計画はイエスによって完成されたものであり、イエスは天の国の王である。そして、私達はイエスの王国の者である(3,2)。コロサイ1,15-20の、キリストの賛歌と呼ばれるこの部分が、キリスト教におけるキリスト論に関する根本的な教えである。この賛歌は次のキリスト論的な教えを含んでいる;イエスは全世界を創造する以前に存在する(1,12-17);復活したイエスは教会の頭である(1,18);イエスは神の最後にして完全な啓示である(1,19);イエスは人間の救い主である(1,20)。

福音朗読:ルカ23,35-43

イエスの受難の時には、イエスが王であると信じる者は、イエスと一緒に十字架に付けられた罪人だけであっただろう (23,24)。ユダヤ人の指導者はイエスを批判し、イエスがメシヤであるということを信じていなかった(23,35)。ローマ帝国の兵士たちはイエスの罪を表して「ユダヤ人の王」と言う表現を使った(23,37)。おそらく、その時イエスの弟子達もイエスが王であるということを信じていなかっただろう。しかし、神によってイエスの復活がなされたことで、イエスが王であるということは証された。イエスはこの世の王であり、裁判者であり、救い主であり、命であり、真実であり、永遠である。

 
メッセージ - C年 年間

テーマ:「神殿の見事な石と奉納物の飾り」(ルカによる福音215-19節)

エルサレムの神殿は、見事なもので、そこに巡礼していたイスラエルの人々の誇りでもあり、信じる人にそこに現存する神様の偉大さと栄光を示していました。この神殿がことごとく崩れてしまう日が来るとイエス様が預言なさると、人々は世の終わりの出来事だと思い込んで、それはいつ起こるかを知りたかったのです。イエス様は、人々の問い掛けに応えようともせず、神殿の滅びと世の終わりが同じことではないと説明し、神殿が滅びるかどうかということよりも、自分の人生、自分の心が滅びるかどうかを心配すべきであることを促しました。

信じる教会共同体の中で、神様に献げられた聖堂は、どんなものよりも美しく飾られることは当たり前のことであるはずです。なぜなら、本物の信者は誰よりも神様を愛し、神様に一番良いものを献げているはずだからです。自分を愛している信者は、「教会が貧しいものでなければならない」というようなスローガンを言って、自分が豊かになるように祈りたがるのです。聖堂や福音の神殿の飾りなどは、信じる共同体の心の美しさと豊かさを反映するものでなければなりません。エルサレムの神殿も神様へ愛をはんえいして見事なものとして建設されましたが、キリストの時代に、その栄華と美しさは、多くの場合、神様を愛する心を反映するものでなくなりました。大きな石と飾りを楽しみましたが、神様を喜ぶことが二次的なものになり、多くのユダヤ人は神殿の境内で行われた商売に関心を持つようになりました。だから、その神殿が滅びるとキリストは仰せになったのです。

使徒ヨハネは、愛のない信仰は死んだものであると言います。したがって、肝心なのは、私たち自身が神様の住まいとなって、生きる神殿となることです。教会は、キリストの御体によって養われているキリストの神秘体です。私たちが天国に入って神様と共に永遠に生きるために、キリストはこの世に来て、御自身を隅の親石となって、私たちの内に「神殿」を創り上げて行きます。生きる信仰を持つ私たちがその神殿の「生きる石」となります。こうして、教会の中で神様が生きるようになり、私たちは天国の先取りを喜ぶことができるのです。

 
メッセージ - C年 年間

イエスが伝え、私たちが信じている「復活」は「よみがえり」「蘇生」とは異なります。それが「よみがえり」「蘇生」であるなら、「復活」は、今私たちが生きているこの世の命の延長でしかありません。だから「復活」を「よみがえり」の意味でしか捉えていなかったサドカイ派の人々は、この世の結婚と跡継ぎの制度を復活にあてはめてイエスに難癖をつけ、論争を挑んできました。

しかし、それは大変な思い違いでした。復活の命は、この世の命とは全く異なるものです。だからこそ私たちは今、苦しみや痛みがあるとしても、希望を持って、喜びを持って生きています。不完全な世の中に垣間見える神の愛を信じながら、力づけられて簡単ではない日々を生きています。第一朗読のマカバイ記や、第二朗読のテサロニケの教会への手紙でパウロが語っているとおりです。現実に目を向けるとき、そこには確かに悪があり、苦があります。しかし、神は悪を悪のままで、苦しみを苦しみのままで、死を死のままで捨て置かれることはない。それをすべてくつがえす復活によって、神はその愛と力を示されます。

「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ」という主イエスの言葉の通り、神は、今ここで生きている私たちの神であり、復活の命に生きている者の神でもあります。これまでも、今も、これからも、そして永遠に私たちを愛し養って下さる神のいつくしみに信頼して、まっすぐに歩んでいくことができますように。