メッセージ - B年 年間

 

第一朗読:知恵2、12.17-20

悪い行いをする人々は、二つの道から一つの道を選ばなければならない。一つは悪い行いを捨て、悔い改めて義人として生活する道である。この道は「命の道」と呼ばれる。もう一つは悪いことをし続け、義人に対して攻撃する道である。この道は「死の道」と呼ばれる。義人に対して攻撃することは悪人の悪意から始まり、悪心へと続き、悪い行いに終わる。第一朗読の言葉によれば、悪い人々は自分自身を理解する代わりに彼らの違反行為を指摘する義人を倒すという道を選んだ。悪い人々は、すべての人々は悪いところがあるので、義人も弱いところがあると考えていた。だから、彼らは義人を殺すことを決めた。このことは一般的に現代にも当てはまる事実であるが、この言葉は予言としてイエスの時に実現された。

 

第二朗読:ヤコブ3、16-4、3

ヤコブはこの手紙の受取人だけにではなく、私たちにも直接的で厳しい、けれど正しい教えを伝える。すべての悪いこと(乱れ、戦争、争いなど)の源は人間の妬みと欲望である。自分の意志と自分の思想のとおりに、自分の力で目的を達成することを望んでいる人々は成功できない(ヤコブ4、2)。自分の心の中に平和がない人々は、社会の中でも平和的な生活ができない人々である。ヤコブにとって目的を達成するために必要なことの一つは、神の知恵である(ヤコブ3,17)。この上からの知恵は正しい祈り、すなわち神の栄光のために祈る時に学ばれる(ヤコブ4,3)。

 

福音書:マルコ9,30-37

イエスと一緒に生活し、宗教的な活動をしている使徒たちはイエスがメシヤであるということが理解できなかっただけではなく、メシヤについて自分の考え(イエスの考えとは違う)を持っていた。彼らは心の中にまだ妬みと欲望があったので、自分の目的を達成することに集中した。彼らの目的はイエスの活動によってユダヤ人の社会の中で偉大な人物になるということであった。それだけではなく、十二人のうち誰もが最も偉大な者になりたいという気持ちがあったのでお互いに争った。この問題をもとに、イエスは偉大な人物になるために最も相応しい方法を教えた。すなわち、自分のためより他の人々のために生きる人は一番偉大な人になれるということである。他の人々のために生きるということは、一番上の者として他の人々に命令することではなく、この人々のために働かなければならないということである。イエスは神の子として罪人である人間を永遠の死から救うために自分の命を捧げた。大人の社会の中で子供が大事に育てられることは当然のことであるが、だからといって子供が偉大だとは思われていない。子供のような者でも、すべての僕を受け入れる者は神を受け入れるということである。

 

 

 
メッセージ - B年 年間

マルコ福音書はもっと短い福音書ですが、奇跡物語で彩られているという点で、また、イエスを「驚くべき存在」として生き生きと描いている点で特徴的です。今日のテキスト(マルコ、7,31-37)は、耳が聞こえずした舌の回らない人をイエスが癒される様子を伝えています。第一朗読は、通常、当日の福音書をよりよく理解させるための箇所が選ばれていますが、今日は、イザヤ書35,4-7aが読まれます。「舌の回らない人」という語が出てくるのは70人訳の旧約聖書でイザヤ書35章5-6節と新約聖書ではマルコ7章32節のみです。つまり、マルコでは、イザヤが預言した解放の出来事がイエスにおいて実現したという意味が伝えられています。また、「この方のなさったことはすべて、すばらしい」という表現には創世記の有名な箇所「神はご自身が造ったすべてのものを見られたが、それははなはだよかった」(1,31)が背景にある可能性もあります。要するに、イエスにおいて神による解放と救いが現実となって世界に開始された、というメッセージがここにも見られるということでしょう。

 

通常の奇跡物語と比べてみると、少々具体的過ぎると思われる動作をイエスはここで行なっておられますが、「けれども自分の世界、その無気力さのなかに閉じ込められている人に、他のどのような方法で心を伝えることが出来たでしょう。外界から遮断され,自分のうちに固く閉じこもっている人に対しては、肉体的なしぐさのほかにどのようにして愛を表現することができましょうか」(マルティーニ枢機卿)。それらのしぐさは、しかし、物見高い群衆からは離れたところでなされます。「天を仰ぐ」も奇跡を行うのは神の力であることの表現となっています。「深く息をつく」(嘆息する)も同様の意味を持つしぐさです。イエスを通して神の救いと解放の出来事が今ここに現実となります。

 

ところで、奇跡(ミラクル)は語源的に言えば、「小さな驚き」という意味を持っています。それは、より大いなる驚きに目を向けさせるきっかけとなる「小さなしるし」という風に理解できるでしょう。

ミサの中の「二つの食卓」にあづかりながら、いまここに、イエスによって私たちが、コミュニケーション、神との、隣人との、自分自身との本当のコミュニケーションを体験することが出来るよう祈りましょう。

 

 

 
メッセージ - B年 年間

マルコ福音書はもっと短い福音書ですが、奇跡物語で彩られているという点で、また、イエスを「驚くべき存在」として生き生きと描いている点で特徴的です。今日のテキスト(マルコ、7,31-37)は、耳が聞こえずした舌の回らない人をイエスが癒される様子を伝えています。第一朗読は、通常、当日の福音書をよりよく理解させるための箇所が選ばれていますが、今日は、イザヤ書35,4-7aが読まれます。「舌の回らない人」という語が出てくるのは70人訳の旧約聖書でイザヤ書35章5-6節と新約聖書ではマルコ7章32節のみです。つまり、マルコでは、イザヤが預言した解放の出来事がイエスにおいて実現したという意味が伝えられています。また、「この方のなさったことはすべて、すばらしい」という表現には創世記の有名な箇所「神はご自身が造ったすべてのものを見られたが、それははなはだよかった」(1,31)が背景にある可能性もあります。要するに、イエスにおいて神による解放と救いが現実となって世界に開始された、というメッセージがここにも見られるということでしょう。

 

通常の奇跡物語と比べてみると、少々具体的過ぎると思われる動作をイエスはここで行なっておられますが、「けれども自分の世界、その無気力さのなかに閉じ込められている人に、他のどのような方法で心を伝えることが出来たでしょう。外界から遮断され,自分のうちに固く閉じこもっている人に対しては、肉体的なしぐさのほかにどのようにして愛を表現することができましょうか」(マルティーニ枢機卿)。それらのしぐさは、しかし、物見高い群衆からは離れたところでなされます。「天を仰ぐ」も奇跡を行うのは神の力であることの表現となっています。「深く息をつく」(嘆息する)も同様の意味を持つしぐさです。イエスを通して神の救いと解放の出来事が今ここに現実となります。

 

ところで、奇跡(ミラクル)は語源的に言えば、「小さな驚き」という意味を持っています。それは、より大いなる驚きに目を向けさせるきっかけとなる「小さなしるし」という風に理解できるでしょう。

ミサの中の「二つの食卓」にあづかりながら、いまここに、イエスによって私たちが、コミュニケーション、神との、隣人との、自分自身との本当のコミュニケーションを体験することが出来るよう祈りましょう。

 

 

 
メッセージ - B年 年間

 

テーマ:「あなたがたは、わたしを何者だというのか」(マルコ8章29節)

 

この主日に朗読される福音(マルコ8章27節-35節)の出来事は、非常に激しく展開しています。イエス様は弟子たちに先ず、「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」と質問します。「預言者の一人だ」という答えが返ってきました。次に、イエス様は、「あなたがたは、わたしを何者だというのか」と尋ねます。使徒ペトロは、「メシアです」と答えました。キリストはこの答えに満足しています。そして、メシアは救いの業を御自分の受難と復活によって実現されることを説明します。使徒ペトロは同意せず、イエス様を諌めます。キリストは、ペトロに「サタン、引き下がれ」と言って叱りつけます。そして、福音のために命を失う者は、それを救うのだから、自分の十字架を背負って御自身に従うようにと招いてくださいます。

この福音は、キリストに対する正しい信仰を育むためにわたしたちに幾つかの大事なメッセージを与えます。

1.宣べ伝える信者の証し(ケリュ-グマ)から私たちはキリストを知ることができます。しかし、その内容は他人の信仰である自分の知識であり、自分の信仰ではありません。即ち、それは他の人々がキリストについて言っていることに過ぎません。キリストの偉大さは、人間の理性によって把握できるものではありませんので、キリストについて不充分、また歪んだイメージを与えることも少なくありません。キリスト(また神様)に出会った人、神様と交わる人は自分の信仰をもっています。

2.使徒ペトロが自分の出会ったキリストについて「メシア(救い主)」であると証しし、その証しは神様が啓示なさったことに沿っているから正しい信仰を表現します。しかし、使徒ペトロは、信仰表現が正しくても、自分の思いの中でキリストの偶像を作り上げる過ちを犯しました。神様の思った通りではなく、使徒ペトロが自分の考えた方法でイエス様に世界を救って貰いたかったのです。キリストが私たちに望んでいるのは、出会ったキリストに信頼をおいて御心を行うことによって自分自身を救い、世の救いに貢献することです。

3.イエス・キリストは御自分の十字架によって世を救ってくださいましたから、その救いに与るために、わたしたちが自分の十字架を背負って御自身に従うことを救いの条件として与えてくださいました。それを果たすために実践生活の中で次のことを心に留める必要があると促していることでしょう。

*人間は誰でも幸せになりたいです。自分だけの幸せを求める人は不幸です。幸せになりたいなら、人を幸せにしなければなりません。

*人間は誰でも愛されたいです。他人にだけその愛を求める人は嫌われ者となります。愛が欲しいなら、自分で神様と他人を愛しなければなりません。

*誰でも自己防衛の本能が働いているから、自分の命を死から救いたいのです。これに従う人間は自分の誉れを求め、傲慢と自己中心に堕ちいて、空しい人生を送ることになります。他人を生かすために自分の命を尽す人は有意義な人生を送ります。キリストと福音のために命をささげる人は、キリストの御復活に与り、永遠の命を生きる者となります。

 
聖書が教えるカテキズム - 聖書が教えるカテキズム

 

 

序. キリスト教の信仰宣言は、至聖なる三位一体(父と子と聖霊) の神様を信じるという信仰告白です。「使徒信条」の第1箇条は、「天地の創造主、全能の父である神を信じます。」という内容を持っています。「ニケア・コンスタンチノポール信条」は、「わたしは信じます。唯一の神、全能の父、天と地、見えるもの、見えないもの、すべてのものの造り主を。」となっています。前回は、神様は御父と御子と聖霊であっても唯一の神であるという信仰内容についての講話でした。この度、三位一体の第一ペルソナ(位格)である御父を信じることについての講話となります。

聖書が啓示する神様は、造り主であるゆえに「父」であるという特徴があります。旧約聖書の「モーセの歌」の中で神様を「父」(申命記32章6節)と呼びます。しかし、ユダヤ教は、どんな被造物も神ではなく、また神としてはならないから、人間に過ぎないイスラエルも、被造物の次元を超えて神様の子どもであるかのように、神様を「父」と呼ぶこととは、冒瀆として考え、許されていませんでした。ところで、新約時代に、イエス・キリストの教えに従って、キリスト信者は、様々な意味で神様が「父」であることを理解し、「父である神を信じます」と宣言します。

 

1.「創造主なる全能の父である神」

創世記は、神様はすべてのものに先立って、すべての存在の源であり、すべての存在と命は神様によってあることを、世界創造物語を用いて伝えます。以下に人間創造についての箇所を引用します。

 

神は言われた。「地は、それぞれの生き物を産み出せ。家畜、這うもの、地の獣をそれぞれに産み出せ。」そのようになった。神はそれぞれの地の獣、それぞれの家畜、それぞれの土を這うものを造られた。神はこれを見て、とされた。神は言われた。「我々にかたどり、我々に似せて人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。」神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。神は彼らを祝福して言われた。「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。」神は言われた。「見よ、全地に生える、種を持つ草と種を持つ実をつける木を、すべてあなたたちに与えよう。それがあなたたちの食べ物となる。地の獣、空の鳥、地を這うものなど、すべて命あるものにはあらゆる青草を食べさせよう。」そのようになった。神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。夕べがあり、朝があった。第六の日である。(創世記1章24節~31節)

 

1)全能の創造主である父

以上の聖書の箇所は、第一創造物語の六日目の創造の業を一部紹介しています。この創造物語の全体(創世記1章3節~31節)は、神様が一日目に光を、二日目に大空と水を、三日目に海と陸、また地に生える草木を、四日目に太陽、月と星を、五日目に鳥と魚をお造りになったと書かれています。各創造の御業を行われるにあたって、創世記は、「神は言われた」、「そのようになった」、「神はこれを見て良しとされた」という言葉が繰り返されています。これらの言葉は、神様が宇宙万物を無からお造りになった全能者であることを示し、神無しに造られたものは、何一つないということを教えます。すべてのものは、神様の愛の溢れるところから創造され、神様の内に存在し、神様はすべての存在を支え、親のような者(父)であることを示します。神様は、「あれ」と言われたものの中で、足りなかったものは何一つなく、失敗したものも何一つありません。すべては「極めて良かった」のです。したがって、教会は、神様が天地万物の主、また歴史の主として全能者であるとことを信じ、そして、目に見える宇宙万物と目に見えない霊的な世界の造り主として、かつ、その中のすべての命の源として、「父」であることを信仰告白します。

 

 

2)人間が体験する全能の父

「全能」は神様の本質であって神秘でもあります。人間は、無限の愛と限りがない憐みを体験する時に、御父は「全能」であると信じるようになります。信じようとしない者の目には、御父の全能が無力なものとして映ります。しかし、神様は、その御子の十字架の死によって無限の愛を現し、罪と死に対する決定的な勝利をおさめた全能者であることを明らかにしました。自分の無力と貧しさを知る謙遜な人、信頼の内に神様に自分を委ねる人は、神様の限りない偉大さを体験することができます。

神様の御告げに対して聖母マリアは、「どうして、そのようなことはありえましょうか。」(ルカ1章34節)と言って、ありのままに自分の無力を告白しました。その時に天使ガブリエルが、「神にできないことは何一つない。」(ルカ1章37節)と伝え、これを信じて受け入れたマリア様は、神の子を宿し、神様の全能を誉めたたえて歌いました。「わたしの魂は主を崇め、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。身分の低いこのはしためにも、目を止めてくださったからです。今からの後、いつの世の人も、わたしを幸いな者というでしょう...」(ルカ1章47節~48節)と。

御父は御自分の「全能」を見せびらかすことも、力を持って私たちに圧迫を与えられることもありません。神様の「全能」は、謙遜な人や小さなものの中で現れ、愛の内に御自身を与え尽くすことに本質があります。例えば、天地万物の造り主である神様が、被造物である小さな人間の幼子となり、馬小屋での最も貧しい誕生を迎えたことに神様の偉大さがあります。それは、全能者しかできない人の思いを遥かに超える偉大な業です。羊飼いたちに御降誕を知らせた天使たちは、この偉大さを「栄光の賛歌」をもって誉めたたえます。「いと高き所には栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ」(ルカ22章14節)と。私たちも天使たちに従って御父の「全能」を生涯、賛美することが一番尊い大切な務めであると教会は教えています。

 

2.「御子イエス・キリストの父である神」

イエス・キリストは、神様の本性を持つ御方として、神様を「父」と呼ばれました。以下に引用する聖書箇所は、キリストと御父の関係を描きます。

 

フィリポが「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」と言うと、イエスは言われた。「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ。なぜ、『わたしたちに御父をお示しください』と言うのか。わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである。わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい。」(ヨハネ14章9節~11節)

 

上記の聖書の箇所によりますと、キリストは、人間の次元を超える者として神様を御自分の父と呼び、御自身が御父の内におられるということを弟子たちに教えてくださいました。また、別の箇所では、キリストは、「アブラハムが生まれる前から『わたしはある』」(ヨハネ8章58節)と言われ、人間としてベツレヘムで御降誕なさる前に、即ち、永遠の昔に神様から御生れになったことを促しています。そして、キリストがヨルダン川で洗礼を受ける時、また、タボル山で御変容なさった時に、御父御自身がイエス・キリストについて証ししました。「これは私の愛する子、わたしの心に適う者」(マタイ3章17節・17章5節)と。同じ意味で、神様は御子キリストの真の父であることを私たちに現してくださいました。

イエス様は、真の神の子として祈りの時に、「天地の主である父よ、あなたを誉めたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よ、これは御心に適うことでした。すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません。」(マタイ11章25-27節)と祈りました。したがって、教会は、ニケア・コンスタンチノポール信条の中で、イエス・キリストは造られえることなく、永遠の昔から(初めから)御父からお生まれなったので、神様はその神性の次元でイエス・キリストの父であると宣言されています。

 

3.「恵みによる私たちの父である神」

人となった神の子イエス・キリストは、神様の子どもとして相応しくない私たちに勇気を与えて、相応しい者になるために、大胆に祈りの内に神様を『父』と呼ぶように薦められました。以下に引用する福音箇所にしたがって、教会は「主の祈り」を唱えて、神様を「父よ」と呼ぶようになりました。

 

イエスはある所で祈っておられた。祈りが終わると、弟子の一人がイエスに、「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください」と言った。そこで、イエスは言われた。「祈るときには、こう言いなさい。『父よ、御名が崇められますように。御国が来ますように。わたしたちに必要な糧を毎日与えてください。 わたしたちの罪を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を皆赦しますから。わたしたちを誘惑に遭わせないでください。』」(ルカ11章1節~4節)

 

1)神様を「父」と呼ぶように教えるキリスト

人間は、神様から生まれたのではなく、本性によって神様の被造物に過ぎず、また罪深さのためにも、自分のことを「神の子ども」と呼ぶ資格はありません。真の神の子、イエス・キリストの恵みによって、私たちは上記しました聖書に書かれている「主の祈り」の文を唱える時に、神様を「父」と呼ぶことができるようになりました。山上の説教(マタイ5章~7)の中で、キリストは、私たちに神様のことを自分の「父」として考え、愛するように薦めます。または、神様こそ、私たちの「父」ですから、この世の中で誰をも父と呼んではいけないという言葉をつかって、「あなたがたの父は天の父御ひとりだけだ。」(マタイ23章9節)と言われたのです。

祈りも、善行(施し)も、断食も、人目につかないようにと注意してくださいます。「隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださいます。」(マタイ6章6節)と繰り返して言うのです。神様は親(父)のように、空の鳥を養い、咲く百合の美しさを極めるから、これ以上に、人間を愛することを強調します。神様を父と呼ぶために、わたしたちは、神様の子どものように生きる必要があります。キリストは、「わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。」(マタイ5章44節~45節)と言われて、不動で無条件の愛によって、天の父に似る者となるように教えます。そして、キリストは神の子どもと呼ばれるに相応しい生き方を送るように、「あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全なものになりなさい。」(マタイ5章48節)とお薦めになったのです。

人間がキリストのように「神の子」になることではありません。復活したキリストは、マグダラのマリアに次の言葉を伝えました。「わたしの父であり、あなたたちの父である方、また、わたしの神であり、あなたたちの神である方のところへわたしは上る。」(ヨハネ20章17節)と。ここに、キリストは、「わたしたちの父」とは言わずに、「わたしの父」と「あなたたちの父」を意図的に区別して表現します。御父から御生れになった御子は、神性の次元で「親子」としての完全な交わりです。ところで、被造物である人間は、御父の憐れみと愛の惠みによって三位一体の交わりに加えることができます。使徒パウロのローマの信徒への手紙の中で記されているとおり、洗礼を受けた信者は、「神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、『アッバ、父よ』と叫ぶのです。」(ローマの信徒への手紙8章15節)こうして、この地上で人は信仰の祈りの内に神様と、「親子」のような親密な関係を作ることができます。

 

2)神様が人間の父となる御摂理

神様は被造物である人間を御自分の子にしようと、初めから御計画なさったのです。創世記が描いている「神と人」の関係は、「親子」らしいの関係を促しています。神様は良い父として啓示されていますが、人間の方は、神の子どもらしくない態度を示していると聖書に書いてあります。

即ち、第一創造物語(創世記1章)は、子が親に似てすべてを無償に頂くように、神様は、愛を込めて人間の存在を望み、御自分に象り似せてお造りになり、祝福してすべてを無償にお与えになりました。第二創造物語(創世記2章)は、「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。」(創世記2章7節)と記されています。

人間は、肉体と霊魂からなりたっている一つの存在者であり、その独自の本性の中に霊的世界と物質的世界とが一つになっています。神様から命の息を受けた人間は不滅の霊魂を持ちます。人間の命を指す霊魂は、生んだ親から頂く命の遺産ではなく、直接神様によって創造され、神様と親しい交わりができるペルソナ(人格)に創られるのです。こうして、見える被造物の間で、ただ人間だけが自分の創造主の愛を知り、愛することができます。ペルソナ(人格)である人間は、自分を所有し、自由意志を持って自分と他人を知って人格的な交わりができ、創造主と親密な関係を作り、親子のように愛において一つに結ばれて生きることができます。

 

3)陥落した人間に対する御父の無条件である完全な愛

神様は、変わらない愛を持ち、神の子とする聖霊を人に注いでおられます。愛がペルソナの自由意志による行為ですから、人間は、神様を自分の父と認めて聖霊を受けるかどうかは、自由があります。創世記のアダムとエヴァの物語の中で聖霊を受ける象徴は、「命の木」とし、それを拒否することは、「善悪の知識の木」が象徴します。神様は、良い「父」として、人間に警告を与えます。「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。」(創世記2章17節)と。しかし、人間は、その恵みによって神の子どもとする御心を拒んで、傲慢になって自らの力で神のようになることを選択しました。禁じられた木から実を取って食べたことは、その象徴です。(創世記3章)こうして、人間は自ら神様との絆を自由意志の濫用によって破り、自分を命と存在の源から自分を遠ざける者にしてしまいました。

離れて死ぬ危険にある子どもの親のように、神様は、罪を犯した人間に対して憐れみと慈しみを示し、アダムを探し求めて、「どこにいるのか」(創世記3章9節)と呼びます。また、エヴァに、「何ということをしたのか」(創世記3章13節)と尋ねます。人間の罪によって歪曲された神様のイメージは、世々にわたって人類に罪を犯すキッカケとなりました。人類の本性に傷を与えたその罪は「原罪」と言います。人間は、誘惑者(悪魔)が薦める偽りの善に誘惑され、神様を恐れて、神様の愛が分からなくなりました。そのために罪を繰り返し、その結果として苦しみと死に遭遇するものとなりました。

罪を犯す人間に対して、神様は罰をくだすことなく、「父」としての無条件で完全な愛と憐みを示して、罪と死から救いの計画を立てました。その計画の頂点は、神の子イエス・キリストによる救い業の実現です。イエス・キリストは御父の啓示です。人類は、キリストを見て、歪んだ神様のイメージを正すように招かれています。キリストの死と復活によって実現された救いの恵みに与るために、私たちは洗礼の秘跡を受ける時に、原罪の重荷から解放され、「神の子」とする聖霊を頂いて、真の神の子キリストとの一致の内に、主の教えに従って神様に向って、「天におられるわたしたちの父よ」と呼ぶことができます。