メッセージ - B年 祭祝日 |
朗読: 申命記4:32-34,39-40
ローマ8:14-17
マタイ28:16-20
三位一体の神秘を必死に考えている聖アウグスティヌスは海辺に歩いていた。そこで、とある男の子に目が留まりました。子供は自分の手で海の水を運んで、砂に掘った小さな穴に必死に入れていた。「何をしているの?」とアウグスティヌスは子供に声をかけた。「この海をあの穴に移動したい」と子供は答えた。「あの小さな穴で?…無理だよ」と。子供は微笑みながら答えた「あなたも、その小さな頭で三位一体の神秘を理解したい?」。
聖書は三位一体の本質はどういったものかについて説明していない。かえって、三位一体の主日に読まれる三つの朗読にあるように、神の働きに注目している。第一朗読で、モーセは約束の地に旅するイスラエルの民に向かって、今まで歩いてきた道乗りの中で、神が行われたことを思い起こすように促した。神は民の前で「しるしと奇跡を行い…、一つの国民を他の国民の中から選び出した」ことを思い出すように。神は、我が子を守る「父なる神」、昼も夜もイスラエルの民を約束の地に導いていく神である。
第二朗読は聖霊の働きを強調する。人は聖霊の導きによって、神の子とされる。聖霊に包まれる時に、私たちは親しみを込めて神を「アッバ、父よ」と呼びかけることができる。こうして、霊の働きによって、私たちは神の子であるキリストと共に「神の相続人」となれる。しかし、そのために、私たちもキリストが歩まれた道を歩まなければならない。共に栄光を受けるためには、共に苦しむことが不可欠な条件となる。つまり、キリストの働きが私たち自身の働きとならなければならない。イエスのように、聖霊に力づけられ、その導きに心を開く時に、今ここで一人一人に与えられている十字架を最後まで担っていくことが出来る。
マタイ福音書は、イエスがこの世でのご自身の働きを続ける使命を弟子たちにゆだねられる場面を描いている。マタイによれば、イエスが指示していた山に行って、イエスと最後に出会った弟子の中に、「疑う」ものもいた。正に、現代に生きる私たちの状況を現しているような気がする。それでも、イエスは自分を疑っている弟子、そして信仰の足りない私たちに、「すべての民を私の弟子にしなさい」という重大な使命を与える。主ご自身が「世の終わりまでいつも共にいる」からだ。
私たちは「父と子と聖霊の名によって」洗礼を受けた。また、「父と子と聖霊の名によって」洗礼を授ける。たとえ三位一体の神秘を理解することが出来ないとしても、その働きに身をゆだねる時に、私たちの未完全な信仰が完成されていくように願いたい。
メッセージ - B年 祭祝日 |
(ヨハ15,26-27;16,12-15)
「人々は驚き怪しんで言った。「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。どうして私たちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。」使 2,7-8
バベルの塔の物語(創11,1-9)が教えている通り、人類は神を無視して、自分の力にだけ頼って幸せになろうとしている時、段々と分列して、互いに誤解したり、争ったりして、結果的に皆が不幸になるのです。
聖霊降臨の出来事は、バベルの塔の物語が描いている出来事と正反対の出来事です。元々互いに理解していなかった人たちは、聖霊の働きによって、互いに理解するようになり、キリストを中心とする共同体を作り、一緒に力を合わせて神のわざに協力することによって、創造主である神が求めている一致に向かって歩むようになりました。神における人類の一致こそ、神が最初から求めていることであり、すべての人にとって最高の幸福の状態なのです。聖霊降臨の日に生まれた教会は、全人類をこの目的に導く使命を与えられています。
洗礼の時に聖霊を与えられた私たち一人ひとりが、聖霊の導きに忠実に従い、イエス・キリストと同じように神の愛を示すことによって、多くの人々を神のもとに引き寄せることができますように祈りましょう。
メッセージ - B年 復活節 |
第一朗読: 使徒言行禄1,1-11
ルカ書物の第二冊目(使徒言行録)の始め(使徒1、1-11)ではルカによるキリスト論が示されている。約三年間続いたイエスの宣教活動の中で、イエスが教えたことと行ったことのすべてがルカの福音書に含まれている(使徒1,1)。これを読めば、イエスが神の子であるということが理解できる。イエスは弟子たちを選び、共に宣教活動をして福音を宣べ伝えるために、彼らに相応しい教育をされた。復活した後に、イエスは弟子たちに現れて神の国について最後の説明をした(使徒1、3)。イエスの最後の命令は、精霊降臨があるまでエルサレムに留まらなければならないというものであった(使徒1、4-5)。聖霊の力のうちに、弟子たちはまずエルサレムで、後にユダヤで、最後には地の果てに至るまでイエスの証人になることができる(使徒1、8)。この必要な準備を終えた上で、イエスは天に昇った(使徒1、2.9.11)。しかし、イエスは全ての人間に深津されるためや裁きするためや心理キリスト者を集まって天国に連れて行くためにいつか再び来られる(使徒1,7.11)。このルカの教えはカトリック教会の信仰宣言と同じである。
第二朗読: エフェソ4,1-13
イエスが天に昇った後、弟子たちが聖霊の力のうちに福音を述べ伝えて原始キリスト教ができた。教会の信者たちはこの世にキリストの体として(エフ4、12)様々な立場を取って(エフ4,11)、完全な人になり、信仰によって一致し、イエス・キリストのことを完全に理解する(エフ4,13)ために一生懸命、信仰の道を歩いていく。この道を歩いていく間に、忍耐や寛容の心、謙虚(エフ4、2)などの心をもって教会の一致を造らなければならない。神は一人、主は一人、信仰は一つ、洗礼は一つなのだから、この世におけるイエスの体としての教会は一致したものである筈だ(エフ4,4-5)。しかし、この教会論的な教えよりも、イエスが天に昇ったという教えのほうが最も大切なのである(エフ4、10)。
福音朗読: マルコ16,15-20
マルコによる福音書によれば、イエスは天に昇る(マル16、19)前に弟子たちに宣教命令を与えた(マル16、15)。弟子たちの義務は、全世界に行ってイエスの福音を宣べ伝えることであった。この福音を信じて洗礼を受けた人々は、救われた人々である(マル16,16)。イエスを信じる人々はイエスの霊の力で不思議なことを行うことができる(マル16、17.20)。信仰の道を歩いている人は、一人ではなく、いつも主であり復活されたイエスと共に歩いている。
メッセージ - B年 復活節 |
福音:ヨハネ15、9-17
テーマ:「わたしの喜びがあなたがたの内にあるように」
最期の晩餐と時に、キリストは弟子たちが喜びに満たされるように祈ります。どうして人間が悲しみに襲われたりするのでしょうか。
人間はお別れの時に悲しみます。新しく生まれた赤ん坊が泣きだします。それは自分の母の胎内から別れたからです。子どもは入園して親から離れる時に泣きます。学校卒業する時に友達とお別れをする時にも悲しみます。働きに出た時、自分の世帯を設けた時にも、故郷を離れる涙を零します。最終的に死に別れて悲しみます。
ところで、人間は物理的な別れだけはなく、心の次元による別れの悲しみを味わう時があります。それは、傲慢や自己中心による悪い人間関係、お互いに傷つけたり、相手を赦せなかったりする寂しさ、また憎しみを心に抱く場合です。これに不信仰と愛の欠如による神様に対して犯す罪が伴い、神様との隔たりを作る悲しい状態です。今日の福音が紹介する最後の晩餐の出来ごとです。その時に、キリストの弟子たちも大きな悲しみに襲われました。なぜなら、キリストが彼らにお別れを告げ、裏切りを予告して、死を迎えようとするからです。
神様は人間の悲しみを望んでいません。したがって、キリストが望んでいるのは、「わたし(キリスト)の喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされる」ということです。喜びは一致の内に見出すものです。キリストの救いの働きとは彼らを自分の内に一つにすることであり、すべて人を御自分の内に和睦することです。キリストは、御自身をぶどうの木に比べて、枝となる弟子たちを御自分に繋ぐように呼びかけています。キリストは十字架上で罪の赦しを成し遂げ、御復活によって弟子たちと再会する喜びをお与えになりました。
キリストは、人間を悲しむ罪と死による分裂を、十字架上で示された限りない愛と御復活によって無くしてくださいました。キリストは、私たちを友と呼んでいます。キリストとの友情に応える人は、神様の最大の掟を生きる人です。それは互いに愛し合うことです。キリストは、この望みを不可欠なものとして考えています。人間が誘惑に流されないように、キリストは私たちに積極的な態度、強い意志と決心を求めて、「互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である」と仰いました。
メッセージ - B年 復活節 |
(ヨハ10,11-18)
「御父がどれほどわたしたちを愛してくださるか、考えなさい。それは、わたしたちが神の子と呼ばれるほどで、事実また、そのとおりです。世が私たちを知らないのは、御父を知らなかったからです。」1ヨハ3:1
普段人間が羊を飼うのは、その毛や肉や乳などのため、要するに自分の利益のためです。羊飼いたちは、羊のために時間をかけて、力を尽くして一生懸命に働くことがあっても、それは最終的に、この利益をより大きくするためなのです。良い羊飼いであると宣言されたイエスは、ご自分のために何の利益をも求めないだけではなく、この羊、つまり私たちのためにご自分の命をささげてくださるのです。
何の利益も求めず、自分より弱いもののために命を懸ける人がいるかもしれないが、イエスは、私たちのために、誰にもできないようなことをされました。それは受肉です。つまりイエス・キリストにおいて神ご自身が人間となられたということなのです。確かにそれは、羊飼いが自ら羊になったような、非常に信じがたいことですが、私たちにとって何よりも大切なことなのです。なぜなら、みことばである神の子が人間になったゆえに、今私たちが神の子になり、神の命にあずかるようになって神の家族の一員になれるからです。それこそ、私たちの救いですし、イエス・キリストがご自分の命をささげていいと思われたほど価値のあるものなのです。
この救いは無償の賜物ですが、それを受け入れるために、羊が羊飼いに従うように、イエスに従わなければなりません。イエスに従うために、私たちが命を犠牲にする必要性がなくても、今まで大事であると思って、力を尽くして手に入れようとしたもの、手に入れてから奪われないように注意を払ってきて、結果的に愛着しているものを手放す必要があるでしょう。ですから、イエスを愛している時だけ、つまりイエスとの繋がりがこの世において最も大切な宝であると確信している時だけ、救いにあずかることができるわけです。