メッセージ - B年 復活節

 

第一朗読:           使徒言行禄3,13-15.17-19

第二朗読:   1ヨハネ2,1-5

福音朗読:           ルカ24,35-48

 

足の不自由な男を癒した後で、ペトロはエルサレム神殿に集まったユダヤ人に向かって演説をした。遠慮せず、恐れを感じずに、直接ユダヤ人に事実を話した。イエスを拒んだ責任者は彼らであり、ユダヤ人の指導者であるという話であった。この話をした目的は、彼らを裁くことではなく、皆が自分の間違いを認められるようにすることであった。ユダヤ人のやり方は間違いであったということを証しする方は唯一神である。なぜなら、唯一の神がイエスを復活させたからである。ユダヤ人が間違ったということは間違いない。だからユダヤ人には、自分の罪が消し去られるように、悔い改めて立ち帰る態度が必要である。「悔い改める」とは、自分の間違いを認めることである。「立ち帰る」とは、イエスがメシアであるということを認めることである。悔い改めた人々に対しては、神は全ての罪を許す。福音者ヨハネの言葉によれば、イエスを信じる人々の罪だけではなく、全世界の罪が神によって許される。ユダヤ教の教えによると、罪が許されるためには捧げ物をしなければならない。イエス・キリストは全世界の罪を償う生贄である。この生贄によって、唯一の神は人間の罪を許した。しかし、人間が許されるためには良い行いをして、唯一の神を知らなければならない。「唯一の神を知る」ということは、神が存在するということに賛成することではなく、唯一の神の御旨を行うことである。ヨハネにとって唯一神を知るということは、この神の掟を守るということである。唯一の神の掟を守っている人は徐々に掟の意味と目的の理解ができ、神の御旨が分かるようになり,意識的な弟子として唯一の神の内にいることができるようになる。しかし、それにはまず掟と聖書の言葉の意味を理解することが必要である。イエスの弟子は恐れを感じているので、イエスが現れた時にイエスであるということが分からなかった。恐れを感じている人は、決して正しい理解ができない。イエスの弟子たちはメシアの受難と復活について、聖書の言葉を無視してそれぞれの考え方に固執し、聖書の言葉がわからなかったために、イエスの受難の意味が理解できなかった。全世界の罪を許すためにメシアはその道を歩かなければならなかった。イエスの弟子たちはこのメシアについて述べ伝えなければならない。現代の困難から救ってくださるメシアというだけではなく、罪と永遠の死から人間を救われるメシアについて述べ伝えることが弟子たちに課せられた使命である。「イエスは救い主である」という言葉の意味が理解できた人の心の中で、イエスの挨拶、「あなた方に平和があるように」が実現される。

 
メッセージ - B年 復活節

「復活徹夜祭はすべての徹夜祭の母である」と言われます。イエスの十字架と復活を、そして私達の死と復活の先駆けとなるこの喜びの神秘を、毎週の主日ごとに祝いますが、今夜、私たちは、一年に一度の機会に、荘厳に祝うためにここに集まっています。

聖書の記事は、特にイエスの受難と復活のメッセージは、何か客観的な情報を伝えようとするものではありません。四つの福音書は、それぞれの仕方で、イエスの受難の出来事を記しています。受難の記事は、初代教会の信仰生活に中で練られ形成されてきたメッセージです。それは過去の話だけでなく、どの時代にあってもキリスト者の苦しみと希望の中で力となってきたメッセージです。もっとも、十字架と表裏一体である復活という出来事は、十字架死とは異なって、私たちの日常の経験を超えた出来事であるので、厳密な意味で言葉にすることはできません。しかし、逆に、いろいろな表現の仕方が可能であるし、また多様な表現が必要と言うことになります。「キリストが復活しなかったのなら、あなた方の信仰は空しく、あなた方は今なお罪の中にいることになる・・」(1コリ15,17-19)。キリストの復活の出来事は、私達の喜びの信仰の中心です。人生、生と死に意味を与えるものがキリストの復活である、と言うことが出来ます。無意味に私たちは耐えることが出来ません。生きる方向性なしに私たちは生きることが出来ません。

 

イエスがこの地上に姿を一瞬顕し、そして、人間の視界から去って、2000年が過ぎました。時代は変わりました。しかし、人間は共に生きていこうとするときに生じる様々な問題は、基本的に同じような様相を呈していると言えそうです。出会いや別れや、信頼や裏切りや愛や憎しみや、真実と虚偽の交錯する世界。衣食住が満たされず人間としての尊厳が奪われている世界がある一方で、ものが満ち足りているがために、かえって別の深刻な問題を抱えている世界に私達は生きています。イエスもそのような現実の中を生きました。

イエスは、通常のラビとは異なっていました。通常の仕方で聖書を解釈するようなことはありませんでした。自分の言葉で語り、特に困難にある人たちに語りかけていきました。「あなたの罪は許されています。安心していきなさい」「あなたは自分の足で歩けます。勇気をもって立ち上がりなさい」誰彼の区別なく、関わる人々にご自分を差し出していかれた。権威を持った自由な行動発言にその社会の指導者たちはつまずきました。「安息日」の掟に象徴される律法をも超えていきました。彼はとらえられ、十字架刑に処されました。

「木にあげられたものは神に呪われたもの」と言う聖書の言葉に従って、イエスが語ったこと行ったことがすべて無効であると宣言するために、彼らはイエスを十字架につけました。 これですべてが終わったかに見えました。

 

誰をも裁かず、誰に対しても恨みを抱かず、真実を語り続けた方を人間が十字架につけました。これはたんなるひとつの「犯罪」と言うようなことではなく、人間が本当に人間らしく生きていこうとするときに、ほかならぬ他の人間がこれを抹殺してしまう。また、それを傍観する、と言う構造。これが罪ということの本当の正体かもしれません。この根源的な罪が清算されない限り、この世界に救いと平和はありません。神はイエスによってこの解放を宣言されました。十字架は問いです、神のみが答え得ると問です。そして、神はイエスの復活によって、これに応えられました。

 

イエスの十字架死に衝撃を受けた、まさに、打ち砕かれた弟子たちに根本的な変化が起こりました。イエスは高く挙げられた、神はイエスを死者の中から立ち上がらせた、イエスは生きている…そして、私たちのために死なれたイエスは今生きている、という言語化がなされます。「私たちのため」と言い方には、二つの側面があります、一つは「私たちのせいで、私たちの責任で」死なせてしまった、もう一つは「私達が生きることが出来るように、本当に生きることができるように」という側面です。そしてその体験が自分たちだけのものではなくて、すべてのひとに関わりあるできごと、喜びの出来事として理解されていきます。これが宣教の始まりとなります。

 

キリスト者の生き方は「イエス・キリストの死と復活の参与する生き方」であると言われます。パウロのローマの教会への手紙で朗読された洗礼の出来事。闇から光への以降、死から命への過ぎ越し。これを私たちは先ほど光の祭儀で祝いました、復活賛歌では、イエスが根源的な罪に打ち勝ったという宣言が、旧約聖書の用語言い回しで歌われました。

四の聖書朗読では、イエス・キリストの至るまでの救いの歴史の思い起こしがなされました。その歴史は、今もこうして私たちに引き継がれていきます。

私たちは例外なく、神から神の下へ戻るのだ、ということを信じています。どのようにして、どのような実りを携えて戻るのかは私達の課題となっています。

 

モーリャックの墓碑銘にこう刻まれているそうです。それは素朴な信仰を表しています

 

「私は幼こころに信じたことを今もそのまま信じている。人生には意味がある、行先がある、価値がある。一つ分お涙も、一滴の血も決してわすれられることはない、神は愛なのだから」

 

この後、洗礼の更新が行われます。洗礼が決して安価な恵みではないこと、そしてその恵みが私たちに、イエスの命を世にもたらしていく喜ばしい使命を与えるものであることを、言葉と記し持って宣言いたしましょう。

 
メッセージ - B年 復活節

 

 

「わたしの主、わたしの神よ」

 

ヨハネによる福音に基づくと、弟子たちに現れた復活したキリストの出来事が五つの特徴があります。

①          復活したキリストは、戸が閉じられた広間にいた弟子たちの真ん中に立つこと。

②          復活したキリストの最初の言葉は、「あなたがたに平和があるように」であり、それを繰り返し言われたこと。

③          復活したキリストは、弟子に御顔よりも、手と脇腹にあった傷痕をお見せになったこと。(使徒トマスに触れさせたこと。)

④          復活したキリストは、弟子たちに息を吹きかけて聖霊を受けさせたこと。

⑤          復活したキリストは、十字架上で成し遂げた罪の赦しを執行するために弟子たちを派遣したこと。

 

復活したキリストの現存を表現するこの五つは、どんな時代にもどんな所でも、典礼の中で秘跡の内に(特に御ミサの内に)実現し続けるのです。

1)キリストは、「二人または三人がわたしの名によって集まる所には、わたしもその中にいるのである。」(マタ18,20)と約束されました。私たちは、共に祈る時、御ミサに参加する時にキリストも共にいます。

2)復活したキリストが弟子たちの裏切りと罪などについて触れることなく、彼らを平和と喜びで満たすために来られました。同じように今も、悪いものを恐れ、病気、死や失敗などを恐れ、また弱さや罪深さのために神様を恐れる私たちにキリストが平和を与えるために来られます。

3)キリストの現存の識別は、御顔ではなく、十字架につけられた傷痕です。イエス様は、すべての人間のために、そしてすべての罪の赦しのために十字架につけられた救い主であることを示します。無償であり無条件である死に至るまで成し遂げられた最大な愛を実現したキリストは罪と死を滅ぼし、御復活の内に愛と命の勝利を成し遂げ、これに与るように私たちを招いてくださいます。特に御ミサの中でキリストは、同じく「これは、わたしの体」であることを示します。私たちは、キリストに触れて聖体拝領の中でキリストと一つになる恵みを受けます。

4)神様は土でアダムの創造の時に、人間が生きるために、「その鼻に命の息を吹き入れられた」(創2,7)ように、御復活なさったキリストは、弟子たちに命の与え主である聖霊を受けさせました。これに続き私たちも、洗礼の秘跡を初め、多くの秘跡と典礼を通して死すべき罪人の私たちにも、キリストは御父から聖霊を豊かにお与えになります。

5)この恵みを生きるために、私たちはキリストによって十字架上で成し遂げられた罪の赦しと、御復活による命の勝利を、人を赦すことによって、キリストの救いを広めるために弟子たちを派遣しました。入信の秘跡を受ける私たちも遣わされています。

 

私たちは、キリストが成し遂げられた御復活の五つ局面を生きているでしょうか。キリストの死と復活の証し人となるために、12使徒に倣って恐れと不安を捨て、キリストの愛に触れて聖霊を受け、使徒トマスに従ってキリストに、「わたしの主、わたしの神よ」という信仰を告白しましょう。

 
メッセージ - B年 復活節

 

朗読: 出エジプト12・1-8,11-14

一コリント11・23-26

ヨハネ13・1-15

 

聞いた話ではありますが、私の故郷インドネシアのフロレス島のとある田舎の教会での聖木曜日の洗足式の時に、主任司祭は参列した信者の中から適当に子供から老人まで12人を選んで、彼らの足を洗いました。順番に一人一人の足を洗って、最後の人の番が来ました。普段教会にあまり来ていない一人の老人でした。司祭がしゃがんで老人の足を洗おうとする時に、彼は自分の足を引いて、手を差し出しました。足ではなくて、手を洗うように合図しました。素朴な老人は、普段も裸足で生活し、その日も3キロ離れた村から裸足で歩いてきました。自分の汚い足を主任司祭が洗うのはどうしても抵抗があったようです。ミサ中で、皆が見ている前で老人を説得する時間がなかった主任司祭は老人の手を洗いました。

最後の晩餐でイエスが洗ったのは弟子達の足です。手や頭、体の他の部分ではなく、足です。いつも地に着いた足です。赤土でホコリが立ちやすいパレスチナでは、なおさらのことです。そのため、当時のオリエント社会では、旅をした人や宴会につく前に客の足を洗う習慣があったのです。とは言え、足洗は奴隷がやることです。弟子たちにとって、師であるイエスが自分たちの足を洗うことは異例なことで、それに抵抗があって当然です。「先生が私の足を洗うなんて、とんでもないことです」とペトロは強く反発しました。しかも、その時にペトロが使っているギリシア語の表現は、モノゴトを否定する時の最も強い表現、神に誓う時にも用いられる表現です。「神に誓って、何があっても、永遠に、絶対にあなたが私の足を洗うことはない」というニュアンスでペトロは自分の足がイエスに洗われるのを強く否定しました。しかし、イエスはペトロを説得しました。「あなたの足を洗わないなら、私とあなたとは何のかかわりもないことになる」。正確には、「私があなたの足を洗わないなら、あなたは私から何の遺産も受け継がないことになる」。イエスが言う「遺産」とは永遠の命です、十字架上で示されたイエスの愛です、ゆるしです。ペトロがイエスから受け継いだ遺産、それはペトロが自分の弱さから立ち上がるために不可欠なイエスの愛です、ゆるしです。

そうです。人間は愛されることで愛を学び、ゆるされることで人を赦すことを学び、成長していくのです。残念なことに、私たち人間の互いへの愛とゆるしはいつも限界があります。私たちがお互いに自分の最も汚い部分を人に触れてほしくない、人に知られたくないです。愛を失うこと、赦してもらえないのが怖いからです。自分の汚い部分をさらけ出せるのは、無条件に受け入れてくれる、無条件に愛してくれる人にしかできません。私の最も汚い自分を無条件に受け入れてくれる人だけが本当の意味で私の足を洗う人です。本当の意味でホコリにまみれた弟子たちと私たち一人一人の足を洗うのは主だけです。主は清くならないユダの足でさえ洗ってくださったのです。パン切れを受けてから、背中を向けて暗闇の中に出ていったユダの足でさえ主は洗ってくださったのです。

主に洗われたものとして、主に無条件に愛されたものとして、主にゆるされたものとして、主に生かされたものとして、私たちも主の模範にならい、互いに足を洗い合う、弱さや足りなさを含めて互いに認め合う、互いに許し合う、互いのために日々生きていく決意を新たにしたいものです。

 
メッセージ - B年 四旬節

 

朗読: 第一朗読 イザヤ50:4-7

第二朗読 フィリピ2:6-11

福音朗読 マタイ27:11-54

 

第一朗読に、預言者イザヤは、異国の地で強制労働に明け暮れた末、シオンの町に帰還した民に向かって、「主なる神は、弟子としての舌をわたしに与え、疲れた人を励ますように、言葉を呼び覚ましてくださる」と告げました。疲れ果てた民を励ます「神の僕」とはいったい何ものなのか。自分を打とうとするものに背中を任せ、ひげを抜こうとする者に頬を任せ、顔を隠さずに、嘲りと唾を黙って受けるこの「僕」とは、いったい誰なのか。何のために?また、全てを耐え抜く力はどこから来るのだろうか。

マタイ福音書の受難物語はその答えが教えてくれるのです。マタイにとって、イエスこそがその忠実な「神も僕」である。ピラトの前に、侮辱されて、いつわりの証言で訴えられても黙っていたイエス。着ているものがはぎ取られて、侮辱の赤いマントを着せられても黙っているイエス。叩かれ、唾を吐きかけられても、黙っているイエス。預言者イザヤが語っている忠実な僕はモーセやその他の預言者ではなく、預言者イザヤ自身でもなく、「神の身分でありながら、神と等しいものであることに固執しようとは思わないイエス」にほかなりません。

しかし、なぜ神の子イエスが人間となって、しかも十字架の死に至るまで自分を無にしたのだろうか。その答えは一つしかない:人間を救うため。罪の暗闇の中に閉じ込められている人間を救うため。自分ではもうどうしようもできない私たちを救うために、イエスは十字架の上で自分の命を明け渡したのです。息を引き取られる前に、イエスは「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫びました。この叫びの中に、イエスが耐えた苦しみがその極みに達したことが分かります。それでも、イエスは十字架を捨てることはなかったのです。人々の期待通りに十字架から降りて自分を救うことのできるものが「神の子」ではありません。イエスの死から言えることは、死なないものが「神の子」ではなく、人のために死んで復活するものが神の子なのです。