メッセージ - B年 年間 |
第一朗読 ‐ヨブ38, 1. 8-11
唯一神は全世界を造りました。世界は最初から最後まで唯一神の御旨通りに造られたのです。だから唯一神は全世界を支配します。創造の時、唯一神はすべてのことに限りを定めました。第一朗読の言葉は海に関する話です。大地や海や空は唯一神によって造られた生き物のための場所です。生き物は種類によってそれぞれ別の場所で暮らしています。人間の場合は海や空に行くことはできますが、そこでは住めません。人間は大地に住んでいます。人間が安全に生活できるように、海の力は唯一の神によって限定されました。海が人間の命を奪うことは、唯一神の御旨ではありません。
福音書 ‐マコ4、35-42
ガリラヤ湖はあまり大きい湖ではないですが、強い風が吹くと、時々海のような波が立ちます。そういう時のガリラヤ湖はとても怖いです。福音書の朗読によれば、イエスと彼の弟子たちはそのような経験をしました。弟子の中には漁師もいましたが、突風と戦うには力が足りませんでした。船が波をかぶっている状態にあって、自分の命を失う可能性があるという理解しかできませんでした。この理解に基づいてイエスに助けを求めました。神の子であるイエスは神である父と同じく、自然を支配できる方として空風を静めました。人間にはそのようなことはできません。人間はたいてい自然に負けます。そこで、弟子たちはイエス自身について考え始めました。
第二朗読 ‐二コリ5,14-17
第二朗読の言葉は、第一朗読の言葉や福音書の言葉とは関係がなさそうに見えますが、実はそうではありません。一般的に言えば、人間は大自然を見れば神が存在するということが理解できます。自然の力を見たら人間の力では到底及ばない強さがあるということを学びます。しかし、それよりもっと唯一神のことを深く知るためには、別の方法があります。それは信仰の道です。コリント教会の信者たちはイエスについての福音を聞いて(例えば今日の福音書)、イエスが普通の人間ではなく、神の子であるということを信じ始めました。この信仰のおかげでイエスと深く関係することができるようになりました。
メッセージ - B年 年間 |
「成長する種」の例え(マルコ4章26‐29節)
キリストが教えてくださった神の国についての例えを以下のとおりに理解しても良いと思います。
1.「人が土に種を蒔い(た。)」
人間は、種を蒔くことができるが、種そのモノを作ることができません。それは、神御自身がお創りになり、その小さな粒の中で大きな植物にするDNAのプログラムを備えてくださいました。
2.「夜昼、寝起きしている内に種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。」
人間は、経験上で種の成長を助けるために土をおこしたり、肥料を与えたり、水をやったりすることができます。しかし、種の成長が神の創造と命の神秘であり、人はこれについて何も決めることも、どうすることもできません。
3.「土はひとりでに身を結ばせるのであり、先ず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。」
種が成長する条件は、土の中にあるということにあります。種は土から栄養を取って自分の身を作り上げて行きます。
4.「実が熟すと、早速、鎌を入れる。収穫の時が来たからである。」
人間は神が定めた時に、自由に、また無償の恵みとしてその実を刈り取ることができます。
この例え話は、神の国が神様と人間の関わりの中で実現していくことを促しています。種が神様の働き(また御言葉)を現し、土は人間の役目を表現します。神様は「紳士」です。その働きは小さな種のようで、御自分を押し付けることも、その偉大さのゆえに、人間の働きに何らかの強制や圧迫などを与えることはありません。神様がその慈しみによって、人間に神の国を無償、無条件に与えようとしてくださいます。
土が種を受け入れるように私たちは、自分の心に神様の働き (神の御言葉)を受け入れるならば、自分たちの内に神の命が誕生して神の国が自ら成長します。土の持っている成分が成長する種の栄養になっているように、私たちは、神様の働き(神の御言葉)のために自分自身を尽していくならば、神の国が私たちの内に実現していき、神様の命に与る者となります。世間の目では、人間が神の国のために犠牲になっているように見えますが、信仰の目で見れば、土と種のような密接に結ばれた関係の中にあるように、私たちは、神の国の恵みを自由に「刈り取る」ことができ、神様の愛と永遠の命に与る者となります。
メッセージ - B年 祭祝日 |
典礼暦年の始まりは、毎週の「主日」です。その日に信者は集まって、主の死と復活を祝い、同時に私たち自身の死と復活を、ある意味で、体験します。後代の典礼暦では、聖木曜日に主の晩餐の夕べのミサで、聖週間の雰囲気の中で、主の死と復活を記念します。その後の典礼暦の展開の中にこの「キリストの聖体」の祭日が現れることになります。
ちなみに、聖霊降臨祭の後に始まる「年間」(正確には、年間節)の中には、全部で7つの「主の祝祭日」があります。それらには、5世紀にさかのぼる古いものから20世紀に生まれた新しいものまでが含まれています。「キリストの聖体」は、西方教会に固有の4っつの祝祭日の一つとなっています。この祝日が始めて祝われたのは十三世紀(1247年)でした。それはリージュの修道女ユリアナが、1208年に受けた啓示に端を発すると言われています。教皇ウルバノIV性は、教令を発布し、聖霊降臨後の木曜日にこの祝日を設定しました。
これは、西方教会において教皇がその権威をもって新しい祝日を奨めた最初の霊となっています。後に、教皇クレメンスV世とヨハネXXII世がこれを確認してようやくこの時期に西方の全教会で祝日となりました。
さて、当日の三つの朗読に共通するテーマは「契約」です。第一朗読の出エジプト記と福音書では「契約の血」が共通しています。しかし、前者の契約の血は「雄牛の血」が神とイスラエルの民との契約のしるしとなっていますが、新約では「イエスの血」が神と人をつなげる契りの血となっています。第二朗読のヘブライ書では「キリストの血」。「血」は旧約聖書でも新約聖書でも「いのち」を指しています。イエスご自身が、その「いのち」つまり、生涯の奉仕を通して、人間と神のつながりを回復させてくださった、というのがキリスト教の信仰です。
そして、その和解の働きをキリスト者は担い、継続させていく恵みと使命を与えられていることを想起し、私達の生き方を整えていきたいと思います。
メッセージ - B年 祭祝日 |
朗読: 申命記4:32-34,39-40
ローマ8:14-17
マタイ28:16-20
三位一体の神秘を必死に考えている聖アウグスティヌスは海辺に歩いていた。そこで、とある男の子に目が留まりました。子供は自分の手で海の水を運んで、砂に掘った小さな穴に必死に入れていた。「何をしているの?」とアウグスティヌスは子供に声をかけた。「この海をあの穴に移動したい」と子供は答えた。「あの小さな穴で?…無理だよ」と。子供は微笑みながら答えた「あなたも、その小さな頭で三位一体の神秘を理解したい?」。
聖書は三位一体の本質はどういったものかについて説明していない。かえって、三位一体の主日に読まれる三つの朗読にあるように、神の働きに注目している。第一朗読で、モーセは約束の地に旅するイスラエルの民に向かって、今まで歩いてきた道乗りの中で、神が行われたことを思い起こすように促した。神は民の前で「しるしと奇跡を行い…、一つの国民を他の国民の中から選び出した」ことを思い出すように。神は、我が子を守る「父なる神」、昼も夜もイスラエルの民を約束の地に導いていく神である。
第二朗読は聖霊の働きを強調する。人は聖霊の導きによって、神の子とされる。聖霊に包まれる時に、私たちは親しみを込めて神を「アッバ、父よ」と呼びかけることができる。こうして、霊の働きによって、私たちは神の子であるキリストと共に「神の相続人」となれる。しかし、そのために、私たちもキリストが歩まれた道を歩まなければならない。共に栄光を受けるためには、共に苦しむことが不可欠な条件となる。つまり、キリストの働きが私たち自身の働きとならなければならない。イエスのように、聖霊に力づけられ、その導きに心を開く時に、今ここで一人一人に与えられている十字架を最後まで担っていくことが出来る。
マタイ福音書は、イエスがこの世でのご自身の働きを続ける使命を弟子たちにゆだねられる場面を描いている。マタイによれば、イエスが指示していた山に行って、イエスと最後に出会った弟子の中に、「疑う」ものもいた。正に、現代に生きる私たちの状況を現しているような気がする。それでも、イエスは自分を疑っている弟子、そして信仰の足りない私たちに、「すべての民を私の弟子にしなさい」という重大な使命を与える。主ご自身が「世の終わりまでいつも共にいる」からだ。
私たちは「父と子と聖霊の名によって」洗礼を受けた。また、「父と子と聖霊の名によって」洗礼を授ける。たとえ三位一体の神秘を理解することが出来ないとしても、その働きに身をゆだねる時に、私たちの未完全な信仰が完成されていくように願いたい。
メッセージ - B年 祭祝日 |
(ヨハ15,26-27;16,12-15)
「人々は驚き怪しんで言った。「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。どうして私たちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。」使 2,7-8
バベルの塔の物語(創11,1-9)が教えている通り、人類は神を無視して、自分の力にだけ頼って幸せになろうとしている時、段々と分列して、互いに誤解したり、争ったりして、結果的に皆が不幸になるのです。
聖霊降臨の出来事は、バベルの塔の物語が描いている出来事と正反対の出来事です。元々互いに理解していなかった人たちは、聖霊の働きによって、互いに理解するようになり、キリストを中心とする共同体を作り、一緒に力を合わせて神のわざに協力することによって、創造主である神が求めている一致に向かって歩むようになりました。神における人類の一致こそ、神が最初から求めていることであり、すべての人にとって最高の幸福の状態なのです。聖霊降臨の日に生まれた教会は、全人類をこの目的に導く使命を与えられています。
洗礼の時に聖霊を与えられた私たち一人ひとりが、聖霊の導きに忠実に従い、イエス・キリストと同じように神の愛を示すことによって、多くの人々を神のもとに引き寄せることができますように祈りましょう。