メッセージ - B年 祭祝日

使徒12:1-11

テモ4:6-8,17-18

マタ1613-19

 

イエスとペトロとの出会いはガリラヤ湖のほとりで起こりました。父と兄弟アンドレと共に網を直している時でした。仕事に夢中になっているペトロに「私に従いなさい。人間をとる漁師にする」と。イエスの呼びかけに答えて、ペトロは本職をも投げ捨てて、イエスについて回ってきました。真面目でひたむきなペトロの姿にイエスは目をつけていたことでしょう。弟子たちの間にペトロが中心的な役割を果たしていたのも驚くことではないのです。「あなた方は私を何者だというのか」という弟子たちへの大変重要な問いかけに、ペトロは真っ先に「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えました。その見事な答えに、イエスはペトロに教会を築いていく使命を与えました。「あなたはペトロ。私はこの岩の上に私の教会を立てる」。真面目でひたむきなペトロ、しかし、あれから間もなく、ペトロはイエスを三度も知らないと否定しました。自分の弱さを抱えながらも、最後に、「あなたは私を愛しているのか」と三度繰り返し聞かれる時に、ペトロはその度に「主よ、私があなたを愛していることはあなたがご存知です」と答えました。そして、ペトロは命をかけてその言葉を守り抜きました。

パウロは復活したイエスと出会いました。ダマスコに向かっていく途中でした。ひたむきに律法を守ろうとするパウロに「なぜ私を迫害するのか」とイエスは問いかけました。今までの熱心さは間違っていた方向だったことにパウロは気づきました。あれからパウロは信じる人々を迫害するものから信仰を誰よりも熱心に伝える使徒となりました。しかも、今まで守ってきた律法を越えて、異邦人のための宣教の開拓者となりました。最後にパウロはイエスのために自分の命をかけて、信仰を守り抜きました。

ペトロとパウロ、二人は異なった道を歩みました。二人は異なった使命が任せられました。しかし、二人が共通するのはイエスへのひたむきな思いでした。二人はけっして完璧な人間ではないです。そうではなくて、つまづくたびに起き上がることを諦めない二人です。自分を変えることを惜しまない二人です。弱さを抱えながらも最後までイエスに従う二人です。イエスの弟子となるのにもっとも大事なことを聖ペトロと聖パウロから学ぶことができるのです。

 
メッセージ - B年 年間

 

マコ5,21-43

「神が死を造られたわけではなく、命あるものの滅びを喜ばれるわけでもない。

生かすためにこそ神は万物をお造りになった。世にある造られた物は価値がある。」知1:13-14

 

神が人間を創造されたのは、ご自分の命を人間と分かち合うためなのです。言い換えれば、神の命にあずかることが人生の目的であって、人間にとって最高の幸福の状態なのです。

残念ながら、昔も今も多くの人は神のことを自分と何の関係もない存在や、自分の幸福を妨げるもの、また、自分の不幸の原因として考えて、神を全く無視するか、神を恐れたり憎んだりして、なるべく神と関わらないようにしています。

幸いに、多くの人は神について以上のように考えても、神に対してそのような態度をとっても、神はご自分の最初の望み、人間の創造の理由であったこの望みを捨てることなく、一人ひとりをご自分のもとに導くように、そしてご自分の命にあずからせるように絶えず働いておられます。神の子であるイエス・キリストの言葉と行いがこのような神の働きの最も重要で、決定的な部分なのです。

人間になった神の子は、人間に分かりやすい方法で、神が人間の一番力強い味方であるということ、神こそ、人間のために豊かで、充実した生活を求めておられること、また、神だけが人間をありとあらゆる苦しみや危険から救い、永遠に続く幸福を与えることのできる方であることを示してくださったのです。

イエスの証を信じて、神のもとに集まって、神の命にあずかるようになった私たちは、イエスの働きを続ける使命を与えられています。私たちは、命の源である神の愛を感謝しながら、この愛に忠実に生き、死ではなく、命をもたらすことによって与えられた使命を果たすことができますように祈りましょう。

 
メッセージ - B年 年間

第一朗読              ‐ヨブ38, 1. 8-11

唯一神は全世界を造りました。世界は最初から最後まで唯一神の御旨通りに造られたのです。だから唯一神は全世界を支配します。創造の時、唯一神はすべてのことに限りを定めました。第一朗読の言葉は海に関する話です。大地や海や空は唯一神によって造られた生き物のための場所です。生き物は種類によってそれぞれ別の場所で暮らしています。人間の場合は海や空に行くことはできますが、そこでは住めません。人間は大地に住んでいます。人間が安全に生活できるように、海の力は唯一の神によって限定されました。海が人間の命を奪うことは、唯一神の御旨ではありません。

福音書                  ‐マコ4、35-42

ガリラヤ湖はあまり大きい湖ではないですが、強い風が吹くと、時々海のような波が立ちます。そういう時のガリラヤ湖はとても怖いです。福音書の朗読によれば、イエスと彼の弟子たちはそのような経験をしました。弟子の中には漁師もいましたが、突風と戦うには力が足りませんでした。船が波をかぶっている状態にあって、自分の命を失う可能性があるという理解しかできませんでした。この理解に基づいてイエスに助けを求めました。神の子であるイエスは神である父と同じく、自然を支配できる方として空風を静めました。人間にはそのようなことはできません。人間はたいてい自然に負けます。そこで、弟子たちはイエス自身について考え始めました。

 

第二朗読              ‐二コリ5,14-17

第二朗読の言葉は、第一朗読の言葉や福音書の言葉とは関係がなさそうに見えますが、実はそうではありません。一般的に言えば、人間は大自然を見れば神が存在するということが理解できます。自然の力を見たら人間の力では到底及ばない強さがあるということを学びます。しかし、それよりもっと唯一神のことを深く知るためには、別の方法があります。それは信仰の道です。コリント教会の信者たちはイエスについての福音を聞いて(例えば今日の福音書)、イエスが普通の人間ではなく、神の子であるということを信じ始めました。この信仰のおかげでイエスと深く関係することができるようになりました。

 

 
メッセージ - B年 年間

 

「成長する種」の例え(マルコ4章26‐29節)

キリストが教えてくださった神の国についての例えを以下のとおりに理解しても良いと思います。

1.「人が土に種を蒔い(た。)

人間は、種を蒔くことができるが、種そのモノを作ることができません。それは、神御自身がお創りになり、その小さな粒の中で大きな植物にするDNAのプログラムを備えてくださいました。

2.「夜昼、寝起きしている内に種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。」

人間は、経験上で種の成長を助けるために土をおこしたり、肥料を与えたり、水をやったりすることができます。しかし、種の成長が神の創造と命の神秘であり、人はこれについて何も決めることも、どうすることもできません。

3.「土はひとりでに身を結ばせるのであり、先ず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。」

種が成長する条件は、土の中にあるということにあります。種は土から栄養を取って自分の身を作り上げて行きます。

4.「実が熟すと、早速、鎌を入れる。収穫の時が来たからである。」

人間は神が定めた時に、自由に、また無償の恵みとしてその実を刈り取ることができます。

この例え話は、神の国が神様と人間の関わりの中で実現していくことを促しています。種が神様の働き(また御言葉)を現し、土は人間の役目を表現します。神様は「紳士」です。その働きは小さな種のようで、御自分を押し付けることも、その偉大さのゆえに、人間の働きに何らかの強制や圧迫などを与えることはありません。神様がその慈しみによって、人間に神の国を無償、無条件に与えようとしてくださいます。

土が種を受け入れるように私たちは、自分の心に神様の働き (神の御言葉)を受け入れるならば、自分たちの内に神の命が誕生して神の国が自ら成長します。土の持っている成分が成長する種の栄養になっているように、私たちは、神様の働き(神の御言葉)のために自分自身を尽していくならば、神の国が私たちの内に実現していき、神様の命に与る者となります。世間の目では、人間が神の国のために犠牲になっているように見えますが、信仰の目で見れば、土と種のような密接に結ばれた関係の中にあるように、私たちは、神の国の恵みを自由に「刈り取る」ことができ、神様の愛と永遠の命に与る者となります。

 
メッセージ - B年 祭祝日

典礼暦年の始まりは、毎週の「主日」です。その日に信者は集まって、主の死と復活を祝い、同時に私たち自身の死と復活を、ある意味で、体験します。後代の典礼暦では、聖木曜日に主の晩餐の夕べのミサで、聖週間の雰囲気の中で、主の死と復活を記念します。その後の典礼暦の展開の中にこの「キリストの聖体」の祭日が現れることになります。

 

ちなみに、聖霊降臨祭の後に始まる「年間」(正確には、年間節)の中には、全部で7つの「主の祝祭日」があります。それらには、5世紀にさかのぼる古いものから20世紀に生まれた新しいものまでが含まれています。「キリストの聖体」は、西方教会に固有の4っつの祝祭日の一つとなっています。この祝日が始めて祝われたのは十三世紀(1247年)でした。それはリージュの修道女ユリアナが、1208年に受けた啓示に端を発すると言われています。教皇ウルバノIV性は、教令を発布し、聖霊降臨後の木曜日にこの祝日を設定しました。

これは、西方教会において教皇がその権威をもって新しい祝日を奨めた最初の霊となっています。後に、教皇クレメンスV世とヨハネXXII世がこれを確認してようやくこの時期に西方の全教会で祝日となりました。

 

さて、当日の三つの朗読に共通するテーマは「契約」です。第一朗読の出エジプト記と福音書では「契約の血」が共通しています。しかし、前者の契約の血は「雄牛の血」が神とイスラエルの民との契約のしるしとなっていますが、新約では「イエスの血」が神と人をつなげる契りの血となっています。第二朗読のヘブライ書では「キリストの血」。「血」は旧約聖書でも新約聖書でも「いのち」を指しています。イエスご自身が、その「いのち」つまり、生涯の奉仕を通して、人間と神のつながりを回復させてくださった、というのがキリスト教の信仰です。

そして、その和解の働きをキリスト者は担い、継続させていく恵みと使命を与えられていることを想起し、私達の生き方を整えていきたいと思います。