メッセージ - C年 年間 |
第一朗読:イザヤ62,1-5
第二朗読:1コリント12,4-11
福音書:ヨハネ2,1-12
キリスト教会とは、イエスを信じる全信者のことであり、この世におけるキリストの体である(1コリ12、27)。教会の中で不必要な人は一人もいない。すべての個人は教会にとって大切な者である(1コリ12,12-26)。一人一人が教会の委員として、信者として、キリストの体の一つの部分として、神から貰った聖霊の賜物によってキリストの体である教会のために生きることは、教会の共同体のために生きることである。
第一朗読は、予言者イザヤが、まだエルサレムが倒れている間に述べた、将来訪れるエルサレムの栄光についての予言である。国民の心を守るためにはそうすることしか出来なかったが、それ以上に非常に重要なことであった。この予言によって、ユダヤ人たちの心の中に国民の伝統や宗教の伝統などを守るのに必要な力が引き起こされた。イザヤは神から貰った賜物をユダヤ教を守るために使った。
使徒パウロがコリントの使徒への手紙を書いた理由は、信者たちが一つの教会であり、一つのキリストの体であり、共同体であるということを理解せず、教会の中でそれぞれのグループが自分達の栄光を望み、他のグループに対して競争するという関係を作っていたからである。競争することで、社会的な事件だけではなく宗教的な事件も起こっていた。例えばどのグループが神から最も大切な霊的な賜物を貰ったかという争いは一つの問題であった。このような問題を正すため、パウロは霊的な賜物について二つの重要な教えを与えた。それは、すべての霊的な賜物の源と、その目的である。霊的な賜物の源はいつも唯一の神であり、霊的な賜物の目的はキリストの体である教会の共同体を建てることである。
賢振式の時にキリスト教の信者たちは聖霊の賜物を受け、教会の共同体を建てるために霊的な賜物を使い、共同体として信仰の道を歩くことがキリスト者らしい心掛けである。
ヨハネ福音者によれば、カナでの御礼の際に行われたイエスの最初の秘跡は、体を癒すことや汚れた霊を追い出すことなどに関することではない。婚礼の時にぶどう酒が足りなくなるということは、世話役にとって恥ずかしいことであり、花婿と花嫁にとってよくないしるしであった(ヨハ2,3)。それは客の関与するところではなかった(ヨハ2,4)が、マリアの懇願により、イエスは困難に陥った人々を助けた。このような社会的な背景があるイエスの最初の軌跡は、イエスの栄光の現れ(ヨハネ2、11)というだけではなく、イエスがこの世で良い心を持っている人々の手(ヨハ3,7-8)を使って、必要とする人々を助けるということを証しする。
聖書が教えるカテキズム - 聖書が教えるカテキズム |
「聖書が教えるカテキズム」2016年1月の講話
序。 この講話は、使徒信条の中で、「(主イエス・キリストは、)三日目に死者のうちから復活し、天に昇って全能の父の右の座に着き、生者(せいしゃ)と死者を裁くために来られます」という節、また、ニケア・コンスタンチノポールの信条の「(主イエス・キリストは、)聖書にあるとおり、三日目に復活し、天に昇り、父の右の座に着いておられます。主は生者(せいしゃ)と死者を裁くために栄光のうちに再び来られます。その国は終わることがありません。」という節について、聖書の中で啓示されたことを紹介し解説するものです。
回心してキリストを信じるようになった使徒パウロは、十二使徒から受け継いだ信仰を以下の引用どおりにまとめました。
「最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおり、わたしたちの罪のために死んだこと、 葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファ(ペトロ)に現れ、その後十二人に現れたことです。次いで、五百人以上もの兄弟たちに同時に現れました。」(一コリント15章3-6節)
キリストが誠に死せられ、そして誠に御復活なさったという過越の神秘は、聖書にあるとおりの神様の御計画に沿った世の救いの成就です。死から命へと移って御復活なさったこと、そして地上から天国へと移って御昇天なさったことは、キリストの過越の神秘の本質です。十字架上の死によって成し遂げられた罪に対する愛の勝利は、御復活の勝利と密接に結ばれています。キリストの死が私たちの罪の赦しのためであり、その御復活は私たちを神様の命に与からせるためであると言います。この真理は、キリスト教の信仰の源泉であり頂点でもあります。
復活は、自然法則と人間の理性の限界を超えるものであり、科学的に証明されるものでもありません。復活は理性の理解を超えているからこそ、信仰の内容です。信仰は、神の啓示と恵みを知って、地上の次元を超え、私たちに限りのない神様の世界を開くところから始まります。信仰は、信じる対象である神様を愛するために知ることを求めて、神様と人間の交わりを深めるものです。キリストを愛する人が復活したキリストを信じ、信仰の内に神様に出会う者です。
1.歴史の中で実現した超越的出来事であるキリストの復活
1)空の墓が証しするキリストの復活
「週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。そこで、シモン・ペトロのところへ、また、イエスが愛しておられたもう一人の弟子のところへ走って行って彼らに告げた。「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません。」そこで、ペトロとそのもう一人の弟子は、外に出て墓へ行った。 二人は一緒に走ったが、もう一人の弟子の方が、ペトロより速く走って、先に墓に着いた。身をかがめて中をのぞくと、亜麻布が置いてあった。しかし、彼は中には入らなかった。 続いて、シモン・ペトロも着いた。彼は墓に入り、亜麻布が置いてあるのを見た。イエスの頭を包んでいた覆いは、亜麻布と同じ所には置いてなく、離れた所に丸めてあった。それから、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来て、見て、信じた。イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである。それから、この弟子たちは家に帰って行った。」(ヨハネ20章1-10節)
週の初めの日、朝早くキリストの遺体に油を塗って清めに行った婦人の三人は、空の墓を見て、キリストの遺体が運び出されたことを思い込みました。その報告を聞いた使徒ペトロとこの福音書の著者である「もう一人の弟子」、使徒ヨハネは、キリストの墓に走って行きました。空の墓の様子を見た使徒ヨハネは、「信じた」と告白します。なぜなら、キリストの遺体がなく、遺体を覆う亜麻布と頭を包んだ覆いが別々の所にあったので、キリストが運び出されたなら、亜麻布と覆いとを一緒にしたに違いありません。イエス・キリストは、起き上がり、死に属する物を脱いで死の門を超え、御復活なさったと、二人の弟子は判断することができました。二人は、御復活のことが理解できなかったという時点で復活の信仰が誕生しました。その信仰は、聖書に書いてあるとおり、またキリストの言葉どおりである出来事だったという判断に基づいてのものでした。
2)傷痕によって識別される復活のキリスト
「十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」(ヨハネ20章24-28節)
使徒トマスは、キリストに対する信仰を自分の理性の限界の中で御復活を信じようとしましたので、他の人の証しではなく、体験によって信じたかったです。福音の知らせを受ける所から信仰が始まるので、キリストは彼に、「見ないで信じる人は幸い」という注意しておられました。以上の福音箇所は私たちの信仰のために、次のようなメッセージを送ります。
御復活なさったキリストは、部屋の戸が閉じたままでしたが、弟子たちの真ん中に現れました。キリストの復活は、前の人生に戻るものではなく、その体は、聖霊の力に満たされて別の命に移り、時空には置かれず、この世の次元を超えて、望む所と時に思いのままに存在するようになりました。御復活なさったキリストは、亡霊ではなく、十字架につけられた特徴となる体の傷痕が残り、同じ身体を持っていました。弟子たちにお遇われになった時に、キリストは、御自分の顔の特徴ではなく、手と脇腹をお見せになりました。弟子たちはキリストに触れ、食事を共に食べることもできたのです。キリストは、復活した最初の人間です。イエス・キリストは、神様の前に全人類の代表です。(ルカ24章42節)
御復活なさったキリストの最初の言葉は、「あなたがたに平和があるように」です。人間にあらゆる恐れを与えるのは、罪と死です。キリストは十字架の死によって世の罪を赦し、復活を持って死に打ち勝ちました。私たち皆は御復活の信仰によってキリストの平和を生きることができます。復活のキリストに出会った使徒トマスは、「わたしの主、わたしの神よ」という信仰告白しますから、私たちも教会の交わりの中で同じ信仰に招くのです。
3)パンを裂くことで分かる復活したキリスト
「イエスは言われた。『ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。』そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された。一行は目指す村に近づいたが、イエスはなおも先へ行こうとされる様子だった。二人が、『一緒にお泊まりください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから』と言って、無理に引き止めたので、イエスは共に泊まるため家に入られた。一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。(ルカ24章25-31節)
キリストの復活を信じなかったエマオの弟子たちの二人(ルカ24章13-31節)は、故郷に戻る最中、旅人の姿をもってキリストに出会い共に歩き出したが、彼らは、自分の悩みのうちに落ち込み、御自分について聖書全体に書かれている言葉が実現したことを説明して貰ったにしても、イエス様だと分かりませんでした。キリストが泊まる場所でパンを裂いて賛美の祈りをささげた時に復活したキリストに気付きました。その姿が見えなくなったことは、ご復活なさったキリストがパンの秘跡の中に現存する信仰を持つためです。また、日常生活においてもキリストの復活を生きるとは、与える愛をもって神様から頂いた賜物を分かち合って人を生かしていくことにあると、教会は信じています。
2.御昇天なさったキリスト
「 主イエスは、弟子たちに話した後、天に上げられ、神の右の座に着かれた。 一方、弟子たちは出かけて行って、至るところで宣教した。主は彼らと共に働き、彼らの語る言葉が真実であることを、それに伴うしるしによってはっきりとお示しになった。」(マルコ16章19~20節)
御復活の後、イエス。キリストは40日間、弟子たちに現れ、彼らと共に食べ飲みをし、全世界の人々に福音を宣べ伝え、洗礼を授け、御自分の弟子にするように派遣しました。そしてキリストは、彼らの前に体と共に天に昇られました。神の子としてというよりも、最初の人間として天に昇られました。秘跡によって、キリストと一致している人々は、キリストの神秘体として天国に入ることができます。ここに人類の救いの完成があります。
「神の右の座」に着かれるとは、神として栄光を受けられたということです。このようにしてキリストによって、人間性は三位一体の交わりに加わりました。したがってキリストの内にすべての人は神様と一つに結ばれることができるのです。
「十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。 そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。イエスは、近寄って来て言われた。『わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。』」(マタイ28章16-20節)
キリストは、御昇天の直前に、御自身が天と地の主であることを言い現しました。イエス・キリストが、御昇天の後に、弟子たちが授ける洗礼と宣べ伝えるみ言葉の内に現存し、世の終わりまで君臨すると言い残してくださいました。教会の信仰生活は、キリストと一致して約束された天国への旅です。神様においては、世の救いが完成されました。人間側では、悪との戦いが世の終わりまで続きます。必要とされるのは、人間が自由意志を持ってキリストによる救いに与り、その愛に答えて自分のすべてを神様に委ねることです。悪との戦いの中で、教会はキリストが約束してくださった再臨を待ち望み、早めてくださるように、「マラナタ(主よ、来て下さい)」(一コリント16章22節)と祈ります。
3.生者と死者を裁くために来られるキリスト
「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、羊を右に、山羊を左に置く。そこで、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』すると、正しい人たちが王に答える。『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』 そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』」(マタイ25章31-40節)と。
人間となって人の罪のために受難を受けられた神の子キリストは、人間を裁く権利があります。世の終わりにキリストが再臨し、すべての人を裁かれると聖書に書いています。上記のキリストの言葉によりますと、洗礼を受けていなかった人も、その善い行いによって救われる可能性があると言います。しかし、神様を知っても与えられた恵みを拒んだ人は、その罪の故に山羊のようにより分けて永遠の罰を受ける可能性があると言われました。別の聖書箇所でキリストは御自身について、「御子は裁くためではなく、救うため」(ヨハネ3章17節)に来られたと言われました。罪を犯してキリストは我々を憎んだり、妬んだりしません。キリストの愛はゆるぎないものです。神様の恵みを拒絶する者は、自分を裁いて愛の霊を拒否することによって自ら永遠の罰を選ぶことになります。神様がすべての人に託した愛の霊に答えて生きる人は、キリストと共に永遠に君臨することができると教会は信じています。
結び。 最後の晩餐の時(ヨハネ16章)に、イエス・キリストが弟子たちに御自身は御父のもとに昇って行き、御父のもとから聖霊を遣わしてくださることを次のような言葉を持って約束してくださいました。
「実を言うと、わたしが去って行くのは、あなたがたのためになる。わたしが去って行かなければ、弁護者はあなたがたのところに来ないからである。わたしが行けば、弁護者をあなたがたのところに送る。その方が来れば、罪について、義について、また、裁きについて、世の誤りを明らかにする。罪についてとは、彼らがわたしを信じないこと、義についてとは、わたしが父のもとに行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなること、また、裁きについてとは、この世の支配者が断罪されることである。言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今、あなたがたには理解できない。しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである。その方はわたしに栄光を与える。わたしのものを受けて、あなたがたに告げるからである。父が持っておられるものはすべて、わたしのものである。だから、わたしは、『その方がわたしのものを受けて、あなたがたに告げる』と言ったのである。」(ヨハネ16章7-15節)
こうして弟子たちは御昇天の後に、聖霊が降るまで9日間エルサレムで祈りの内に留まりました。
メッセージ - C年 降誕節 |
テーマ:「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」
ルカによる福音は、初めにイエス・キリストの誕生の次第を紹介し、そして、青少年時代について、「両親に仕えてお暮らしになった」(ルカ2,51)と書き記しています。本日の福音は、大人になったイエス様を紹介します。凡そ30歳になったイエス様はヨルダン川で洗礼者ヨハネから洗礼を受けられました。その時からイエス様の人生は全く変わりました。青少年の時代のイエス様は、神の子、救い主の生き方ではなく、私たちと同じような人生を送っていました。保護者の聖ヨセフは、大工として、イエス様を自分の子供のように育てたので、少年イエス様に大工の仕事をさせたに違いありません。地域社会の人々も、きっと、イエス様が大工になることを期待していたことでしょう。しかし、洗礼の時に、神様がイエス様に、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言われたので、この瞬間から、イエス様は、人の思いではなく、神様の御心にしたがっての生き方に変えてくださいました。私たちは今日、主の洗礼の祝日にあたってそれを祝います。
カトリックの洗礼は殆ど、水の注ぎによって授けられています。それは、神様の子供とする聖霊の注ぎを表現する式です。ところで、原文のギリシャ語では、洗礼のことを「バプテスマ」と言います。それは、「浸す」、「沈む」や「つける」などの意味を持つ言葉です。いわゆる、それは今までの古い生き方を水に沈ませて終りにし、新しい出発をすることを促しています。キリストは、このことを種の例えをもって説明します。「一粒の麦は地に落ちて死ななければ一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」(ヨハネ12,24)と。人間は地上の生活の中で、洗礼によって自我に死に、神様の御心にしたがって神の国の一員となる恵みを受けます。キリストの洗礼こそは、私たちのために模範となりました。
人を愛するためにその期待に応えて奉仕し、自分を尽すことは、尊いことです。しかし、自己愛のためや人から誉れを受けるために、人間は、神様ではなく、この世の目を伺って悪にしたがって人生を送るようになります。もしかすると、何十年前に洗礼を受けた私たちは、この世の価値に誘惑されて何度も罪を犯して「古い自分」に戻ってしまったこともあるかもしれません。「古い自分」とは、人祖アダムとエヴァの罪の後遺症によって人間らしくない歪曲された自分です。アダムとエヴァの罪は、自我を優先にして神の愛と御心を拒んだことにあります。それは、彼らの恥となりました。その罪は世々にわたって、人間の本性に原罪という罪深さを負わせるものとなりました。「古い自分」は、アダムとエヴァのように自己中心で、傲慢のために自分を良く見せようと思って、優越感と劣等感を持ったり、嫉妬や恨みなどの罪に悩まされて、悪を行う者です。人から誉れを受けるために自分の悪い側面を隠そうと思って、私たちは、「偽りの自分」を作り上げます。その偽りが暴露してしまうことを常に恐れて、不幸な生活を送るようになってしまいます。
主の洗礼の祝日は、洗礼の時からキリストが御父のみ旨にしたがっての「新しい人」となられたように、私たちの一人ひとりが洗礼を受け、自我に死に、「古い偽りの自分」を終わらせて、御心に適う「新しい自分」を三位一体の交わりの中で作り上げ、神様の愛と平和の内に幸せに生きるような、神の子どもとしての人生に招くお祝いです。
メッセージ - C年 降誕節 |
(ルカ2,41-52)
「イエスは言われた。「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか。」ルカ 2,48-49
イエスがその生みの母であったマリアに向かって語った言葉、例えば「わたしの母、わたしの兄弟とはだれか。・・・見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ。」(マコ3,33-35)という言葉を読むと、イエスは孝行息子ではなかったとか、血の繋がりを大事にされなかったというような印象を受ける人がいるようです。
しかし、もしそれが事実であったならば、イエスは34年間の生涯の中の30年間も家庭生活をされたのでしょうか。決してそうではないはずです。やはり、人生の凡そ90%を家族にささげたイエスは、家族の生活は非常に大事であるということを示したと思います。
考えてみれば、非常に多くの場合、血の繋がりがあっても、犬猿の仲の関係に生きる人が多くいます。自分の野心や欲望を優先して自分の子どもに対する責任を怠ったり、または、子どもを虐待したりする親がいたら、自分の両親を敬わずに、ただのいろいろな援助や資金の源としてしか見ない子どもも沢山います。家族の中でいろいろな問題が世代から世代へと伝わることも珍しくないのです。
イエスが聖母マリアに語った言葉によって、血族関係が大切であっても、何よりも大事なのは、神との関係であるということを教えています。神は、私たちの幸福を妬むような恋がたきではなく、すべての人が互いに愛し合うことを求めておられる天の父であり、愛の源です。ですから、神との関係を何よりも大切にするということは、他の人間関係を犠牲にするということではなく、神から真の愛をいただくことによって血族関係を含め、あらゆる人間関係を癒していただくということなのです。
メッセージ - C年 待降節 |
第一朗読:ミカ5,1-4
第二朗読:ヘブライ10,5-10
福音書:ルカ1,39-45
この世を旅するキリスト者たちは、イエス・キリストによって救われた神の国の民として聖霊のうちに生き、キリストの言葉に従っていつも再臨を待っているので、この時代が終末的な時であるという強い確信を持っている。来臨を待つ間も、私たちは日々普通の生活を営み、心の中で神の不思議な業を思っている。そして、二つの「愛」の掟に基づいて隣人と関係し、唯一の神に感謝している。まず、神の子は人間の体をもつ幼子としてベツレヘムの町(ダビデの町とよばれる)に、予言者の言葉のとおり(ミカ5,1)、神の救いの計画を実現するために生まれた。始まりがなく限りもない神は、始まりがあり限りのある人間となり、罪というただ一点を除いて、人間と変わらない生活をし、自らの受難(ヘブライ10、10)により、罪の奴隷として存在する人間を開放した(ミカ5、3-4)。ユダヤ教の律法によれば、人間の罪を許す権利がある方は神だけであり(ヘブライ10,1-4)、自分の罪が許されるためには神にいけにえを捧げなければならないが、人間が救われるように(すべての人間のすべての罪が許されるように)イエスは自分の人間の体をいけにえとして捧げた。父である神の御旨を行うために、イエスは人間の姿を帯びてベツレヘムで生まれた(ヘブライ10、7)。このことが理解できるのは、信仰を持っている人々だけである。信仰を持つということは、聖霊のうちに生きることである(マルコ2、41)。それは神に感謝する人(マルコ2、42)、神の言葉を信頼する人(マルコ2、45)、神の業の前に頭を下げる人(マルコ2、43)を意味する。この様な人々は幸いである。