メッセージ - B年 復活節

 

 

「わたしの主、わたしの神よ」

 

ヨハネによる福音に基づくと、弟子たちに現れた復活したキリストの出来事が五つの特徴があります。

①          復活したキリストは、戸が閉じられた広間にいた弟子たちの真ん中に立つこと。

②          復活したキリストの最初の言葉は、「あなたがたに平和があるように」であり、それを繰り返し言われたこと。

③          復活したキリストは、弟子に御顔よりも、手と脇腹にあった傷痕をお見せになったこと。(使徒トマスに触れさせたこと。)

④          復活したキリストは、弟子たちに息を吹きかけて聖霊を受けさせたこと。

⑤          復活したキリストは、十字架上で成し遂げた罪の赦しを執行するために弟子たちを派遣したこと。

 

復活したキリストの現存を表現するこの五つは、どんな時代にもどんな所でも、典礼の中で秘跡の内に(特に御ミサの内に)実現し続けるのです。

1)キリストは、「二人または三人がわたしの名によって集まる所には、わたしもその中にいるのである。」(マタ18,20)と約束されました。私たちは、共に祈る時、御ミサに参加する時にキリストも共にいます。

2)復活したキリストが弟子たちの裏切りと罪などについて触れることなく、彼らを平和と喜びで満たすために来られました。同じように今も、悪いものを恐れ、病気、死や失敗などを恐れ、また弱さや罪深さのために神様を恐れる私たちにキリストが平和を与えるために来られます。

3)キリストの現存の識別は、御顔ではなく、十字架につけられた傷痕です。イエス様は、すべての人間のために、そしてすべての罪の赦しのために十字架につけられた救い主であることを示します。無償であり無条件である死に至るまで成し遂げられた最大な愛を実現したキリストは罪と死を滅ぼし、御復活の内に愛と命の勝利を成し遂げ、これに与るように私たちを招いてくださいます。特に御ミサの中でキリストは、同じく「これは、わたしの体」であることを示します。私たちは、キリストに触れて聖体拝領の中でキリストと一つになる恵みを受けます。

4)神様は土でアダムの創造の時に、人間が生きるために、「その鼻に命の息を吹き入れられた」(創2,7)ように、御復活なさったキリストは、弟子たちに命の与え主である聖霊を受けさせました。これに続き私たちも、洗礼の秘跡を初め、多くの秘跡と典礼を通して死すべき罪人の私たちにも、キリストは御父から聖霊を豊かにお与えになります。

5)この恵みを生きるために、私たちはキリストによって十字架上で成し遂げられた罪の赦しと、御復活による命の勝利を、人を赦すことによって、キリストの救いを広めるために弟子たちを派遣しました。入信の秘跡を受ける私たちも遣わされています。

 

私たちは、キリストが成し遂げられた御復活の五つ局面を生きているでしょうか。キリストの死と復活の証し人となるために、12使徒に倣って恐れと不安を捨て、キリストの愛に触れて聖霊を受け、使徒トマスに従ってキリストに、「わたしの主、わたしの神よ」という信仰を告白しましょう。

 
メッセージ - B年 復活節

 

朗読: 出エジプト12・1-8,11-14

一コリント11・23-26

ヨハネ13・1-15

 

聞いた話ではありますが、私の故郷インドネシアのフロレス島のとある田舎の教会での聖木曜日の洗足式の時に、主任司祭は参列した信者の中から適当に子供から老人まで12人を選んで、彼らの足を洗いました。順番に一人一人の足を洗って、最後の人の番が来ました。普段教会にあまり来ていない一人の老人でした。司祭がしゃがんで老人の足を洗おうとする時に、彼は自分の足を引いて、手を差し出しました。足ではなくて、手を洗うように合図しました。素朴な老人は、普段も裸足で生活し、その日も3キロ離れた村から裸足で歩いてきました。自分の汚い足を主任司祭が洗うのはどうしても抵抗があったようです。ミサ中で、皆が見ている前で老人を説得する時間がなかった主任司祭は老人の手を洗いました。

最後の晩餐でイエスが洗ったのは弟子達の足です。手や頭、体の他の部分ではなく、足です。いつも地に着いた足です。赤土でホコリが立ちやすいパレスチナでは、なおさらのことです。そのため、当時のオリエント社会では、旅をした人や宴会につく前に客の足を洗う習慣があったのです。とは言え、足洗は奴隷がやることです。弟子たちにとって、師であるイエスが自分たちの足を洗うことは異例なことで、それに抵抗があって当然です。「先生が私の足を洗うなんて、とんでもないことです」とペトロは強く反発しました。しかも、その時にペトロが使っているギリシア語の表現は、モノゴトを否定する時の最も強い表現、神に誓う時にも用いられる表現です。「神に誓って、何があっても、永遠に、絶対にあなたが私の足を洗うことはない」というニュアンスでペトロは自分の足がイエスに洗われるのを強く否定しました。しかし、イエスはペトロを説得しました。「あなたの足を洗わないなら、私とあなたとは何のかかわりもないことになる」。正確には、「私があなたの足を洗わないなら、あなたは私から何の遺産も受け継がないことになる」。イエスが言う「遺産」とは永遠の命です、十字架上で示されたイエスの愛です、ゆるしです。ペトロがイエスから受け継いだ遺産、それはペトロが自分の弱さから立ち上がるために不可欠なイエスの愛です、ゆるしです。

そうです。人間は愛されることで愛を学び、ゆるされることで人を赦すことを学び、成長していくのです。残念なことに、私たち人間の互いへの愛とゆるしはいつも限界があります。私たちがお互いに自分の最も汚い部分を人に触れてほしくない、人に知られたくないです。愛を失うこと、赦してもらえないのが怖いからです。自分の汚い部分をさらけ出せるのは、無条件に受け入れてくれる、無条件に愛してくれる人にしかできません。私の最も汚い自分を無条件に受け入れてくれる人だけが本当の意味で私の足を洗う人です。本当の意味でホコリにまみれた弟子たちと私たち一人一人の足を洗うのは主だけです。主は清くならないユダの足でさえ洗ってくださったのです。パン切れを受けてから、背中を向けて暗闇の中に出ていったユダの足でさえ主は洗ってくださったのです。

主に洗われたものとして、主に無条件に愛されたものとして、主にゆるされたものとして、主に生かされたものとして、私たちも主の模範にならい、互いに足を洗い合う、弱さや足りなさを含めて互いに認め合う、互いに許し合う、互いのために日々生きていく決意を新たにしたいものです。

 
メッセージ - B年 四旬節

 

朗読: 第一朗読 イザヤ50:4-7

第二朗読 フィリピ2:6-11

福音朗読 マタイ27:11-54

 

第一朗読に、預言者イザヤは、異国の地で強制労働に明け暮れた末、シオンの町に帰還した民に向かって、「主なる神は、弟子としての舌をわたしに与え、疲れた人を励ますように、言葉を呼び覚ましてくださる」と告げました。疲れ果てた民を励ます「神の僕」とはいったい何ものなのか。自分を打とうとするものに背中を任せ、ひげを抜こうとする者に頬を任せ、顔を隠さずに、嘲りと唾を黙って受けるこの「僕」とは、いったい誰なのか。何のために?また、全てを耐え抜く力はどこから来るのだろうか。

マタイ福音書の受難物語はその答えが教えてくれるのです。マタイにとって、イエスこそがその忠実な「神も僕」である。ピラトの前に、侮辱されて、いつわりの証言で訴えられても黙っていたイエス。着ているものがはぎ取られて、侮辱の赤いマントを着せられても黙っているイエス。叩かれ、唾を吐きかけられても、黙っているイエス。預言者イザヤが語っている忠実な僕はモーセやその他の預言者ではなく、預言者イザヤ自身でもなく、「神の身分でありながら、神と等しいものであることに固執しようとは思わないイエス」にほかなりません。

しかし、なぜ神の子イエスが人間となって、しかも十字架の死に至るまで自分を無にしたのだろうか。その答えは一つしかない:人間を救うため。罪の暗闇の中に閉じ込められている人間を救うため。自分ではもうどうしようもできない私たちを救うために、イエスは十字架の上で自分の命を明け渡したのです。息を引き取られる前に、イエスは「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫びました。この叫びの中に、イエスが耐えた苦しみがその極みに達したことが分かります。それでも、イエスは十字架を捨てることはなかったのです。人々の期待通りに十字架から降りて自分を救うことのできるものが「神の子」ではありません。イエスの死から言えることは、死なないものが「神の子」ではなく、人のために死んで復活するものが神の子なのです。

 
メッセージ - B年 四旬節

 

(ヨハ12,20-33)

 

「キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれました。そして、完全な者となられたので、御自分に従順であるすべての人々に対して、永遠の救いの源となり(ました。)」ヘブ 5:8-9

 

「自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。」(ヨハ12:25)というイエスの言葉の意味を表わすために、それを「自分のことを何よりも大切にする者は、自分の滅びを招きますが、自分よりも、誰かを大切にする人は、生かされる。」という言葉に変えることができると思います。

 

「自分のことを何よりも大切にする者」とは、誰のことでしょうか。それは、自分の楽しみや満足、つまり自分の要求を満たすために利用できるもの、たとえば物資、植物、動物、人間など何でも利用し、そのものに何らかの害を与えているかどうか、また、そのものを滅ぼしているかどうかと全然気にしない人のことです。要するに、「自分のことを何よりも大切にする者」とは、自分さえ良ければいいと思っていて、誰をも愛していない人のことです。このように生きている人は、意識しなくても、「この世の支配者」と言われたサタンの望みに従いますし、サタンに仕えていますので、この生き方を変えない限り、サタンと同じ運命にあずかるようになっても驚くべきことではないでしょう。

 

人間は、誰かを愛するようになれば、何よりも、自分の要求を満たすことさえよりも、他者の善を求めます。そして他者の善のために実際に全力を尽くしているのです。この人は、必要に応じて愛する人のために、苦しみを受けることや自分の命を献げることができますので、それを意識しなくても、実際にイエス・キリストのように、つまり愛である神の望みに従って生きていますので、イエスと共に、神の命にあずかっているのです。

 

自分の命、自分自身よりも、大切にする誰かがいますか?

 
メッセージ - B年 四旬節

 

第一朗読:歴代誌下36,14-16.19-23

第二朗読:エフェソ2、4-10

福音朗読:ヨハネ3、14-21

 

唯一の神はユダヤの民を愛している。この愛には限りがなく、終わりがない。神に対してユダヤ人の長や祭司、市民などが犯した様々な罪をもってしても、この愛を終わらせることはできない。しかし、ユダヤ人の罪には結果が伴う。それはユダ大国が独立を失うということである(歴代36,21)。ユダ大国の国民は預言者の声を無視し、モーセの律法に注意を払わなかったからである。大国の独立を失うことは神からの罰であったが、永遠の罰ではなく、悔い改めることができるまで続く罰であった。四十年間の後、バビロニアの隷属が終わった。そのとき神はメシアとしてペルシア大国の王キュロスを送り、ユダヤ人を開放した(歴代36,22)。それはユダヤ人に対する唯一の神の愛の証であった。

唯一の神は全てのキリスト教徒を愛している。罪によって心が死んでしまった人間は(エフ2,1-3)神の子イエスキリストの受難、死と復活によって再び人間に生きた心を与えられた。ただしそれはイエスを信じている人々のことである。しかし、それだけではなく、キリスト者はイエス・キリストによって救われた者(エフ2,5.8)として天国にイエスと共に存在することが定められた。それは行いによってではなく、全て無償の神の賜である。それはキリスト者に対する唯一の神の愛の証である。

唯一の神の愛に注目する福音者ヨハネは今日の福音朗読の部分にさまざまな神の愛の証を表わしている。まず、イエスは私たちの救いのために自分の命を捧げた(ヨハネ3、14)。イエスを信じる者は、イエスによって救われた者である(ヨハネ3、15)。イエスの業は唯一の神の救いの計画のうちで、最も大切な部分である。信仰によってイエスの信者になったキリスト者は、光のうちに歩いている。この光は希望である。それはどのような希望だろうか。この世に来られるイエスの目的は、人間を裁くことではなく、人間を救うことだという希望である。イエスは愛である。神は愛である。イエスの業は人間に対する唯一の神の愛の証である。