メッセージ - B年 年間

年間第6日   (2月15日)

第一朗読:    創世記3,16-19

第二朗読:    一コリ10,31-11,1

福音朗読:    マルコ1,40-45

アダムとエバが犯した罪の結果は、すべての時代の人間に影響した。楽園的な人生が終わって、これ以降、生まれた時から亡くなる時まで人間は生活できるように働かなければならなくなった。働いても、働いても、簡単に望む実を取ることはできない。したがって、人間の頑張りには終わるところがない。それはこの世の人間の運命である。「厳しい罰だ」と思うかもしれないが、それよりも、正しいことを学ぶための一つの教育の方法だと思ったほうがいいのではないだろうか。

パウロはこう言った。「何をするにしても、すべて神の栄光を現すためにしなさい」この言葉は働くことと関係がある。すべての人間の活動は、自分や家族や国などためにではなく、唯一の神の栄光のためにされなければならない。給料のために働くのは当たり前だが、神の栄光のために働くということはどういうことか。人間の活動と唯一の神の栄光はどんな関係があるのか。もし、キリスト者だからと一生懸命に自分の仕事をしたら、この人はみんなの目の前に信じている唯一の神に対して良い証明をすることになる。人はいつも、何かしたら自分に対して証明することだけではなく、家族や会社などに対して証明する。キリスト者は唯一の神の栄光を現すために生きている。パウロは次の言葉を言った。「私も、 人々が救われるために、 自分の利益を求めず、 多くの人の利益を求め、 どんなことでも、 みなの人を喜ばせているのですから」。すべての人々を救うために働く人は神の栄光を現わすために働く人である。イエスは皮膚病の人を癒した後、エルザレム神殿の祭司たちにそれを証明することを彼に命じた。しかし、彼は祭司ではなく、みんなの目の前でイエスについて証明した。この人のような人々のおかげで、イスラエルの人々はイエスが神の栄光を現す方であると理解できるようになった。

 

 

 
メッセージ - B年 年間

マルコによる福音1章29~39節

 

「イエスは多くの悪霊を追い出して、

悪霊にものを言うことをお許しにならなかった。」(マルコ1,34)

 

この地上に生きる私たちが悪いことに直面したりします。ところで聖書は、初めからそうではなったと教えます。最初は、神が御自身を表現しようとして人を御自分に象り、御自分に似せてお造りになりました。そして、彼らを祝福しました。御手の中で形づくられた人に御自身の息を吹き入れられて永遠の命を与えました。悪霊がものを言う時まで、人間は幸せに楽園に住みました。神様は人の友であって、アダムとエヴァの間に愛における一致の喜びがありました。

悪霊が人間にものを言いますと、人はそれに聞き従ったためにその人生が苦しみと悲しみに満ちるようになって、悪い行いが目立つようになります。創世記にも在るように、アダムとエヴァは神様との関係だけではなく、互いの信頼関係も大自然との調和も難しくなります。悪霊の言葉は人間の耳に美しく響きますが、人間が神無しに自己中心と傲慢の生き方によって幸せになることを薦めます。人生の社会を眺めていると、神無しに幸せになる約束する言葉は何と多いことで、これを追い求める人も大勢います。その中で、悪霊が言うことがあります。人はそれを聞くと権力をふるったり、憎しみ合い、争い合い、妬み合い、また死ぬ悲しみに遭遇します。

イエス様がカファルナウムを訪れた時に、使徒ペトロの家に病気の姑がおり、たくさんの病人や悪霊に取りつかれている人もいました。汚れた霊に取りつかれた人を通して悪霊も言うことがありました。キリストが中にお入りになったので、人間は変わりました。人々の心に隣人愛が強くなり、病気になった使徒ペトロの姑をキリストに委ねるようになりました。イエス様が姑の手を取ることによって彼女を神様と繋ぎました。神の愛を体験した姑は、キリストと人々に自分を尽して奉仕するようになりました。キリストに触った他の病人も同様でした。そしてキリストは悪霊も追い出しました。悪霊が人間を誘惑しないように、イエス様は悪霊どもにものを言うことをお許しになりませんでした。キリストによって神様の支配がはじまり、皆は神様に耳を傾けるべきであり、神の国の到来を実現するためです。

私たちがキリストと一致して生きるならば、悪霊の言うことを聞かないことでしょう。私たちの内におられるキリストも悪霊に言うことをお許しにならず、私たちは誘惑に陥ることなく、悪から救われるのです。私たちにとってキリストがすべてであるならば、神の国が私たちの内に実現されることでしょう。

 

 
メッセージ - B年 祭祝日

 

朗読: マラ3:1-4

ヘブ2:14-18

ルカ2:22-40(2:22-32)

 

「受肉」は、イエスの誕生のみを指すのではありません。受肉の神秘は、ベトレヘムでの誕生から始まり、ゴルゴタでの受難死と復活までのイエスの人生全体をひっくるめて指す出来事です。エルサレム神殿での『主の奉献』も受肉の神秘の一連となっています。イエスは一人の人間、一人の男の子、一人のユダヤ人、一つの家族の一員として、人類の歴史の中のある時に、パレスチナという特定の場所で生きていたのです。ユダヤ人として、ユダヤ人の習慣、ユダヤ教のしきたりに従って、ヨセフとマリアは生後40日のイエスを神殿で奉献するのです。「神の子」を「神」に捧げるのです。「まことの神殿」をやがて破壊される神殿の中に連れていかれるのです。イエスは神なのに、なぜ?その答えは、第二朗読のヘブライ人への手紙にあるように「民の罪を償うために、すべての点で兄弟たちと同じようにならなければならなかったのです」。

イエスは人間となったことで神の子の輝きが消えた訳ではありません。その輝きは老父シメオンの目にも、84歳の老婆アンナの目にもはっきりと移っています。人間となったことは、神の子としての輝きを失う訳ではないことを、神殿で奉献された幼子の姿が物語っています。神の似姿として創造された一人一人の人間の中には神の子としての輝きを秘めています。たとえ罪によって、その輝きがかすんだり、けがれによって清さを失うとしても。第一朗読にあるように、聖所に来られる待望された神からの使者、主イエス、は清さを失った私たちを再び清めてくださるのです。「彼は精錬するもの、銀を清める者として座し、レビの子らを清め、金や銀のように彼らの汚れを除く」。神の子が人間となったことによって、一人一人の人間の中に秘めている神の子としての輝きを取り戻すことが出来るのです。その輝きを保つために私たちに求められるのは自分自身を常に神の前に捧げることです。

 
メッセージ - B年 年間

一年間の典礼暦の中で、待降節や四旬節また復活節といった、いわゆる「季節」と言われる時があり、その結果、残りの期間を年間と呼ぶという印象があります。しかし、注意して見ますと、年間も季節であるということがはっきりしています。これは、第二バチカン公会議の典礼刷新の結果です。従来の「年間」はTempus per annumとして位置付けられており、直訳するなら、「年間節」ということになります。この年間節は、救いの神秘全体を記念する季節、です。そして、その神秘の想起と祝いは、福音書の継続朗読によって、私たちの信仰生活を照らし励まし力づけるメッセージを含んでいます。

 

さて、B年の年間第4主日の朗読福音は、マルコ1,21-28が選ばれています。最初の弟子たちを召し出したイエスは(第三主日)、彼らと共にカファルナウムに着きます。そして、安息日に会堂で教え、人々はその教えに驚きます。それは、通常のラビがなすような聖書解釈ではなく、「権威ある者としてお教えになったから」です。何かの説明の言葉ではなく、「事を起こすことば」を語られるイエス。悪霊追放という救いの働きをそのことばによって実現されています。そして、「権威ある新しい教えだ」と人々は驚嘆します。この短いテキストの中に「驚く」という言葉がニ回使われています(原語は異なるが意味は同じ)。奇跡物語を、それを見た人々の「驚き」の動機で結ぶのはマルコ福音書の基本的な傾向であるといわれます。たびたび出る「驚く」を意味する動詞はそれぞれ異なっていますが、大きく言えば同じ意味と考えてよいでしょう。マルコ福音書の特徴の一つ、イエスは驚くべき存在である、というメッセージがすでにここに表れています。

 

悪霊という表現は時代錯誤のようにも響きますが、内容的には、現在にも現実に存在する事態です。人間が人間らしく生きることを妨げているさまざまな状況、それが悪霊という用語で表現されていると言えます。自己中心性、名誉欲、所有欲、などがそれにあたるでしょうか。そのような状況からの解放をイエスは、今・ここで実現されます。今日の感謝の祭儀で、私たちの提供される二つの食卓、神のことばの食卓とキリストのパンの食卓にあずかることで、この救いを体験することができますように、そして、この体験を「典礼の<後の>典礼」(東方典礼の用語)、つまり、日常生活に広げていくことができますように。

 
メッセージ - B年 年間

(マコ1,14-20)

「イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、『時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい』と言われた。」マコ 1,14-15

神は創造してくださった世界を人間の支配にゆだねました。(創1,28)支配の本来の意味とは、漢字が示唆している通り「支えると配る」、つまり自分の支配下にあるものを自分の利益のために利用するということではなく、その善のために力を尽くして奉仕するということなのです。神が人間から求めておられる支配とは、創造主と協力しながら、この世界を完成へと導くということです。世界を人間の支配にゆだねるというのは、創造の業にあずかるように招くということです。

残念ながら、人間は神の望みに逆らって、ゆだねられた被造物を自分の欲望を満たすために利用するようになりました。結果的に、世界は悪化して、いろいろな不正や病気や災いがこの世に入り込み、人間が神との親しい交わりと自由をはじめ、いろいろなすばらしい賜物を失いました。世界は、神が求めているような所よりも、悪霊が求めているような所になり、神が支配している所よりも、悪霊が支配している所になったということさえ言えるのです。

イエス・キリストはこのような世界に生まれてきて、その現実をよく知っていましたが、「神の国が近づいた」と宣言します。確かに、神は人間に創造の業にあずかることを求めていますが、この世界の完成、つまり、神の国の実現は人間の協力に頼らずに、神ご自身の業なのです。人間が神の招きを無視している故に世界は間違った方向に向かっても、神の国は遠ざかっているのではなく、それに近づいているということが福音、良いお知らせなのです。

近づいている神の国に入るために、私たちは悔い改める必要があります。それは、イエスに従うことによって自分の考え方や価値観や生き方をイエスが教えてくださった考え方や価値観や生き方に

変えるということなのです。