メッセージ - C年 待降節

待降節にはイエス·キリストの誕生を目指し、飼い葉桶に寝かせた美しい赤ちゃんの姿が現れるのを待っていると思います。イエス·キリストの誕生は全世界の人々、全ての時代の人々にとって救いの訪ずれとなり、全被造物を喜ばせるものとなっています。人間の歴史にとってこの救いの訪ずれは、一番偉大な出来事となり、神様がお考えになった救いの計画によるものです。私たちの考えによる「歴史を造った人」とは、偉い人、権力を持つ人、大きいエンパイアを造った人だと思っていますが、世の救いの計画を成し遂げるために神様は、小さいものとなるイスラエルの民、小さいダビデの街、若いイスラエルの娘となる乙女マリアをお選びになったと聖書の中に書いてあります。

 

今日朗読される第一朗読のミカの預言によると、イスラエルを治め、平和をもたらす方は、小さなベツレヘムの街でお生まれになると伝えられています。「エフライムのベツレヘムよ、お前はユダの氏族の中でいと小さきもの。お前の中からわたしのためにイスラエルを治める者がでる。」とあります。

第二朗読のヘブライ人への手紙は詩篇40篇を唱え、イエス·キリストは、神の御心を行うために来られ、ただ一度イエス·キリストの体が捧げられたことによって、わたしたちは聖なる者とされたと伝えて、救いは人間が備える捧げ物によるものではなく、神の御心によるものであるとはっきり伝えています。

ルカによる福音は「エリサベトの訪問」という箇所があり、現れた神の救いの計画が乙女マリアのうちに成し遂げられたと伝えています。「主がおっしゃったことは必ず実現する」と信じたからです!

 

みなさん、今週待降節第四主日を迎え、まもなくクリスマスになります。神の救いのご計画を告げた預言者たち、天使の言葉を信じた聖母マリア、神の業を証したエリサベトのことを考たら、クリスマスの真の意味を見出すことができると思います。やはり、クリスマスとは、ピカピカする飾り、懐かしい音楽、クッキーなどよりも、現れた神の救いを喜ぶ時期なのです。このようなクリスマスの喜びを持ち、お生まれになったイエス·キリストをとおして私たちに与えられた神の救いを信じ、それに与ることができますように祈り求めましょう。

 
メッセージ - C年 待降節

待降節は「主の降誕を待つ季節」と書きますが、「待つ」といっても、ただぼうっとして「待つ」のではありません。私たちは心を込めて準備して待ちます。

第二朗読のフィリピの教会への手紙(1:4-6、8-11)では、「キリストの日に備えて」愛をますます豊かにし、本当に重要なことを識別する力を身につけることが祈り求められています。

また、福音朗読(ルカ3:1-6)では、「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。谷はすべて埋められ、山と丘は皆低くされる。曲がった道はまっすぐに、でこぼこの道は平らになり、人は皆、神の救いを仰ぎ見る」というイザヤの預言(40:3-5)が引用されます。この預言の「荒れ野で叫ぶ者の声」は洗礼者ヨハネのことを言い表している、と語られますが、まさに彼は、イエスが活動を始める前に人々に悔い改めるよう宣べ伝え、イエスのために道を準備した人でした。

私たちも洗礼者ヨハネと同じように準備が必要です。イザヤ書の言葉のように、自分自身と他者を隔てている谷や山や丘をまっすぐな道にして、心を通わせ、愛が通れるようにするとき、そこにイエスがお生まれになる場所ができます。

Share

 
メッセージ - C年 待降節

この待降節第一主日から、教会は新しい年を始めますが、その福音朗読(ルカ21:25-28、34-36)の最後の言葉、「放縦や深酒や生活の煩いで、心が鈍くならないように注意しなさい」から「いつも目を覚まして祈りなさい」までの部分は、この前日、一年の最後に当たる年間第34土曜日の福音朗読で読まれたのとまったく同じ箇所です。一年の終わりでも始まりでも同じ箇所が読まれるということは、とても興味深いですけれども、それだけそのメッセージが私たちにとって大切だと示しています。

「心が鈍くならないように注意して、いつも目を覚ましている」ということは、もちろん比喩的な意味であって、「睡眠を取らない」ということではなく、「目をつぶったり、目を背けたりしない」、むしろ「目を開けている」、「注意してずっと気をつける、気を配る」、ということです。

私たちは、イエスの誕生を祝うクリスマスに、何を見るでしょうか。イエスがお生まれになった物語を見聞きして、そこにかわいい赤ちゃんが生まれて幸せな家族という、何となく暖かいイメージの他に、見ているものがあるでしょうか。宿屋には泊まる所がなく、寒く汚い馬小屋の中で生まれて、飼い葉桶に寝かせられている、貧しくなられた主イエスの姿を見ているでしょうか。その誕生は皆から祝福されたものではなく、やってきたのは律法を守らずイスラエルの神に従わないとされる外国人や、汚れた者とされ、町から離れて貧しく暮らさなければならなかった羊飼い達だけだったと気づいているでしょうか。そして生まれてからもヘロデ王に命を狙われ、代わりに多くの子供が殺された、その残酷さにも目を向けているでしょうか。赤ん坊であるイエスの姿に、十字架のイエスの姿を見ているでしょうか。

私たちも、クリスマスを祝うに当たって、美しく光る通りのイルミネーションや、綺麗に飾り付けられたクリスマスツリーや、魅力的なプレゼントや、おいしそうなケーキやごちそう以外に、目を向けることがあるでしょうか。

Share

 
テーマ - テーマ

日本のカトリック教会は毎年11月の第三日曜日からの一週間を「聖書週間」としています。今年は11月21日~28日で、「ヨセフ年」(2020年12月8日~2021年12月8日)と「『愛の喜び』家庭年」(2021年3月19日~2022年6月26日)が重なっていることにちなみ、「家庭-試練や苦境における喜びの源」をテーマとしています。カトリック中央協議会からお知らせが出されており(リンクはここ)、毎年発行されている小冊子『聖書に親しむ』のPDF版も同ページからダウンロードできます。

また、神言会の聖書使徒職委員会でも、今年の聖書週間にあわせて小冊子を作成しましたので、どうぞご覧下さい(ここをクリックすると開きます)。

Share

 
メッセージ - B年 年間

典礼暦の終わりに「おわり」すなわち「完成」について考えています。復活祭に記念し、現在化して、祝ったキリストの勝利は今の生活にも少しずつ現れていますが、最終的な勝利と支配と完成は時の終わりにしか示されません。今は「神の国」が成長し、その成長に私たちが貢献すべき時ですが、終わりの時は「神は全てにおいて全てとなる」ことを私たちは待ち望んでいます。その希望に引っ張られてでないと、私たちは前進することはできません。それよりも早く勝手に地上に完全な正義をもたらそうとしても、それはユートピアに過ぎません。

神の国(ギリシャ語で言うところの「王国」)は現代人の私たちには馴染みがないかもしれません。しかし、イエスの時代にも多く勘違いされていた概念です。王としてのイエスはこの世界のどの王や政治家や権力者とも異なります。どの皇帝や大統領にもまして、キリストは私たち一人ひとりを個人的に愛し、自分の血をもって贖っていますから。また、イエスが治める国では、力やイデオロギーやお金ではなく、無力さ、静けさ、謙遜が最も大事な手段です。イエスは何よりもまず黙って、柔和な態度に優れている王なのです(マタイ21:5参照)。証しようとしていた「真理」(ヨハネ18:37)とは言葉の力によるものではありません。その部下にして仲間である私たちも、イエスのように、イエスと共に、真理を証ししつづけるしかありません、苦しむまで。

Share