メッセージ - B年 年間

よくあることですが、今日の朗読は旧約の預言とそれに対応する新約の成就について語り、イエスという実際の模範を示しています。厳密に言えば、神を自分の民に対して代表する指導者の預言とその実現を見せられます。真の主導権や権威は自分で握るのではなく、神によって「呼び起こされる」のです。それから、イエスのように本当の権威は人々を解放しているものです。

さて、先週に続いて、イエスは神の国の到来を宣べ伝えるのではなく、それを具現しているように描かれます。言葉と行いとにおいて、力を発揮しながら、神の国の到来に寄与しています。しかし、その神の国の実現に逆らう力も存在しています。それを今日の福音は「汚れた霊」と表現していますが、悪魔だけではなくあらゆる悪意や利己心や自己中心主義も皆この世に属するものであり、この世を支配する者に従っているものに他なりません。

同時に闇にも光にも生きることはできないのですが、現実として、まだ闇に留まりながらますます光に向かって歩むことはできます。いや、それこそは我々キリスト者の使命であります。停滞することは後退することを意味しますので、(イエスから溢れ出る力で)前進するしかありません。神の国は賢い言葉や合理的な証明で広めるものではなく、それに触れるという経験で広まるものです。

偶然ではないと思いますが、このような神に逆らう力と戦う場面として安息日が選ばれています。天地創造のことをも連想させる安息日は、やはり、混沌(=無)と秩序(=存在)を分ける反面、分離・分裂を乗り越えて別れていたものを一つに集めること(すなわち神秘)を意味しています。神の偉大な業を思い巡らし、味わい、それを讃えるために日曜日以上にふさわしい機会はありません。

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メッセージ - B年 年間

先週の福音朗読、ヨハネ福音書に見られる弟子の召命物語と同様、今週の福音朗読箇所(マルコ1:14-20)でも、やはりイエスは漁師たちを弟子にするとき、彼らをご覧になって、呼びかけ、彼らがそれに応える、という召命のパターンが見られます。弟子になる人々の応え方は、ただついて行くというのではなく、それまでの生き方を捨ててイエスに従うという、新しい生き方の選択として描かれています。

シモンとアンデレはイエスに呼ばれたとき漁をしていましたが、漁師として生きるシンボルであり、漁師としての仕事に実質的にも必要不可欠で、その時もまさに打っていた「網」を捨てて、イエスに従いました。ヤコブとヨハネも同様です。漁師として必要で、そのアイデンティティでもある舟をおいて、それまでの人生で最も重要な人間関係である家族関係の象徴、父親を残して、イエスとの関係を深めていく生き方を選びます。

私たちの「召命」は、一方で「呼ばれている」「必要とされている」というものであり、また他方、自分の意思で自分の生き方において何を優先させるかを「選択する」というものでもあります。その両方を大切にしたいと思います。

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メッセージ - B年 年間

四つの福音書の中には人がイエスの弟子になる場面がいくつもあり、それぞれの召命は様々で興味深いですが、共通点もあります。召命はいつも一方的ではなく、応答です。そこには出会いがあり、呼びかけがあり、それに対する応えがあります。

今週の主日の福音(ヨハネ1:35-42)では、二つの召命物語が語られます。前半ではヨハネの二人の弟子がイエスに従うようになり、後半ではシモンがイエスと出会います。アンデレを含む、ヨハネの二人の弟子は、ヨハネがイエスのことを「神の小羊だ」と言うのを聞いてイエスについて行きますが、その後の出会いが詳しく描かれています。二人がやって来ると、イエスは「振り返り」、彼らに向き合います。そして彼らが何を求めているのかと尋ね、自分がいる場所に来て、自身の目で見て確かめるように呼びかけます。

イエスに従ったアンデレは兄弟のシモンをイエスのもとに連れてきますが、やはりイエスは彼の方を向いて、じっと見つめます。そして「ケファ(岩)」という名前を与えます。現代でもあだ名をつけるのは親しさの表れですが、それだけではなく、名前を与えるということは重要な役割を与えることでもあります。イエスはシモンに、新しい役割、新しい生き方を示し、シモンはそれに応えていきました。

共観福音書の召命の場面でもそうですが、イエスが誰かを弟子に呼ぶとき、その人を「見る」と言われているのは印象的です。イエスはまっすぐにその人と向き合って、目を合わせて呼びかけます。私たちにもそのまなざしは向けられています。

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メッセージ - B年 降誕節

どの福音書でも、イエスの洗礼は、その公生活・宣教の始まり、あるいはその前の出来事として描かれています。今週の福音朗読箇所(マルコ1:7-11)の前にあるマルコ福音書の冒頭も、洗礼者ヨハネの活動の報告(1:1-6)があり、イエスは彼から洗礼を受けた後、荒れ野での誘惑(1:12-13)を経て、ガリラヤで宣教を始めます(1:14-15)。イエスの洗礼は、福音を宣べ伝える使命の始まりでした。

そういう意味で、洗礼はイエスにとって新しい生き方を始める出来事でしたが、今日のキリスト教徒にとっても「洗礼」は、キリスト者としての、神の子としての新しいいのちの始まりとされています。主の洗礼の祝日にあたり、また年の初めにあたって、自分の生き方についてふりかえり、自分の使命は何なのかを考える機会としたいものです。

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メッセージ - B年 降誕節

福音朗読(ルカ2:22-40)は、ルカ福音書における、幼子イエスと両親がエルサレムの神殿に上った時の話です。そこで出会ったシメオンは、イエスを抱いて救い主の訪れをあかししました。同様に、神殿にいた女預言者アンナも救いを待ち望む人々に幼子のことをあかししました。彼らは聖家族と偶然出会ったのかもしれませんが、そうだとしても積極的に幼子イエスと関わりました。

マリアは、そしてヨセフも、たまたまイエスと家族になった、というのではなくて、神の御旨を求めながら、生涯をかけてイエスとの関わりを深めました。シメオンが母マリアに向かって、この子が反対を受け、マリア自身も剣で心を刺し貫かれる、と語った通りです。

聖家族のお祝いは、単にイエスとマリアとヨセフをたたえるのではなく、私たちもイエスとの関わりを通してその家族の交わりの中に入ることができる、招かれている、ということを思い起こさせます。

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