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日本のカトリック教会は毎年11月の第三日曜日からの一週間を「聖書週間」としています。今年は11月15日~22日で、そのテーマはフランシスコ教皇の日頃の言葉を受けて、「すべてのいのちを慈しむ」となっています。カトリック中央協議会からお知らせが出されており(リンクはここ)、毎年作成されているリーフレット「聖書に親しむ」のPDF形式のデータも同ページからダウンロードできます。

また、神言会の聖書使徒職委員会でも、今年の聖書週間にあわせて小冊子を作成しましたので、どうぞご覧下さい(ここをクリックすると開きます)。

 
メッセージ - A年 年間

日本語でも使われる言葉の「タレント」は、今日の福音書に出ている「タラントン」と同じ語源で、実際その同じ言葉です。字義的にはあの時代のお金の単位を意味し、1タラントンはかなり高額です。比喩的な意味では、与えられた才能や優れた能力、またはその持ち主を指しています。今日の喩え話は、賜物とそれに付随している役割と義務の分配者である神と対象である信仰者である人間との関係を描いています。取引、商売、会計報告という冷たい計算的・機械的な関係だという印象も受けかねませんが、実はその肝心なポイントは違うところにあるます。

(1)何も与えられていない人間は誰もいません。だいたい自分の可能性に合わせて賜物を与えられます。一番少ないタラントンを与えられた人間でも、当時の雇い人のおよそ16年間の給料に相当していますので、決して小さなものではありません。

(2)それぞれの人から求められるものは、他の人と比較しての何かではなく、与えられた賜物に基づいて計算されるものです。多くのものを与えられた人からはより多く求められます(ルカ12:48参照)。1タラントンをもらった人も5タラントンもらった人も、それぞれその倍だけ返さなければならないのです。

(3)神が信頼を持って与えてくださったもの(能力、時間、物財、人間関係・・・)は、ただ預かって好き勝手に使えるものではなく、それをさらに実らせるために任せられています。物語の最後の人のように、たとえ何もできなかったとしても、せめてそれを別の人に渡して、再投資すれば良いという話です。場合によって、無理してそれを増加させる必要はありませんが、少なくとも減らしてはなりません。もらった分だけ返すというのは、与えられたものに対して全く責任を感じていなかったということになります。

(4)最も大切なこととして、最後の人が叱られる理由は少ない利益を設けたからではありません。むしろ、失敗を恐れてか、挑戦しないままで持っている能力を隠して、とりあえず何もしなければ何も壊さないというふうに考えていたからです。あるいは、神を自分を隠さなければならない恐ろしいもの、気をつけなければならない管理人と考え、もらったのと同じものを返せばそれで済むと思っていたからです。しかし、何もしないよりは失敗する方がマシなのではないでしょうか。

この物語および聖書が呼びかけている神との関係(=信仰)とはそのようなものではありません。それどころか、父なる神の前では本当の謙遜を持って自分の出来不出来を認めて、受けた信頼を信頼で返し、何よりも神から与えられた使命の実行者だけではなく、その共同の管理者として、他人のものをただ関係なく預かっているのではなく、まさに自分自身のものである才能や機会を責任もって利用することへと今日改めて招かれています。

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メッセージ - A年 年間

福音朗読の「十人のおとめ」のたとえ話(マタイ25:1-13)から考えると、私たちは一人ひとりがそれぞれ自分のともし火をともし、自分の油を自分で準備する責任があります。最後の最後につじつま合わせをして人から油をもらって解決、というわけにはいかない、誰も私が主の婚宴の席に入れるよう手助けすることはできない。私たちは、結局、自分で自分の生き方について考えて、自分でどうするかを決めて、そして自分でそれを実行するかどうかの責任を負います。

しかし同時に、私たちは決して孤独ではありません。愚かなおとめたちも賢いおとめたちも5人ずついて、行動を共にしています。私は私の人生に責任があるといっても、私たちはひとりぼっちで生きているわけではありません。一緒に主の訪れを待つ同伴者がいます。

たとえ話の中では、愚かなおとめたちだけではなく、賢いおとめたちでさえも眠気がさして眠り込んでしまいます。私たちも同じです。多少人として能力や性格や業績に差があったとしても、神の目には皆変わらない、すぐに眠り込んでしまうような弱さを持った人間でしかありません。それでも、私たちはお互いに助け合いながら、励まし合いながら、油を十分に準備しているか声を掛け合って確かめ合いながら、主の訪れを待っています。

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メッセージ - A年 年間

「心の貧しい人々は、幸いである」、「悲しむ人々は幸いである」、「義に飢え渇く人々は、幸いである」、「義のために迫害される人々は、幸いである」などがそうですが、そう考えると、他の「幸い」とされている人々も、この世的な価値観からすれば苦しんでいる人のことを指しているのかもしれません。「柔和な人々」はそのために人にいいように利用され、与えてばかりで自分は失うだけの「憐れみ深い人々」や馬鹿正直な「心の清い人々」は生き馬の目を抜く世の中では損をするばかり、「平和を実現する人々」は争いが常の世界で茨の道を歩んでいる、そういう理解があるのかもしれません。いわゆる山上の説教の真福八端では、いくつもの逆説的な「幸い」が語られています。

こうした人々が「幸い」とされていますが、その「幸い」とは一体何なのでしょうか。十年、二十年我慢すれば逆転して報いがある、ということではなさそうです。「天の国はその人たちのもの」、「その人たちは神を見る」、「天には大きな報いがある」と言われているからには、現世的な利益を期待するのは無理でしょう。

それでも心を貧しく、清く保ち、柔和で憐れみ深く、義を求め続けますか?そう問われている気がします。「幸いである」という言葉は力強い慰めの表現ですが、まずはその価値観を受け入れるかどうか、という問いが突きつけられています。

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